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連載

米澤穂信「遠雷念仏」 vol.5

【連載小説】集中掲載 米澤穂信「遠雷念仏 前篇」 村重は密書を廻国の旅僧無辺に託す。 堅城有岡城が舞台の本格ミステリ第三弾! #1-5

米澤穂信「遠雷念仏」

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 夕暮れ時、西の空が不吉なまでに赤く染まる。
 村重はゆうひつに命じ、光秀への再度の書状をしたためさせた。求められた通り寅申茶壺を送るので、和談を進めてほしいという内容である。談判の内容などは詳しく書かず、詳細はこの書状を持参した僧が話す、という断り書きを末尾に入れる。全てを書状に書いてしまえば書状が敵に奪われた時に全て露見してしまうし、後日のわざわいにもなる。村重は無辺を信じていないわけではないが、家臣でも領民でもない無辺が織田方に捕らわれた時、本当に命をして書状を守ってくれるとは考えていない。書状に詳細を書かないのは当然の用心であった。
 祐筆が書状をしたため終えると、村重は、
「十右衛門を呼べ」
 と命じた。無辺が使僧の役を任されていることを知る者、察している者は城中に少なくはないが、書状の相手と談判の内実を知るのは、祐筆と郡十右衛門の二人だけである。
 ほどなく十右衛門が庭に現れ、土に膝をついた。
「お召しにより参上いたしました」
 ほどなく現れた十右衛門を見て、村重はふと疑いにかられた。ふだん、十右衛門は物に動じることはない。春の夜討ちの折でさえ、気勢を上げこそすれ、気後れする様子はじんも見せなかった。しかしいま十右衛門の振る舞いには、どこか堅さがある。
「なんぞあったか」
「は……」
「構わぬ。言え」
 命じられ、十右衛門は観念したように言う。
「は。北河原様の手勢と瓦林越中様の手勢、道でにらみ合い、剣吞にござりまする」
「切り合いか」
「さにあらず。越中様の手勢が北河原様の手勢を、開城ばかりを言い立てる腰抜け侍とののしりましたるところ、他家の手勢もそれに加わり、騒ぎになりましてござりまする。池田和泉様が兵を率いて駆けつけ仲裁いたさねば、危うき所にござりました」
「……そうか。そのようなこともあろう。十右衛門、おぬしなにゆえ言上をためらったか」
「恐れながら」
 十右衛門は言い淀むが、それはわずかな間だった。
「殿。城中はおおむね、越中様に同心しておりまする。北河原様を臆病と罵る者、意気をくじく不忠者とまで言う者、決して少なくはありませぬ」
「不忠、か」
 村重はそう呟いた。忠ということばの意味は誰もが知っているが、この有岡城で忠を口にする者がいたことにあきれたのである。村重はいけちくごのかみかつまさを追放し、池田城を乗っ取った。盟を結んだよしを見捨て、いま織田を捨てて毛利についた。これはひとり村重のみの行いではない。荒木家中が一人残らず、同じことをしている。村重は別段、おのれの振る舞いが不実なものだとは考えていない。乱世ゆえ、生き残るために誰でも似たようなことをせねばならぬ。だが、この城に忠をたてに人を罵って我を顧みない者がいるとは、ずいぶんあきれたことだ、と村重は思った。
 しかし、郡十右衛門がその話を村重に告げ知らせたことには、意味を見なくてはならない。
「十右衛門、おぬし」
 村重は心持ち低い声で言う。
「儂が光秀と和談するを、いさめると言うか」
「滅相もなきこと。それがしは……」
 十右衛門は語気を強める。
「殿に従いまする」
 そのことばは村重の耳に、己は村重に従うが、ほかの者がどうかはわからぬ、と聞こえた。十右衛門は万事控えめながら、細心さと武勇を兼ね備えた、将の器に足る武士だと村重は見ている。その十右衛門がわざわざいらざることを言うからには、思うことがあるはずだ。
 しかし村重は、それで断を翻すつもりはない。十右衛門に書状を渡す。
「城の南、そくあんに無辺がとどまっておる。この書状を届けよ」
「は。確かに」
 十右衛門は速やかに去った。逃げるようでもあった。

 村重は、無辺とことばを交わした対面の間に戻る。もとより、余人が立ち聞き、盗み聞きを出来ぬよう広々と作られた部屋である。うつろな部屋に、村重一人が立っている。
 しとねの後ろには、いくつもの木箱が並べられたままだ。木箱の中身は、むろんすべて茶道具である。光秀が物質を求めてくることを察し、あらかじめ小者に並べさせたものだ。
「だれか」
 そう声を上げると、無辺と談判していた折には下がっていた小者たちが、すぐ「ここに」と応えて障子を開ける。
「これらの木箱を蔵に戻せ。丁寧に扱え」
「は」
 小者頭が人を集め、茶道具の入った木箱を運ばせようとする。村重はそのさまを見て、命を変じた。
「いや。やはり蔵には運ぶな。書院の間に置け」
 誰も村重のことばを疑うことはなく、下命の通り、茶器は屋敷の一室へと運ばれていく。書院の間は村重が書見に用いる部屋で、家臣が立ち入らない奥の間にも近い。すべての名物を運び込ませると、村重は急事を除いて誰も近づかぬようにと命じた。
 書院の間は八畳である。さしも長い夏の日もほぼ暮れかけ、部屋の中は薄暗い。数多の木箱に囲まれ、村重はひとり、箱を開けていく。
 名にしおう「兵庫」の大茶壺、せんのそうえきから譲り受けた小豆あずき鎖、ていの色紙、もつ谿けいの「はん」の絵。よしわんうばくちがま、備前焼のけんすいなどは名物ではないが、村重の目にかなった、かたちのよい品である。
 村重は池田氏に仕える武士であった。池田氏や、その宿敵であった伊丹氏、いま村重に仕えている北河原や河原かわらばやし、村重から離れていったたかやまなかがわは、この北摂津の出である。というより、池田や伊丹という土地が北摂津にあり、そこを根拠にする国衆が池田や伊丹と呼ばれた、というべきだろうか。だが荒木という土地は、北摂にはない。村重の一族は流れ者であった。村重の父は池田家中でそれなりに重きをなす人物であったが、それとて主家をろうだんするといったほどではなく、いまの荒木家は村重が一代で築き上げたものと言ってよい。もちろん、ここに並べられた名物も、すべて村重が集めたものだ。
 村重は無言であった。やがて日は沈んでいき、頼りなく細い月が天に昇る。星明かりに茶道具が照らされ、あるものは輝き、あるものは光を吸い込む。
 どれほどの時がったか。村重は、部屋に近づく足音に気づいた。小者たちのそれではない。かすかにきぬれも聞こえる。村重は刀に手を伸ばしかけ、やめた。やがてふすまの向こうから押さえた声が届く。
「殿。おいでにござりますか」
 千代保であった。
「何用か」
「殿が書院に入られたまま人を近づけぬと聞き、差し出がましいかとは存じまするが、ご様子をうかがいに参りました」
「そうか」
 村重はそこで初めて、夜の訪れを知ったようであった。
「構わぬ。入れ」
 襖が開き、しよくの明かりが射しこむ。ゆらめく炎に照らされ、茶道具はまた違った様相を見せる。
「手入れをなさっておいででしたか」
 千代保が得心したように言うが、村重はぼそりと「違う」と言った。
「なにをしておったわけでもない。ただ、見ておった」
「さようにござりましたか」
 その千代保のことばには、訝しむ気配も、あきれる気配もない。村重の斜め後ろにそっと座り、千代保は、
「では、わたくしも見てよろしゅうござりますか」
 と聞いた。村重は何も言わなかった。
 外に向けて開け放たれた障子からはわずかに涼しい風が吹き込み、虫のすだく音も聞こえてくる。夏らしい湿り気も少し過ごしやすくなる。村重はじっと茶道具を見つめ、千代保もただ黙っている。手燭の炎が風に揺れる。
「寅申を手放した」
 と、村重が言った。笑みを含んだ声で千代保が応える。
「見えぬと思うておりました。わたくしはあれが好きでございました」
「あれが欲しいという者がおったゆえ、戦のために手放した」
「さすが、殿は広量におわします」
「広量か」
 その表面に数多のこぶを備えた兵庫の茶壺を見ながら、村重は少し笑った。
「儂は、そう言われたかったのかもしれぬ」
 村重は、去り際の無辺の顔を思い出していた。村重がつい無辺を呼び止めた時の、こわばった顔である。あの時、無辺は村重の心中を察したに違いない。村重はこう言いたかったのだ。──やはり寅申は戻せ。それがかなわぬなら、せめてもう一目だけでも見せてくれ。
 笑うべき未練である。なお恥ずべきは、その未練を悟られたことだ。
 寅申が戦のために役立つというのは確かだ。寅申を渡すことで光秀が動かざるを得なくなる、という読みが間違っているとは思わない。だが。
「求めがあれば寅申ほどの名物も惜しまず投げ出す、さすがは荒木、まつながとは器が違うとたたえる声を聞きとうて、儂は寅申を手放した。……そうではなかったか」
 松永だんじようひさひではいまを去ること一年半、うえすぎを頼んで信長にぼうはんした。上杉が来ることはなく、久秀は織田の大軍に囲まれてたちまち進退きわまった。この時、久秀がひらの茶釜を渡せば信長は久秀を赦免する、という噂があった。村重は噂の真偽を知らない。そういうこともあったかもしれぬ、とは思っている。だが結局、久秀は茶釜を渡すことなく自害し、名物平蜘蛛は炎の中に消えた。
 あっぱれ、武士の意地を張り通したと久秀を褒める者もいた。だが村重は、久秀の死にざまを何となく面白く思わなかった。平蜘蛛を渡さなかったというのが、物惜しみのように思われてならなかったのだ。武士の意地を通すというのなら、平蜘蛛は織田に渡して後世に伝えさせ、しかる後に腹を切るべきではなかったか、という気がしなくもなかった。
 おのれが寅申を手放したのは、儂は狭量ではないぞと言いたいがためではなかったか。外聞をはばかり、戦のためならば名物など惜しくもないという見栄を張るためではなかったか。であれば、寅申を手放したのは戦のためではなかったということになりはしないか。
 村重は、とうとう言った。
「儂は、寅申が惜しい。千万の兵に死ねと命じてきた儂が、おのれのものは茶壺一つが惜しゅうてならぬ。千代保、おぬしは儂を笑うか」
「笑いませぬ」
 千代保は、即座に答えた。
「このでは、愛着は既にして苦にござりますれば」
「ふ」
 と、村重は笑った。
「坊主のようなことを言いおる。一切皆空と言うても、敵は消えぬぞ」
「千代保は、殿がお心のうちをお話しくだされたことがうれしゅうござります。殿はおことばの少なき方にございますれば」
「そうか」
 村重は開け放たれた障子から、糸のように細い月を見た。
「夜も更けた。下がれ。儂も休もう」
「はい」
 千代保が手燭を持った、その刹那のことである。腹に響く音が、夜のしじまを打ち破る。
 聞き違えようもない、それは鉄炮の放たれる音であった。


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