歌舞伎町、新宿二丁目、三丁目を管轄する〈新宿L署〉。歌舞伎町のホテルで全裸女性の遺体が発見された。吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」#1-2
吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」
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扉は開けっ放しだ。廊下の
「湯船の中に半分燃えた状態の衣類がありました。女性用の下着やスカートなどで、ガイシャが身に着けていたものかと」
被害者の持ち物を処分しようとして、風呂場で火をつけたか。
「火災報知機は鳴ったんですか」
「いいえ。火が大きくなる前に、シャワーの水で消し止めたんでしょう。だから中途半端に残っている」
「ちなみにこの部屋の宿泊客は……。すみません、今更こんな質問」
村下が淡々と答える。
「一昨日から、鳥取県の母子が連泊している。死体は母親の方だ」
琴音は改めて、部屋を見回した。
大きな窓は東を向いている。歌舞伎町や新宿三丁目、二丁目エリアを一望できる高さだが、向かいの高層ホテルが邪魔で見晴らしはよくない。北側にバッティングセンターのネットが見える。職安通りを挟んだ
部屋はTOHOシネマズのゴジラヘッドを見下ろす高さにある。下から見ると大迫力のゴジラヘッドも、上から見ると頭しかないのがよくわかる。
ベッド脇の
ベッドの上は衣類や化粧品、参考書などの書籍が山積みになっていた。赤本が見える。一流大学のものだ。大学受験のために上京してきた親子だろうか。
ベッドの足先の絨毯の上に、無造作にスーツケースが置かれている。琴音はスーツケースの前でしゃがんだ。
清掃係の女性の〝スーツケースから手足が生えたよう〟は言い得て妙だった。海底の巨大な貝が、水管や足を外に出しているかのようだ。右足は持ち手のある方に投げ出されているが、左足はスーツケースの中に納まっていた。立て膝で、スーツケースの蓋を支えている。両手ともスーツケースの中に入っていて見えない。首は出てしまっている。ボブカットの髪は上品なダークブラウンに染められている。
「検死はこれからですが、後頭部に外傷が見られます」
鑑識係長が言った。
「あれで後頭部を殴られたことによる頭部外傷が死因か」
村下が電気ケトルを見た。「恐らくは」と鑑識係長が
「大型スーツケースといえど、小柄でない限り、成人女性の体を詰め込むのは至難の業だ」
「切断しないと納まらないでしょうね」
それでノコギリを買いに走ったか。
いきなり誰かが琴音の両肩を摑んだ。寄りかかるように背伸びして、室内の様子を見ている。こんな馴れ馴れしいことをするのは、六花だ。
「堂原さん、まだ巡査部長でしょ。中に入っちゃだめ」
「でも気になるものが」
「ドンキー・マジックの聞き込みは」
「ついでに聞き込みできるかもしれないじゃん。あれ」
六花が、ベッドサイドを指さした。備え付けのランプシェードとティッシュボックスの間に、筒状の白いプラスチックが転がる。巨大なリップスティックみたいだ。アルファベットのロゴが入っていた。
「ドンキー・マジックでも売ってるよね」
村下は謎の物体に目を留めたが、なにも言わずに立ち去った。規制線の脇で、木島が腕を組み、肩を揺らしている。
「琴ちゃん気をつけろよ。その女、真性レズだから」
六花がぱっと琴音から離れた。笑いながら言う。
「ひどーい。アウティングした」
「公然の事実だろ」
規制線を出た村下が、木島を注意した。
「本人が公にしていない性的指向などの秘密を勝手に言うことを、アウティングという」
「知ってますよ。何年こいつの面倒を見ていると」
木島が六花を
「アウティングで自殺した人もいる。それからレズって言葉も差別的に捉えられる。気をつけろ」
木島は黙礼し
琴音は鑑識係員に指示し、ベッドサイドの方へ板を渡してもらった。六花には再度、規制線の外に出るように注意した。彼女は木島の隣に立つ。二人は睨み合ったあと、ぶっと噴き合った。六花が木島の胸をパンチする。木島は六花の尻を叩いた。犬猿の仲ではなくただの仲良しか。平気で女の尻を叩く、女は抗議しない、とみると男女の仲かと疑いたくなるが、六花はレズビアンらしい……。
琴音はベッドサイドに近づき、プラスチックの筒を覗き込んだ。黒く汚れている。指紋採取した後だろう。鑑識係員に尋ねた。
「これ、手に取っても?」
鑑識係員は変な顔をした。琴音はつかんで顔に近づけ、よく観察する。木島が慌てた様子で言った。
「琴ちゃん、触るな」
「もう鑑識作業済ですよ。これがなんなのか、調べないと──」
「いやいや。女性が触れるもんじゃない」
「これがなにか、知っているんですか」
木島は顔を赤くした。
「えーっと。その……」
六花が真顔で言った。
「それ、オナホールだよ。使用済み」
琴音は悲鳴を上げて、それを落とした。
現場検証後、琴音はやっと新宿特別区警察署のフロアに初出勤した。四基あるエレベーターのうち二つが、ガラス張りだ。箱が琴音を高層階へ吸い上げていく。管内を広く見渡せるようになった。
ゴールデン街の古い屋根が連なる向こうには高級スーパー銭湯のテルマー湯がある。東側には花園神社の社殿の
刑事課は十一階フロアにあった。生活安全課と隣り合っている。刑事課には木島や六花のいる強行犯係に五つの班があり、他に盗犯、詐欺担当の係がある。
署長をはじめとする幹部、各課へのあいさつ回りなどしている暇もなかった。捜査本部設置のため、右へ左へ動く刑事たちで落ち着きがない。デスクについてひと休みできる空気ではない。
琴音はトイレの個室に入った。便座の蓋の上に座ってため息をつく。
所轄署に捜査本部が設置されると署員はてんてこまいだ。捜査資料を人数分準備したり、泊まり込みする刑事のために、道場の布団を干しておく。食事、コーヒーの準備など、買い出しもひと苦労だ。強行犯係は捜査に集中していればいいが、琴音は幹部だから末端捜査員たちが捜査に集中できる環境を整えてやらなくてはならない。
虎太郎が心配だった。義姉の真澄に電話をして様子を聞きたいがあまり彼女と話をしたくない。
真澄は明るくあっけらかんとした性格故か、悪気なく毒舌を吐くことがある。上から小六、小四、幼稚園児と三人の子供がいて、上の子は中学受験間近だ。
「長男にうつって受験に響いたら賠償金請求するね~」
腹立ちまぎれの嫌味なのか、冗談なのか。琴音はいつも戸惑い、考え込み、やがて被害妄想が膨らんで泥沼の思考回路に陥ってしまうのだ。
敦に連絡を入れてもらおうと、彼のスマホに電話をした。出ない。すぐ返信が来た。
〈張り込み中なんだ。あまりかけないで〉
琴音は返信する。
〈木島さんから聞いてるよ。もう送検なのに一体誰を行確しているわけ!? そもそも虎太郎が高熱で浮かされているのにとっとと出勤なんて、通院や看病がいやで逃げ出したってことだよね?〉
琴音は送信ボタンを押そうとして、手を止めた。目を閉じ、六回、深呼吸する。以前読んだ自己啓発本のアンガーマネジメント方法だ。
メールの文面を消した。夫だって大変なのだ。夫の気持ちにも寄り添う。琴音の両親は不仲だった。母は父をとても憎んでいた。そんな夫婦にはならないと心に誓って結婚し、子をもうけたのだ。
スマホのメモパッドに、打ち込んだ。
〈敦ありがとう敦ありがとう敦ありがとう敦ありがとう敦ありがとう敦ありがとう〉
夫への怒りを
初めて言葉を交わしたのは警察学校の喫煙所だった。琴音は結婚前まで、眠気覚ましに煙草を吸っていた。敦が「声、かわいいね」と声をかけてくれた。琴音はハスキーボイスだ。琴の音という名前のくせにと幼少期からからかわれていた。毎朝きっちり琴音の髪を三つ編みにして送り出していた母親からは「オカマみたいな声」と差別的な言葉で
敦はそんな自分のコンプレックスを褒めてくれた。警察学校の同期だったが教場は別で、当時は名前すら知らなかった。刑事研修で再会し、縁を感じて自然と付き合うようになった。敦はお調子者でひょうきんで一緒にいても気を使わない。酒も煙草もほどほどで、ギャンブルもしない。頼りないと思うときもあるが、それは琴音がしっかりしすぎているせいだ。
敦ありがとう敦ありがとう敦ありがとう。
捜査本部に戻る。
女子トイレを出てすぐ、
「こんなところで初日の挨拶、大変申し訳ありません。本日付で──」
ジャケットの
百三回目。
今日「ごめんね」「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ありません」を言った回数だ。記録を更新しそうだった。数えるほど病むとわかっているのに、やめられない。
捜査本部に入った。入り口に垂れ幕が張りつけられている。戒名というやつだ。
『新宿区歌舞伎町ホテル全裸女性殺害死体遺棄及びホテル従業員暴行事件』
会議室の可動式壁を刑事たちが取り外している。三百人は入れそうな広さになった。総務課や警務課の警察官も椅子や長テーブルを準備している。ひな壇の背後に日本国旗と紺色の警察旗が取り付けられていた。
村下が声をかけてくる。
「犯人が凶器を持って逃走中ということで、三百人規模の特別捜査本部になった」
琴音は生唾を飲み下した。捜査本部を幹部として率いるのは初めてなのに、〝特別〟と冠される捜査本部自体、過去に二度しか経験したことがない。
「本部からは刑事部の他、警備部と地域部にも応援要請して緊急配備の規模を広げる。機動隊からは五機と六機を出隊させる。捜査会議には来ないが、頭に入れておけ」
琴音は頷き、尋ねる。
「刑事部捜査一課からはどこの係が?」
「六係の全個班と八係三個班が入る」
ほっと胸をなでおろす。敦は来ない。
「本部御一行は捜査一課長を筆頭に
「出かけません。捜査本部設置の準備を手伝います」
「お前今日初日だろ。土地勘は大丈夫か」
正直、地図とにらめっこしただけだ。異動前に管内の隅々まで見て回る余裕もなかった。歌舞伎町やその入り口の靖国通り、
「堂原が案内する。行ってこい」
村下が
ダークスーツの群れにいて、赤いジャージの六花は目立つ。キーリングを指でくるくる回しながら近づいてくる。
「堂原が例のやつの販売元に心当たりがあるそうだ。店で聴取してくるというから、ついでに管内の土地勘をつけて来い」
「例のやつ?」
六花が「オナホール」と言った。
「男性用性玩具ですね。承知しました。堂原さん、お願いします。先に車両出しておいて」
警察官としてあるべき態度、口調を示すつもりで言った。六花は「はいはーい」と軽く応える。黒のタイトスカートの尻をぷりぷりと振りながら行ってしまった。
村下に尋ねる。
「彼女、あれでいいんですか。服装、言葉遣い、どれも警察官の服務規程から逸脱しています」
「歌舞伎町や三丁目はほかの捜査員でも回せるが、二丁目は別だ。堂原がいないとあの町は仕切れない」
「調べは令状があれば強制できますよ」
「強制と協力は違う。我々が市民に求めるのは協力であり、強制は犯罪者に対してのみだ」
琴音ははっとした。自省する。
「彼女、レズビアンだから顔がきくということですか」
村下はどこか羨ましそうに、頷いた。
「性的マイノリティをカミングアウトし堂々と組織を闊歩してるのは、堂原だけだ」
一階へ下りた。ロビーを抜ける。急ぎ足で回転扉を抜けた。待ち構えていた六花を見て、目を丸くする。
「えっ。自転車!?」
六花は荷台のついた黒い自転車に
「管内の道は狭いよ。新宿通りや靖国通りはすぐ渋滞するし、駐車場も
琴音はトートバッグを荷台に投げ入れ、自転車に跨った。電動ではない、ホームセンターで一万円くらいで売っていそうなママチャリだ。二人で
「どこから見たい?」
「一六一五に本部を迎え入れる。十六時までに戻りたいから、とりあえず例の性玩具販売店へ」
「了解。こっからチャリなら三分だよ。車だと信号待ち、駐車場探すので十五分かかる」
路地裏を出たらもう靖国通りだ。片側三車線の新宿の大動脈のすみっこを、自転車で滑走する。靖国通りが歩行者で溢れているのは歌舞伎町界隈だけだ。新宿五丁目の交差点を過ぎれば人の数が減る。六花の隣に並んだ。
「ドンキー・マジックの聞き込みは?」
「防犯カメラは令状ないと押収できないって。お姉さんの指示通り、今日の分を上書き消去しないように言っといた」
お姉さん……琴音のことのようだ。咎めようとしたが、村下の言葉を思い出し、やめた。
「店員にノコギリ買った若い男がいなかったかも聞いたよ。客が多いから覚えてないって」
「ドンキー・マジックといったら性玩具も販売しているわよね」
「それも聞いた。午前中に売れたオナホールは一個もないって。だから、二丁目のSMショップじゃないかなって。大人のおもちゃも売っているから」
新宿五丁目東の大交差点が見えてきた。靖国通りを縦に貫く
御苑大通りを渡る信号を待ちながら、六花に尋ねる。
「よく二丁目には遊びにくるの?」
「うん。私、ここで拾われたんだ、警視庁に」
▶#1-3へつづく
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