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連載

米澤穂信「遠雷念仏」 vol.4

【連載小説】集中掲載 米澤穂信「遠雷念仏 前篇」 名器「寅申」を無辺に託した村重だが――。 堅城有岡城が舞台の本格ミステリ第三弾! #1-4

米澤穂信「遠雷念仏」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 寅申は村重が持つあまの名物の中でも、ひようと並んで広く知られたちやつぼである。形は下部が広く口に向けて狭くなる裾張りで、色合いは黄目。寅の日と申の日に市が立つてんのうで見出されたため、寅申と名付けられた。
「寅申か」
 村重が呟くのを聞き、無辺は苦い顔をする。
「かの名物、値をつければ一千貫文二千貫文ではきかぬと聞き及んでおりまする。書状を取り次いでほしくばまずは寅申を寄越せとは、斎藤殿も欲の深いことを申すもの」
 一貫出せば人が一人買える。寅申ひとつで一城に値すると言っても、決して言い過ぎではない。
 遠くから雷鳴が聞こえた。村重は無言のまま、のそりと立ち上がる。無辺に背を見せぬようはんで、自らの背後に並べてあった木箱から一つを選び出す。無辺の前に箱を置いて胡坐を組みなおし、言う。
「寅申じゃ。惟任の陣に届けてくれ」
 無辺は、しばらく言葉も出ない様子だった。目をいて箱を見つめ、やがてようようのことで言う。
「寅申。まことにござるか」
「検めるか」
 無辺は手を伸ばしかけ、ふと我に返ったように首を横に振った。
「摂津守様がこれは寅申と仰せになったもの、万に一つも誤りはありますまい。されど……」
 ことばを切り、無辺は容を改める。
「摂津守様。拙僧は仏弟子、摂津守様よりを受ける身にござらねば、異見などいたそうと思ったこともありませぬ。ただ、これはお聞きあれ。斎藤様は……いや日向守光秀様は、まことに寅申を送って来るとは夢にも思っておりませぬぞ。寅申を寄越せと言うたは、ひつきよう、拙僧を追い払う方便にござる」
「で、あろうな」
「ご承知か。いや、さもありましょうが、ではなぜ寅申をお渡しになりまする。日向守様は、有岡くみやすしと見て侮りましょうぞ」
「たしかに、侮るやもしれぬ」
 そう言って、村重はかすかに唇の端を持ち上げた。
「じゃが無理を承知で寅申を渡せと言い、まことにそれが送られて来れば、追い込まれるのは光秀よ。寅申ほどの名物の所在は、隠せるものではない。寅申をかたり取ったと噂されぬために、光秀は儂のために働くよりほかはなくなる」
 無辺は言った。
「有岡城は落ちぬと仰せになりながら、摂津守様はいておいでのご様子じゃ」
「そうよな。急いておる。丹波が落ちてからでは、信長は降伏などれまい」
 降伏が対等に受け入れられるのは、その降伏が敵にも益がある場合だけである。降ってくれて助かったと思わせることが出来なければ、降伏は拒まれるか、容れられるにしても過酷な条件を飲まされる。いま有岡城が開城すれば労せずして西国への道が開くため、村重の降伏は、織田にとっても有益である。
 しかし丹波が織田の手に落ちれば、多少遠まわりながら京から西国への道は通じるため、織田にとって有岡城の意味は軽くなる。そうなれば、対等な降伏は望むべくもない。
 また、かすかに雷鳴が耳に届く。村重は首を巡らして障子を見るが、夏の日はまぶしいばかりに照り、ふたたび夕立が来ようとは思われない。
「遠雷じゃな」
「さようにござる」
「こなたに来ねばよいが。落ちねばよいが」
「さようにござるな」
「……儂は将じゃ。雷が来ねばよいと願うだけでは足りぬ」
 それだけ言って村重は首を直す。
「御坊。有岡の開城は、ながしまこうづきのようではならぬ」
「……」
 長島城が開城した折は、逃れようとした船が鉄炮を撃ちかけられ多くの者が死んだ。上月城が開城した折は、城内に残っていた者どもが国境で並べられて磔になった。村重は思う。この乱世にはで斬りも珍しくはない。だが有岡城が長島、上月のてつを踏めば妻が、が悲しもう。
「そのための使僧、そのための寅申と心得よ。心してゆけ」
 無辺はしばらく口を真一文字に結んでいたが、やがててのひらをつき、深々と頭を下げた。
「命に代えましても、必ずや」

 有岡城への出入りは織田に見張られていて、ひそかに城を出るには夜陰に紛れるよりほかはない。必然、無辺は城内で夜を待つことになる。
 ふだん使僧としての役を命じられる時、無辺は村重の屋敷で夜を待っていたが、いまここにひとつ差し障ることがあった。このところ城内では織田の手の者が跋扈しており、それに備えるため、日が落ちると本曲輪、侍町、町家を隔てる橋の行き来は軍兵を除いて差し止め、軍兵であっても誰が通ったかを克明に書き残す決まりになっていた。城門は城のもっとも外側である町家にあるため、無辺が本曲輪で夜を待てば、橋で止められてしまう。村重が無辺を通せと命じれば番兵は従うだろうが、無用の噂を立てられかねない。
「雨露をしのげる場はあるか」
 村重が訊くと無辺は首を傾げ、
「拙僧は廻国僧にござれば、露天なりとも苦しゅうはござらぬが……」
 寅申を収めた行李をちらと見る。
「いまは、少々障りもござりましょうな」
 村重は頷いた。
「町家の南外れに、老いた出家がいおりを結んで閑居しておる。旅僧は拒まぬはずじゃ」
「されば参りましょう」
 無辺はさほどこだわることもなくそう言って、村重の前を辞そうと平伏する。村重はその行李に目をやり、
「御坊、しばし」
 と声をかける。顔を上げ、無辺は柔らかに訊く。
「なんぞござりましたか」
「いや……」
 村重は強いて、まぶたを半ば閉じた。
「大事ない」
 無辺はげんそうに眉を寄せ、それからはっと顔をこわばらせたが、そのまま何も言わずに退出する。
 雷鳴はいまだ遠かった。


「カドブンノベル」2020年6月号

「カドブンノベル」2020年6月号より


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