米澤穂信「遠雷念仏」
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3
夕暮れ時、西の空が不吉なまでに赤く染まる。
村重は
祐筆が書状をしたため終えると、村重は、
「十右衛門を呼べ」
と命じた。無辺が使僧の役を任されていることを知る者、察している者は城中に少なくはないが、書状の相手と談判の内実を知るのは、祐筆と郡十右衛門の二人だけである。
ほどなく十右衛門が庭に現れ、土に膝をついた。
「お召しにより参上いたしました」
ほどなく現れた十右衛門を見て、村重はふと疑いにかられた。ふだん、十右衛門は物に動じることはない。春の夜討ちの折でさえ、気勢を上げこそすれ、気後れする様子は
「なんぞあったか」
「は……」
「構わぬ。言え」
命じられ、十右衛門は観念したように言う。
「は。北河原様の手勢と瓦林越中様の手勢、道で
「切り合いか」
「さにあらず。越中様の手勢が北河原様の手勢を、開城ばかりを言い立てる腰抜け侍と
「……そうか。そのようなこともあろう。十右衛門、おぬしなにゆえ言上をためらったか」
「恐れながら」
十右衛門は言い淀むが、それはわずかな間だった。
「殿。城中はおおむね、越中様に同心しておりまする。北河原様を臆病と罵る者、意気を
「不忠、か」
村重はそう呟いた。忠ということばの意味は誰もが知っているが、この有岡城で忠を口にする者がいたことにあきれたのである。村重は
しかし、郡十右衛門がその話を村重に告げ知らせたことには、意味を見なくてはならない。
「十右衛門、おぬし」
村重は心持ち低い声で言う。
「儂が光秀と和談するを、
「滅相もなきこと。それがしは……」
十右衛門は語気を強める。
「殿に従いまする」
そのことばは村重の耳に、己は村重に従うが、ほかの者がどうかはわからぬ、と聞こえた。十右衛門は万事控えめながら、細心さと武勇を兼ね備えた、将の器に足る武士だと村重は見ている。その十右衛門がわざわざいらざることを言うからには、思うことがあるはずだ。
しかし村重は、それで断を翻すつもりはない。十右衛門に書状を渡す。
「城の南、
「は。確かに」
十右衛門は速やかに去った。逃げるようでもあった。
村重は、無辺とことばを交わした対面の間に戻る。もとより、余人が立ち聞き、盗み聞きを出来ぬよう広々と作られた部屋である。うつろな部屋に、村重一人が立っている。
「だれか」
そう声を上げると、無辺と談判していた折には下がっていた小者たちが、すぐ「ここに」と応えて障子を開ける。
「これらの木箱を蔵に戻せ。丁寧に扱え」
「は」
小者頭が人を集め、茶道具の入った木箱を運ばせようとする。村重はそのさまを見て、命を変じた。
「いや。やはり蔵には運ぶな。書院の間に置け」
誰も村重のことばを疑うことはなく、下命の通り、茶器は屋敷の一室へと運ばれていく。書院の間は村重が書見に用いる部屋で、家臣が立ち入らない奥の間にも近い。すべての名物を運び込ませると、村重は急事を除いて誰も近づかぬようにと命じた。
書院の間は八畳である。さしも長い夏の日もほぼ暮れかけ、部屋の中は薄暗い。数多の木箱に囲まれ、村重はひとり、箱を開けていく。
名にしおう「兵庫」の大茶壺、
村重は池田氏に仕える武士であった。池田氏や、その宿敵であった伊丹氏、いま村重に仕えている北河原や
村重は無言であった。やがて日は沈んでいき、頼りなく細い月が天に昇る。星明かりに茶道具が照らされ、あるものは輝き、あるものは光を吸い込む。
どれほどの時が
「殿。おいでにござりますか」
千代保であった。
「何用か」
「殿が書院に入られたまま人を近づけぬと聞き、差し出がましいかとは存じまするが、ご様子をうかがいに参りました」
「そうか」
村重はそこで初めて、夜の訪れを知ったようであった。
「構わぬ。入れ」
襖が開き、
「手入れをなさっておいででしたか」
千代保が得心したように言うが、村重はぼそりと「違う」と言った。
「なにをしておったわけでもない。ただ、見ておった」
「さようにござりましたか」
その千代保のことばには、訝しむ気配も、あきれる気配もない。村重の斜め後ろにそっと座り、千代保は、
「では、わたくしも見てよろしゅうござりますか」
と聞いた。村重は何も言わなかった。
外に向けて開け放たれた障子からはわずかに涼しい風が吹き込み、虫のすだく音も聞こえてくる。夏らしい湿り気も少し過ごしやすくなる。村重はじっと茶道具を見つめ、千代保もただ黙っている。手燭の炎が風に揺れる。
「寅申を手放した」
と、村重が言った。笑みを含んだ声で千代保が応える。
「見えぬと思うておりました。わたくしはあれが好きでございました」
「あれが欲しいという者がおったゆえ、戦のために手放した」
「さすが、殿は広量におわします」
「広量か」
その表面に数多の
「儂は、そう言われたかったのかもしれぬ」
村重は、去り際の無辺の顔を思い出していた。村重がつい無辺を呼び止めた時の、
笑うべき未練である。なお恥ずべきは、その未練を悟られたことだ。
寅申が戦のために役立つというのは確かだ。寅申を渡すことで光秀が動かざるを得なくなる、という読みが間違っているとは思わない。だが。
「求めがあれば寅申ほどの名物も惜しまず投げ出す、さすがは荒木、
松永
あっぱれ、武士の意地を張り通したと久秀を褒める者もいた。だが村重は、久秀の死にざまを何となく面白く思わなかった。平蜘蛛を渡さなかったというのが、物惜しみのように思われてならなかったのだ。武士の意地を通すというのなら、平蜘蛛は織田に渡して後世に伝えさせ、しかる後に腹を切るべきではなかったか、という気がしなくもなかった。
おのれが寅申を手放したのは、儂は狭量ではないぞと言いたいがためではなかったか。外聞を
村重は、とうとう言った。
「儂は、寅申が惜しい。千万の兵に死ねと命じてきた儂が、おのれのものは茶壺一つが惜しゅうてならぬ。千代保、おぬしは儂を笑うか」
「笑いませぬ」
千代保は、即座に答えた。
「この
「ふ」
と、村重は笑った。
「坊主のようなことを言いおる。一切皆空と言うても、敵は消えぬぞ」
「千代保は、殿がお心のうちをお話しくだされたことが
「そうか」
村重は開け放たれた障子から、糸のように細い月を見た。
「夜も更けた。下がれ。儂も休もう」
「はい」
千代保が手燭を持った、その刹那のことである。腹に響く音が、夜のしじまを打ち破る。
聞き違えようもない、それは鉄炮の放たれる音であった。