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連載

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」 vol.8

【連載コラム】時間を「無駄」に過ごすのって本当にダメ? 『日本のヤバい女の子』著者による、思考実験エッセイ はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」#8

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」

第八回 やっべ~、今日何にもしてない……のはダメじゃないんじゃない


 や……やっべ~。もう夜じゃん。今日、何にもしてね~。
 ということが多々ある。夏なら「まだ明るいのにもう夜じゃん……やっべ~」となり、冬なら「もう暗くなってるじゃん……やっべ~」となる。気兼ねなく出かけられる日なら「どこへも行かず無為に過ごしてしまった……やっべ~」となり、自宅で過ごすことを良しとされているご時世でも「一日家にいたんだから掃除のひとつでもすればよかった……やっべ~」となる。
 私がよく「やっべ~」となるのは、原稿を書いているときである。今、まさになっている。
 ちゃんと朝起きて机に向かっていたはずなのに、振り返ってみると5行しか進んでいない。今日一日、一体何をやっていたんだ……?

 こんな薄苦い虚無感は、たぶん、人の数だけある。
 例えば自分の仕事がまっているのにチームのための雑務をこなしている間に定時になってしまったとか、家事が山積みなのに子供が泣いて手が回らなかったとか、試験が迫っているのにページをめくったり戻ったりしているうちに日が暮れていたとか。目が覚めたら夕方で、ああ、午前中に起きていたら美術館に行けたのに……とか。昼寝しなければ本を読み終えられたのに……とか。別に何も予定はなかったけど、何かした方が有意義だったんじゃないか……とか。今この瞬間にも、今日という日の短さにがくぜんとしている人がたくさんいることだろう。
 ざっと挙げただけでも様々な「今日、何にもしてね~」があったので、次のように分類してみた。

【A-1】しなければならないことがあったが、
(1)エンジンがかからず着手できなかった。
(2)条件がそろわず着手できなかった。
(3)物理的・時間的な制限があり着手できなかった。

【A-2】しなければならないことに着手したが、
(1)エンジンがかからずほぼ進まなかった。
(2)条件が揃わずほぼ進まなかった。
(3)物理的・時間的な制限がありほぼ進まなかった。

【B-1】しなくてもいいけどやりたいことがあったが、
(1)エンジンがかからず着手できなかった。
(2)条件が揃わず着手できなかった。
(3)物理的・時間的な制限があり着手できなかった。

【B-2】しなくてもいいけどやりたいことに着手したが、
(1)エンジンがかからずほぼ進まなかった。
(2)条件が揃わずほぼ進まなかった。
(3)物理的・時間的な制限がありほぼ進まなかった。

【C】しなければならないこと・やりたいことがなく、
(1)従ってエンジンのかけどころがなく、何もしなかった。
(2)何もしなかった。
(3)物理的・時間的な制限がありどのみち何もできなかった。

 私が原稿を書きながら「やっべ~」となるのは【A-2】(2)に当たる。

 朝起きて顔を洗い、洗濯し、コーヒーをれてPCに向かい、参考資料を読み、悩み、資料の中に出てきた言葉を調べ、調べているうちに発見した本を注文し、悩み、Wordに戻ってようやく原稿を1行書き足し、エッセイを読めばひらめくかもしれないと思い立って読み、昼食をレンジで温め、ビジネス書を読めば閃くかもしれないと思い立って読み、悩み、閃きを求めて家の中をはいかいし、コーヒーを淹れ、洗濯機が止まっていることに気づいてベランダへ向かい、戻ってきて3行書き足し、菓子を2袋空け、最初に書いた行を消し、また資料の中に出てきた言葉を調べ、夕食をレンジで温め、調べているうちに思いついたネタを書き留め、小説を読めば閃くかもしれないと思い立って読み、悩み、閃きを求めて近所を徘徊し、また2行書き足し、気づくと深夜になっている。
 つまり、今日の成果は1+3-1+2=5行ということになる。
 そんなばかな! 15時間かけて5行! 寝てたのか? いや、絶対に起きていた。「考える」という行為を一日中していたはずだ。しかしどう見ても、原稿は5行しか増えていない。ショックだ。私はなんてダメなヤツなんだ……と落ち込んでくる。「ダメじゃないんじゃないんじゃない」というタイトルの原稿を書きながら「ダメだ……」と思っているなんてギャグである。

 このショックは成果が可視化されていないから起きるのではないか、と私は勝手に考えている。
 文字を書き終えたときに目に見える成果を1・0とすると、書き始める瞬間までのあれこれは1・0未満に換算される。たとえ0・2から0・8まで進んだとしても、文字という形にはならない。手元に1・0の「モノ」が見えないから、進んだ0・6に達成感を覚えるどころかまるで0のように思えて、今日を無駄にしたように感じるのではないか。

「シャドウ・ワーク」とは1980年代にイヴァン・イリイチ氏が作った、報酬を受け取らないことになっている労働を指す言葉である。家庭内の家事・育児・介護などの労働や、仕事のための通勤や自己けんさんのような、有償労働が成立するための基盤となる無償労働。一方、『シャドーワーク』(東洋経済新報社)とは2007年にいちじようかず氏ととくおかこういちろう氏が出版した「通常の業務、意思決定プロセスからは外れた、個人の自主的な意志と裁量による創造的な仕事」を促す書籍である。こちらは最適化されたルーティン業務と成熟していない評価システムを外れて、自発的にイノベーションを起こす働き方について書かれている。
 存在しないことになっていた無償労働に名前をつけ存在させ直した「シャドウ・ワーク」が、有償を担保されている安全な働き方の、さらに上位概念としての有意義有償労働「シャドーワーク」に上書きされ膨らんでいくことには、無邪気なポジティブ・シンキングを感じる。もちろん一條和生氏らは著書の中でイリイチ氏に言及しているが、それでもつい(よりによってそこかぶせてく!?)とは思ってしまう。いや、だって、思っちゃうではないか。しかし有償を担保される安全な労働環境では、「シャドーワーク」は大いに役立ち、会社員だった私は普通にお世話になった。
「シャドウ」も「シャドー」も、外から見れば「あの人、何してるのかよく分からないけど、何やってんの?」と容易に言えてしまう(しつこいようだが、「シャドー」の方には成果を出して周囲に知らしめるチャンスがある)。外から見て何をやっているのか分からない、または見えないふりをできるということは、やっている本人にとってもしばしばシャドウに感じられるかもしれない。目に見える成果に1・0という基準値がついている世界では、1・0未満を確認する目盛りがない。1・0をはじき出さなければ、なかったこととして処理されてしまうのだ。



 続いて、【B】の「しなくてもいいけどやりたいこと」について考えようと思う。
【B】の「今日、何にもしてね~」が起きる原因は【A】とそれほど変わらない。元気が出ない、たびたび中断される状況にある、材料が足りない、特に理由はないがただ何もしなかった、などなど。【A】と異なるのは、実現されなかった予定が必要不可欠ではない、+αの行動であることだ。遂行できれば気分が良くなったり、より良い状態になったり、成長したりするが、できなくても怒られないし、生活に困ることも、誰かを危険にさらすこともない。「今日、何にもして」なかったとしても損失は一切ない。それでも「やっべ~」と感じるから不思議である。
 例えば、アルバイトをきゆうきよ休ませてもらって家でぼんやりしていた、という場合には、損した気分になる心情は分からないこともない。ああ、働いていたら、今頃1000円もらえたのになあ。しかし実際には働いていないから1000円は貰えない。働いていない時間を明け渡さずに1000円を辞退しているのだから、プラスもマイナスもなく、損害はない。失ったように見える1000円は最初から手の中にない。
 そういえば高校の英語の授業で仮定法過去完了を習ったとき、私は大いに混乱した。もしもジェシーがパーティーに行っていたなら、プレゼントを貰えたのに! しかしジェシーはパーティーに行かなかった。だからプレゼントは貰わなかった。にもかかわらず「貰えた」のに……と、既に「貰い終えた」未来から過去を振り返るのはなぜだろう。国語の授業で習ったときには日本語だったために気づかなかったが、まるでジェシーが既に得てしまった(完了)取り分を失ったような、無性に口惜しさをき立てられる文章である。パーティーが開催されていた夜、ジェシーが家でNetflixをて快適に過ごして「いた」としても、つまらないデートにへきえきして「いた」としても、仕事にんで「いた」としても、最悪のけんをしてキレまくって「いた」としても、パーティーが開催された時間とぴったり同じだけ、彼女はこの世界に存在して「いた」のだから、プラスもマイナスもないはずではないか。
 ……ということが授業中に気になりすぎて、その後の先生の話が全く耳に入らず、私はものすごくアホになった。おかげで大学受験に失敗して浪人し、「もしもっと勉強していたら、現役で合格したのになあ!」と思ったのだった。

「いやいや、不本意な過ごし方をしたことで、有意義に過ごせたはずの時間とそれによる喜びを失っているだろう。それが時間を無駄にするってことだよ」という指摘があるかもしれない。そりゃあ喜びの多い時を過ごせた方が良いに決まっているが、「無駄に」過ごした時間よりも有意義に過ごした時間を常に良しとするなら、過ぎていく時間の1分1秒ごとにバリューを宿らせまくりながら生きなければならない。1時間に対していつも1時間なりの時給がつくように、1時間過ごしたらいつも1時間なりのバリューを出し続けなければならないなんて、あまりに安らげない。
 私は関西在住だが、かつて3ヶ月間だけ仕事の用事で東京()に住んだことがある。その3ヶ月の間、ずっと生きるコストパフォーマンスに行動を左右された。如何いかんせん東京は生きているだけで関西よりも金がかかる。家賃も食事代もずいぶん高い。高い金を払ってまでここで暮らしているのだから、それに見合うものを得なければ……。そんな風に考えていたものだから、日曜に昼まで寝てしまったりすると、もう最悪である。【C】の「しなければならないこと・やりたいことがない」状態なんてもってのほか、人生そのもののコスパが悪いような気さえしてくる。何かしなければ……別にしたいことは何もないんだけど、何でもいいからしなくては、時間を無駄にしてしまう……と思い詰めていた。

 しかし、そもそも時間とは本当に無駄にできるものなのだろうか。
 真に時間を無駄にしようとしたら、「せっかく時間が流れてくれているのに、人間はその瞬間に存在せず、うっかり消えていた」とかいうシチュエーションを作らなければならないのではないか。しかも人間がうっかり存在し忘れていれば、たしかに時間を無駄にはできるかもしれないが、人間が存在しないので時間が無駄になったかどうか確認しようがない。だいたい、時間が「流れる」とはどういうことだ。一体どう「流れる」というのだ。何だか分からないものを失えるのか? ローマ帝国の哲学者・アウグスティヌスだって『告白』(やまあきら訳/中央公論新社)の中で「いったい時間とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです」と言っているぞ!
 ちなみにアウグスティヌスは同じく『告白』の中で「もし何ものも過ぎさらないならば、過去の時はないであろう。何ものもやってこないならば、未来の時はないであろう。何ものもないならば、現在の時はないであろう」と続けている。

 時間は成果の焼き型に行動のタネを入れ、焼き上げてようやく可視化できる、それだけのものだろうか。く焼けても、焼き損じても、オーブンを加熱した時間は確かにあったはずなのに、焦げたマフィンとともにさっきまでオーブンの前をうきうき行き来していた瞬間ごと焼け焦げて、ゴミ箱に捨ててしまったような気がしてくる。まだ焼き上がっていないマフィンをもう手に入れていたようなつもりで、そのうきうきがマフィンの形になって戻ってこなければ、何もかも失った気分になってしまう。しかしバニラエッセンスの香りにテンションが上がって吸い込みすぎてむせたり、(前にお菓子を焼いたのはいつだったかな……)と思い出したり、トッピングを必要以上につまみ食いしている時間は確かにあったのだ。
 こんな風に熱く語っているが、私はマフィンを焼けない。昼食も夕食もレンジで温めているような人間がマフィンを焼けようはずもない。

 あーあ! もしも私がマフィンを焼けたなら、「マフィンが上手く焼けていたら、素敵なおやつの時間になったのになあ!」と言いながらコーヒーを淹れ、焦げた菓子をひたして食べたのになあ!

つづく

「カドブンノベル」2020年8月号より


「カドブンノベル」2020年8月号

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