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連載

吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」 vol.1

【警察小説 新連載】〈新宿L署〉に本日着任の新井琴音警部は、息子の急病で初出勤すら危ぶまれていた。吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」#1-1

吉川英梨「新宿特別区警察署 Lの捜査官」


第一章

 自宅の防犯シャッターを開けた。暗い。
 あらことは、しいたけと三つ編みと真冬の早朝が大嫌いだった。朝、一日の始まりなのに闇。底知れぬ絶望感がある。
 毎朝、四時半に起床する。一月十三日の今朝はまだ星がまたたいていた。歯を磨きながらテレビをつける。今日は成人の日だった。華やかな振袖姿の女性たちのイメージ映像が画面に映る。琴音は三十九歳だ。自分の成人式を懐かしく思い出すような年齢でもない。顔を洗う。タオルは乾燥機の中から直接取り出して使った。
 洗濯機から電子音がした。毎朝四時四十五分に洗い終わる。夫のあつしが階段を下りてきた。目を合わせず、おはようと声をかけることもない。忙しい。夫は洗濯物を干しに二階へ上がった。
 琴音はパンを焼いてかじりながら、息子の弁当を作る。卵焼きと唐揚げには電車のモチーフのついたピックを突き刺した。
 階段を上がり、息子の部屋に入った。
ろう。そろそろ起きるよー」
 紺色のランドセルを開ける。三連休の最終日だが、三日とも夫婦そろって仕事だった。小学校三年生の虎太郎は、土曜日は公立の学童に、日曜日と祝日は駅前にある民間学童に通う。
 琴音はここのところ帰宅が遅く、学校や二つの学童の連絡帳を見ていなかった。配られたプリントや連絡帳三冊を引っ張り出す。
 学校からは三学期の給食費納入案内のプリントがあった。学年だよりではインフルエンザが流行し始めているとしらせている。クラスだよりでは宿題の指示の他、工作で使用するので空き箱を来週までに準備しておけとある。PTAからのプリントでは、学期末のお楽しみ会に参加するか否かの記入をして提出するようにとあった。公立の学童からは、三学期最終日のピザパーティの費用百八十円をおつりなく入れてくださいと封筒が入っている。民間学童のノートには着替え用の服のサイズがもう小さいので、取り換えるようにと指示があった。
 琴音はもうパンクしそうだった。
 敦が寒そうにワイシャツのボタンをとめながら、虎太郎の部屋をのぞく。
「虎太郎、大丈夫か。さっきうなされてた」
 怖い夢でも見ているのか。琴音は虎太郎を揺り起こした。ぼんやり目を開けた虎太郎のまぶたが、くっきりとしたふたになっていた。普段は琴音に似た切れ長のひと瞼だ。寝不足だったり、熱を出したりすると、敦のような二重瞼になる。
 額に触れる。学年だよりの文面を思い出す。インフルエンザが流行し始めている……。
 気がつくと、敦がいなくなっていた。大急ぎで一階へ下りる。靴がない。五時半に家を出れば職場に間に合うくせに、もう出勤した。
 逃げられた。
 朝六時になるのを待って、琴音は今日から上司となる人物に電話した。
「朝早くに失礼します。私、本日より警視庁新宿特別区警察署、刑事課長代理を拝命しております、新井琴音警部です。初日早々、大変申し訳ないのですが、息子が熱を出しまして……」

 警視庁第四方面本部、新宿特別区警察署。
 町をはじめとする新宿の歓楽街のみを管轄する、新しい所轄署だ。
 五年前、歓楽街のど真ん中にあった電力会社の変電所が二十階建てビルに建て替えられた。新宿つのはずビルというビル名の頭文字から、STビルと呼ばれる。その十階から十五階に新宿特別区警察署が入る。住所としては歌舞伎町一丁目だ。ゴールデン街の南側に隣接しており、はなぞの神社の裏手にあたる。
 かつてこの地には警視庁よつ署花園交番があった。変電所の建物の一部を間借りしているような交番だった。電力会社のビルに警視庁の所轄署が入ることになったのも、この地ではそんなにおかしいことではない。
 新宿署の管轄だった歌舞伎町、四谷署の管轄だった新宿二丁目、三丁目エリアを管轄する。地図上で見るといびつなL字になっているから、「新宿L署」と呼ばれることもある。管内にLGBTタウンとしては世界一の規模を誇る新宿二丁目が入っているということもあるだろう。
 かつては暴力団や中華系マフィアが幅を利かせていた歌舞伎町も、二〇〇〇年代に地元自治体と警察による追放運動でクリーン化された。
 代わってこのエリアをかつするようになったのは、外国人観光客だ。歌舞伎町は日本一の歓楽街として世界中のガイドブックに載っている。ホテルの数も多く、交通機関が充実しているので各観光地へのアクセスも良い。
 一方で、外国人向けの店が実は少ない。英語の看板は増えていないし、英語のメニューすら置いていない店も多い。性風俗店などは肌の色であからさまにサービスを断るケースもあり、トラブルが多発していた。
 かつてこの地を管轄していた新宿署は拠点が西新宿にある。歌舞伎町と西新宿は五本の線路が束になるJR線で分断されてしまっている。二丁目と三丁目の一部を管轄していた四谷署は新宿一丁目にあって地の利はあり、大規模所轄署に分類されるが、世界一のゲイタウンに成長した二丁目を充分に取り締まる力を持っていなかった。
 これらに柔軟に対応するために五年前に誕生したのが、新宿特別区警察署だった。異動の内示を受けたとき、琴音はおじづく一方で、たかぶりもした。
 警部という、組織幹部のスタートを二十三区内の重要所轄署でスタートできる。組織が自分に期待をかけている証拠だ。
 所轄署の中では階級が上のものは署長と副署長しかいない。横並びの課長、課長代理職はほかにも十人ほどいるから、その中では新米の琴音は立場が低い。それでも、層の分厚い刑事課は人数が多い。部下が百人近くもいる。張り切らないはずがない。
 だが、異動はズレにズレ、年明けの成人の日が初日というへんてこりんな幹部デビュー日となった。警部昇任に伴い、琴音は警察大学校で三か月学び直す必要があったが、全寮制だ。週末しか家に帰れない。虎太郎の子守を誰がするのか、その調整もあって入学も卒業も大幅に遅れた。
 しかも、赴任初日からこのざまだ。
 朝日はいつの間にか昼の日差しになっている。
 琴音はバス停でバスを待ちながら、スマホで乗り換え案内の検索をする。署に到着できるのは、正午過ぎになりそうだった。
 最寄りのもとわた駅行きの路線バスに乗る。祝日なので、バスはガラガラだ。席に座り、目を閉じた。もう一日を終えたいと思うくらい、疲れている。
 虎太郎はインフルエンザA型だった。休日診療窓口は大混雑で、高熱に浮かされる虎太郎を膝枕で寝かせながら、電話を掛け続けた。この後、虎太郎をてくれる人を探さないと、出勤できない。病児保育所はもう一杯だった。インフルエンザやノロがる冬の時期、当日連絡して預けられる施設はまずない。地元自治体の登録シッターも、あいていなかった。
 仕方なく、義姉のたけうちすみを頼った。自宅から徒歩十分の距離に、家族五人で住んでいる。実弟の敦が頭を下げてくれればいいのに、電話が繫がらない。電話を掛けるとメールだけが届く。
〈ごめんいま張り込み中〉
 敦は、警視庁本部刑事部捜査一課の刑事だ。いまは東京わんがん署管内であがった水死体の捜査で多忙にしている。
 終点の本八幡駅に到着し、JR線エリアを抜けて、都営地下鉄新宿線の階段を駆け下りる。電車に揺られること四十分、新宿三丁目駅で降りた。
 時刻は十二時前。祝日ということもあり、人出が多い。観光客らしき外国人や若者の他、家族連れもいる。
 やすくに通りを右折し、花園交番通りに入る。車線はなく歩行者の多い路地だ。
 STビルに到着した。ガラス張りの一階ロビーは三階まで吹き抜けで広々としている。正面玄関は回転扉方式だ。コンビニやカフェが入り、しやた雰囲気だった。
 マフラーを取りながら回転扉に入った。
 変な女が目に入った。
 琴音に手を振っている。待ち合わせしていた相手が来たみたいな様子だ。
 この真冬のさなかにソフトクリームを食べている。黒いダウンコートの前を開けていて、アディダスの赤いジャージと、ひざ丈の黒いタイトスカートが見えた。足元は黒革のブーツだった。ヒールが十センチ近くある。グッチのウエストポーチを肩から斜めがけにしているからか、両乳房が強調されていた。
 回転扉のガラス越しに、彼女が見える。円形に組まれたガラスのつなぎ目にその輪郭が何度でも崩れるのに、すぐまたもとに戻る。見とれた。
 回転扉を抜けた。話しかけられる。
「新井琴音さん?」
「そう……ですけど」
 彼女を頭から足の先まで見てしまう。ベリーショートの髪型は、ワックスで遊ばせているのか、手入れをしていなくてぼさっとしているのか、区別がつかない。二重瞼の大きな目は猫のように吊り上がる。口に真っ赤なルージュを引いていた。アイメイクはしていない。唇より目立つキラキラと輝いた瞳は、素のようだった。
「行こ」
 女が琴音の手を引いた。ひどく熱い手だった。ソフトクリームを持つ方の手の指に、煙草たばこまで挟んでいる。ロビーのすぐ先に喫煙所がある。
「あの、どちら様?」
 彼女に引っ張られたまま、琴音は尋ねる。
「あ、今日から部下。よろしくね」
「え? 上司、ですか?」
 そもそもこれが警察官か。
「違う違う。私の方が部下。あなたの」
 ──それ、上司に対する言葉遣い?
 琴音は言葉を飲み込んだ。初対面でいきなり部下にきつく当たりたくない。
「あの、ちゃんと、名乗ってくれるかしら」
どうばらりつ巡査部長でーす」
 ふざけている。琴音は手を振りほどいた。
「私、一旦署に顔を出してから」
「いま行っても誰もいないって。新課長代理は息子がインフルで遅れてくるから、お前が連れて来いって。待ってたんだから」
 彼女は喫煙所の灰皿に煙草を捨てた。いっきにソフトクリームのコーンを頰張る。
「どうして署に誰もいないの」
 六花はもぐもぐ口を動かし、子供みたいな顔で言った。
「殺人。みんなもう臨場してる」
 今度は琴音が、六花の手を取った。
「早く連れていって!」

 現場は歌舞伎町一丁目にある地上二十八階建てのホテル・ドーリーの一室だった。かつての新宿コマ劇場近くにある。琴音が学生時代は四方を映画館が囲んでいた。いま旧劇場前広場の突き当りは工事中だ。ホテル・ドーリーはその右手に建っていた。現場は二十七階、ツインルームの中でも最上級のデラックスルームだった。高層階行きエレベーターに乗る。
「堂原さん、だっけ」
「六花でいいよ。みんなそう呼んでる」
 言葉遣いは後で注意するとして、とにかく事件の概要を知りたい。尋ねた。
ヒトヒトニーサン、歌舞伎町一丁目のホテル・ドーリー二十七階にて、ノコギリを持った男に従業員が襲われたという一一〇番通報あり。歌舞伎町交番の警官三名が現場に駆け付けたところ、男はすでに逃走した後で、室内にはスーツケースに半分入った状態の全裸女性の遺体があった、というもの」
 琴音は腕時計を見た。十二時十分。現場検証の立ち合いに間に合いそうで、ほっとする。
「凶器を持った男が逃走中なら、緊急配備は」
「とっく」
 そっけない口調に、遅刻をとがめられたように感じる。被害妄想か。
「堂原さん。誰に対してもその口のきき方?」
 六花はまあね、と得意げに笑った。彼女とは距離を置いた方が良さそうだ。価値観や生き方の違う相手は切り捨てる。
 二十七階に到着した。琴音は防犯カメラの位置や場所を確認する。規制線の目の前で、騒ぐ中国人観光客らしき家族がいた。このタワーホテルはワンフロアに二十の部屋がある。現場となっている2717号室沿いの通路は塞がれていた。男性警官が、りゆうちような中国語でやり返している。L署には語学堪能な警察官を多く配置していると聞いた。
 六花に続き、琴音も規制線を抜ける。
むらしたさん、お姉さん連れてきたー」
 開け放した扉の前に立つ男が振り返る。スキンヘッドにスーツ姿で、口回りに無精ひげを生やす。村下ひさのり刑事課長だ。琴音の直属の上司にあたる。新宿警察署刑事課強行犯係の係長を長らく務めてきた。かつてはアジア系マフィアのヘッドですら、村下が通り過ぎると頭を下げたという。
 六花のれ馴れしい態度を咎める様子もない。村下が琴音に視線を投げた。
「村下課長、初日から遅くなってしまって大変、申し訳ありません」
「事件は待ってくれないからな」
 琴音にはずしりと来る言葉だ。
「いま鑑識が準備してる。板張ったら中入るから、君も準備しておきなさい」
 琴音は鑑識作業員から、シューカバーやキャップを拝借した。手袋は常に持ち歩いている。トートバッグから出した。
 現場は鑑識作業員以外、立ち入り厳禁だ。作業が終わっても警部補以下は、規制線の中には入れない。幹部も、板を敷いた上から現場をざっと見る程度だ。
 2717号室の先の廊下で、パイプ椅子に腰かけて頭を冷やしている若い女性がいた。ノコギリで襲われた清掃係のようだ。事情聴取しているのは、強行犯係のじましようすけ警部補だった。新天地で唯一の顔見知りだ。ほっとする。木島も気が付いた。眉だけ上げてほほ笑む。
 琴音は背後に回り、一緒に聴取を聞いた。大きな背中だ。木島は警視庁レスリングクラブに所属していて、身長は百九十センチ近い。
「清掃に入るとスーツケースがあって。人間の手足が生えているように見えました。驚いて部屋を出ようとして、若い男性とぶつかりました」
「この部屋に宿泊していた人物ですか」
 木島が尋ねた。
「そこまではわかりません……。悲鳴を上げたら、あちらもワーッと声を上げて、ノコギリみたいな銀色に光るもので頭を叩かれて」
 見たところ、ルームサービスの女性は切られていない。叩かれた部位を冷やしているだけだ。琴音は尋ねる。
「本当にノコギリでした? かなづちとかの鈍器だったのでは?」
 女性は大きく首を横に振る。
「金槌なんて振られたらいまごろ生きてないですよ。ノコギリです。平べったかったし、痛くなかったので」
「では、なぜ冷やしてるんです?」
「支配人がわざわざ保冷剤を持ってきてくれたので、使わないと悪いかなって」
 琴音は立ち上がり、誰にともなく言った。
「防犯カメラの確認はもう始まってるわよね。念のため、似顔絵も取りたい。署に似顔絵捜査官はいたかしら?」
 確認します、と木島が短く答える。琴音は慌てて取り繕った。
「いえ、木島さんに命令したわけじゃ」
 木島は苦笑いした。
「気にすんな。階級社会だよ。新井警部」
「そんな呼び方」
「琴ちゃんとはさすがに呼べねぇだろ」
 木島は今年五十歳になるベテラン刑事だ。十五年前、刑事になりたてだった敦の世話役をしていた。結婚式では仲人を引き受けてくれた。そんな恩人の階級を、琴音は越してしまったのだ。
「旦那は元気か」
 琴音はただ、肩をすくめた。
「虎太郎はいくつになった?」
「春には小四になります」
 木島は穏やかな表情ながら、琴音を見る目にれんびんがあった。敦とはしょっちゅう飲みに行っているから、家庭の様子を知っているだろう。多忙故のすれ違いで、夫婦仲がぎくしゃくしていることも。
 琴音は仲人だけでなく、夫の階級も越した。
 敦はまだ警部補だ。捜査一課十係の班長として、部下の数は四人のみだ。
「ホトケがあるなら、そうほん、立ちますよね」
 琴音はため息混じりに、木島に尋ねた。
「俺に訊くなよ。幹部のあんたの判断だろ」
「いえ……本部が来るとなると」
 夫のいる十係に招集がかかったら、琴音は捜査本部で夫を見下ろさなくてはならない。
「まあなー。そろそろ湾岸署の案件も送検が済んで解散だろうし」
「えっ。もう送検なんですか」
 今朝のメールには〈張り込み中〉とあった。容疑者を逮捕して送検するとなったら、あとは裏取り捜査だけだ。張り込みするはずがない。木島は目を泳がせた。何かに足を引っかけ、転びそうになる。
 六花が2717号室の入口で四つんいになっていた。尻を大胆にこちらに向けている。
「おい! こんなとこでそんなかつこうすんなよ」
 木島は、いまにも六花の尻を蹴り飛ばしそうな勢いだ。六花は謝罪もせず立ち上がる。
「これ、ここに落ちてた」
 格安量販店、ドンキー・マジックの黄色いビニール袋だ。現場から一キロメートル圏内に四店舗ある。二十四時間営業の免税店だから、訪日外国人が多く訪れる。六花が袋の中を見た。レシートが一枚入っている。
「靖国通り沿いの店舗だね。今日十時半に千円のノコギリを購入したみたい」
 犯人が購入したものか。
「清掃係の子が無傷だったのは、ノコギリ買ったばっかりだったからだろうね。刃がケースに入ったままだった」
 琴音はすぐさま指示した。
「堂原さん、すぐドンキー・マジックへ行って防犯カメラを確認。犯人映っているところは押収して」
「令状は」
「今日中には出すと伝えて。渋ったら、くれぐれも上書き消去しないようにと」
 村下に呼ばれる。
「新井。中入るぞ」
 琴音は後ろでひとつに束ねた長い髪をキャップの中に詰め込む。部屋の入口の規制線をくぐった。

#1-2へつづく
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