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連載

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」 vol.7

【連載コラム】『日本のヤバい女の子』著者による、思考実験エッセイ はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」#7

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」

第七回 「ハゲ」とか「デブ」とか「ブス」とか「チビ」とかはダメとかダメじゃないとかじゃないんじゃない



 私の顔は谷に似ている。
 友達の谷さんと瓜二つだとか、正中線に立派な滝が流れているとかではない。漢字の「谷」という字に顔立ちが似ているのだ。マンガには棒人間の首から上にそのキャラクターの名前を書くというデフォルメがあるが、私の場合は「はらだ」より「谷」と表示した方が分かりやすいくらいだ。私は自分の顔を結構気に入っている。自画像が5秒で描けて便利だからだ。

 しかし、この「谷」が他人に激しくとうされるという出来事があった。
 大学時代、私は学生劇団の大道具製作を手伝っていた。ある日、私たちは河川敷に集まって大工仕事をし、作業が一段落したのは午後8時頃だった。いつもなら免許を持っている劇団仲間に車で下宿まで送ってもらうのだが、その日は出来上がったばかりの大道具で後部座席が一杯になったため、私と友人はバスで帰ることにした。
 深夜でもなく、車も多かった。河川敷へ降りる階段からほど近いバス停で友人と談笑していると、突然、スモークフィルムを貼ったワンボックスカーが私たちのすぐそばに停まった。おもむろにスライドドアが開く。車の中には、明らかに乗車定員をオーバーした若者の集団がぎゅうぎゅうに詰まっていた。どう見ても地元のヤンキーだ。おそらく泥酔しているか、ことによると薬物を使用している可能性もあるかもしれないというくらい、全員が異様にハイだった。私と友人は本能的に「やばい」と感じ、目を合わせずにじっと直立して、頭の中で「私は電柱、私は電柱」と唱えていた。若者たちはそんな私たちを交互にながめ、もうれつなハイテンションで言った。
「ブス!!!!!!!!!!!!!!!!」
 そしてドアを勢いよく閉め、走り去って行った。閉まり切る直前のドアの隙間からゲラゲラと笑う声が細く漏れ、道路に取り残されていた。
 彼らは爆笑していたが、実際には少しも面白い話ではない。私と友人は偶然かつ幸運にも大事に至らなかっただけである。まもなく何事もなかったかのように到着したバスに乗り込み、友人はいくつか前の停留所で降りた。ひとりになった私はたった今こうして普通に暗い窓ガラスを眺めていられることに安堵し、脱力し、同時に心から驚いていた。
 人はあれほどめいていしているときでも、誰かを侮辱するために迷わず視覚情報を使うのだ。べろんべろんになってなお最後に侮辱の根拠として頼るのは、視覚情報だったのだ!
 彼らとはもちろん初対面で、その後二度と会うことはなかった。よく知らない人でも、見た目についてなら罵倒することができる。逆に、よく知らない人を罵倒しようと思ったら、見た目くらいしか槍玉にあげられないのかもしれない。

 2017年に、自民党のとよ議員が政策秘書の50代男性に暴行を加えたり、「このハゲ!」などの暴言を繰り返し浴びせたというニュースが話題になったのは記憶に新しい。テレビで繰り返し「このハゲ!」という大声が流されていて「うっ」という気分になった人も多いのではないだろうか。私は音声や再現VTRに出くわすたびに不思議に思っていた。「『この』ハゲ」という言い回しから察するに、おそらく「ハゲ」は罵倒のつもりで使われている。しかし、いったい「ハゲ」は罵倒として用いることができる言葉なのだろうか?

「ハゲ」とか「ブス」、ついでに同じ文脈で使われがちな「デブ」。視覚情報を根拠とするじよくはとても不思議だ。それが侮辱として成立するのかどうか顧みられる機会がいつの間にか失われている。
 誰かを罵るときには根拠となる確固たる事象があり、言う側・言われる側ともにその言葉にネガティブな意味があることを認識していなければならない。投げかけられる言葉は「この悪党!」とか、「この裏切者!」とか、「この恩知らず!」とか、「この役立たず!」とか、「この噓つき!」などが適している。悪党も、裏切者も、恩知らずも、役立たずも、噓つきも、その言葉自体にネガティブな要素が含まれている。「この紺色!」とか、「この曲線!」とか、「このモチモチ!」などは力不足である。なぜなら青いこと、曲がっていること、弾力があることを意味する言葉に、青いこと、曲がっていること、弾力があること以上の意味は含まれていないからだ。もしも紺色でなければ「は……? 何のこと……?」となるし、本当に紺色だったとしても「え、あ、はあ……まあ……そうだけど……何……?」となってしまう。それ以上にも以下にも、反応しようがない。

 ということは「このハゲ!」「このブス!」「このデブ!」なんかも成立しないのではないだろうか。
「ハゲ」が頭部などに毛がなく地肌が露出しているというただの状態、「デブ」が体形がふくよかであるというただの状態を指しているとすれば、「この紺色!」「この曲線!」「このモチモチ!」と同じくらい、罵るにはあまりにニュートラルな言葉である。このニュートラルな言葉を罵倒に使うには、まずは「全人類が是とする毛量」「全人類が是とするボディライン」「顔立ち」を取り決める必要がある。それから、「全人類が是とする毛量よりも毛髪が少ないこと」「全人類が是とするボディラインから逸脱していること」が悪だというコンセンサスがなければならない。全人類でいっせいに運用するルールであれば、「毛髪が何本少ない」「ボディラインが●●センチメートル以上オーバーしている」などの数値で示すことが望ましい。顔立ちについては数値で分類することが毛髪やボディラインよりもいっそう難しくなることが予測されるが、もちろん同じように「全人類が是とする顔立ちの方向性」および「その方向性から逸脱していることは悪か?」という議論を済ませなければならない(目や鼻のパーツの距離を測ればいいのだろうか?)。大変だ。大変だが、どうしても「このハゲ!」「このブス!」「このデブ!」と罵りたいのであれば仕方ない。

 価値基準のコンセンサスを得ずに視覚情報に頼った罵倒を繰り出すと、スベる可能性がとても高い。相手に何のダメージも与えられないばかりか、全く誰もいない場所に向かってパンチを繰り出し、空振りしているところを笑われる可能性さえある。がしよしひろ先生の『ゆうゆうはくしよ』でいえば、さしずめくらvs.まきはらさだ(正確には巻原を乗っ取った兄)の戦いだ。蔵馬を仕留めたと思って喜ぶ巻原(戸愚呂兄)だが、実はその勝利は蔵馬が見せた幻影であり、巻原(戸愚呂兄)は真実に気づかないまま未来えいごう、誰もいない空間で幻の蔵馬と戦い続ける……という恐ろしい話だ。私なら絶対に体験したくない。スベりたくないから。

 しかし、あのワンボックスカーに乗っていた若者たちに「あなたグルメ巻原ですよ」「スベってますよ」と言っても意味がないことは私だって分かっている。スベっていると認識している人よりも、認識していない人の方が多い場所では、「このハゲ!」「このブス!」「このデブ!」は魔法の言葉のように取り扱われ、一度発信されると無条件にクリティカルヒットしたことになり、ダメージを与えたという既成事実が作られる。その言葉が事実かどうかは言われた本人ではなく、言った方がジャッジできるルールが敷かれ、そもそも事実だったら何かまずいことでもあるのか? という最大の弱点はついぞ思い出されない。

 そういえば、以前交際していた人にある日突然「チビでハゲでデブでブスでごめん」と言われたことがあった。その時は「チビ」「ハゲ」「デブ」「ブス」と「ごめん」がどうしても結びつかず、「何を言っているんだ?」と思ってしまったが、別にその人だけが必要以上に思い詰めているわけではない。私たちはこれらの言葉がまだまだ効果的な罵倒として流通している世界に生きていて、少なからず内面化しているのだ。
 人間たるもの、他人の外見について言及してはいけません。たとえめてるっぽい内容でもダメ、勝手に肯定するのもダメ、ましてや悪しざまに言うなんてもつての外、かなり親しく付き合っている人に対してのみ、最大限おもんぱかってようやく注意深く口に出せるかどうか……。「これはどうなの?」「どこまでならいいの?」「息苦しくない?」とか言ってる時点でアウトプットできる情報は何もない。口をつぐむべし。以上。解散! ……といって全員解散できればよかった。



 言うまでもないが、もちろん「今後一切外見を気にするのはやめろ! 化粧水をつけるな! 日焼け止めを塗るな! 化粧をするな! 芸能人を全員解雇しろ!」と言っているわけではない。外見に何らかの特徴のある人が、それを資本にすること自体は素敵なことだ。特徴の方向性によってできる表現やできない表現もあれば、売れたり売れなかったりもするだろう。何も無理に全員の顔を褒めて回らなくたってよい。

 例えば、私の50メートル走のタイムは13秒台だ。きっと速く走ることが求められる職業には一生就けないだろう。私は走るスピードを自分の資本にできない。そして、「いや、そんなことはない。13秒は速い方ですよ!」とか、「速く走ることに何の価値もないよ」とか「足の遅いやつは何をやってもダメ」とか言われる必要がない。「この鈍足!」となじられても、「え、あ、はあ……まあ……そうだけど……何……?」となる。速く走れる人は速さを売りにすればいいし、速く走る必要のない人は速く走る素質がないことにがっかりしなくてもいいことが分かっているからだ。
 また例えば、私の手はとてもぼこぼこしている。ペンだこによって右手の中指の内側がふくれ、爪と骨が外側に向かって湾曲しているのだ。マニキュアを塗ると、右手中指の爪だけが平行四辺形になっているのがよく分かる。ときどき「うわっ、手きたなっ!」と言われることがあるが、こちらも「え、あ、はあ……まあ……そうだけど……何……?」となるのみである。ペンだこは何度もデッサンをするうちにできたものであり、「指をきれいにしてあげよう……そのかわり今まで練習してきた経験はリセットね」と言われたら絶対断ると思う。これからも精進してペンだこを育てていく予定である。
 こんな風に、価値基準がかみ合わないと罵倒しあうことはできない。スポーツ選手と画家は傷つけあうことができないし、手の造形こそ至高と思っている人と絵の上手さこそ至高と考えている人はお互いを殴れない(ちなみに今は「自分では気にしていないのに、思いがけず自分の外見や性質をジャッジされて困惑する」場合についてのみ書いている。早く走りたくて努力している人を「鈍足!」と笑ったり、絵をたくさん描いたというような吞気なものではない事情で外見や性質に特徴が現れている人に軽率な言葉をかけたりすることについては、もはや問題外なのでここでは取り上げない)。
 それなのに、なぜ外見についてのジャッジはこの世の全ての人間に等しく刺さることになっているのだろう。

 たぶん、「絵を描く」ことや「走る」ことよりも、「見る」ことの方が日常生活の中で執り行われる頻度が高いからではないか……と私は考えている。ルッキズムはその名の通りルックする行為から生まれる。健康な視力を持っている人は生きて目を開けていれば、まあ、見える。世界が見えるし、他人の姿形が見える。この「見る」は、外見に何らかの特徴を持ち、それを資本にしている人をお金を払って「見る」ときと全く同じ生活舞台の上、全く同じ動作で行われる。だから目の前に立っているよく知らない人までもが外見を資本にした上で自分に見せてくれている、自分はそれをジャッジできる、と思い込むのかもしれない。あるいは、自分も視覚的にジャッジされなければならないと思うのかもしれない。そして「チビ」「ハゲ」「デブ」「ブス」が絶対的な攻撃力を持つ真理の言葉だと、思うのかもしれない。

 言葉はもともと人間が考えたものである(宇宙人が授けてくれたのでなければ)。勝手に力を与えられたことになっている言葉が私たちを縛ろうとしているが、勝手に力を与えることができるなら、勝手に無効化することもできるのではないか。「見る」という簡単っぽい行為が「チビ」「ハゲ」「デブ」「ブス」という最強っぽい言葉を強化しているのであれば、それを無効化する言葉を定義し、自分の容姿を表す新しい表現を模索してみるのはどうだろう。

 私はせっかく顔が「谷」に似ているので、こんなシリーズを考えてみた。


 全く誰もいない場所に向かって「チビ」「ハゲ」「デブ」「ブス」のパンチを繰り出し、空振りしている人をこの「谷」たちが取り囲み笑っているところを想像してみる。どんどん増殖し、空間を埋めつくす「谷」。やがて「谷」さえもゲシュタルト崩壊し、「ハ」と「ノ」と「乀」と「口」の集合体に見えてくる頃には、全ての侮辱が効力を失っているといい。

つづく

「カドブンノベル」2020年6月号より


「カドブンノベル」2020年6月号

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