師弟の関係を描いた小説がある。
たとえばの話が、山本周五郎の『赤ひげ診療譚』。江戸時代中期、長崎の医学留学から江戸に戻ってきた青年医師・保本登は小石川養生所で働き始めるが、思い通りにいかぬことが多く、医長の新出去定にも反発する。新出は無骨だが、貧しく不幸な人々も分け隔てなく診る人道的な医師。彼と患者たちとの交流に触れるうちに保本も次第に感化されていく。
いかにも山本周五郎らしいヒューマンな連作集だが、本書を読み始めて、まず思い浮かべたのがこの名作だった。
本書『笑え、シャイロック』は金融系の長篇ミステリーだし、いきなり医療小説である『赤ひげ診療譚』を引き合いに出されても、今ひとつピンとこないかもしれない。
本書の主人公・結城真吾は大手都市銀行・帝都第一銀行の若手行員。入行二年目で主任に昇格、自分の人生は順風満帆と思っていた三年目に異動の内示を受けるが、配属先は大型店舗・新宿支店の渉外部。焦げつきそうな債権を回収する、銀行の裏道ともいうべき部署である。将来を嘱望されているからこその人事と諭されても、今ひとつ納得出来ない結城であった。
新宿支店渉外部は樫山美奈子部長以下、四班に分かれ、結城が所属するのは三八歳の山賀雄平率いる班。山賀はぽっちゃり体型で仏顔だが、非情な理屈や辛辣な物言いをするときも笑顔を浮かべていることから「シャイロック」呼ばわりされていた。
シャイロックとはもちろんシェイクスピアの名作『ヴェニスの商人』に登場する情け容赦ないユダヤ人の金貸しのこと。山賀は挨拶回りも抜きに、結城をいきなり回収に同行させる。五〇〇万円余の焦げつきがあるデイトレイダーを相手にいったん引き下がったかに見せ、土地の仮差押えに出るという裏技を繰り出す山賀。しかし高級スピーカーの製作工場を営む老社長相手には、最後通牒を突きつけるだけでなく、救済策も提案してみせる……。
非情なだけでないシャイロック山賀の素顔を目の当たりにした結城は、彼についていこうと決意を固める。
山賀はいう。「経済にとって、カネは生物の血液と同じだ」。血液が身体の隅々に行き渡ってこそ、生物は行動が可能になる。日本経済も、カネがどこかに滞留していたり、動きが止まっていたりすれば活性化の妨げになる。
してみると、債権回収マンは身体の血のめぐりを回復させる医師にさも似たり、というわけで、筆者が『赤ひげ診療譚』を連想したのも、あながち的外れではなかった!
実際、結城は第二章「後継者」で物産会社の驕慢な御曹司を、第三章「振興衆狂」では新興の宗教法人の館長を、第四章「タダの人」では与党の幹事長まで務めた元国会議員を、そして最終章「人狂」では指定暴力団のフロント企業のトップを相手に、山賀顔負けの債権回収劇を繰り広げて見せる。ただ『赤ひげ診療譚』とは大きく異なることがあって、それはこちらの赤ひげ役・山賀雄平は第一章の最後であっさり退場してしまうのである。
そう、本書はシャイロック山賀の後継者たらんとする結城の成長劇であるとともに、彼が師匠を殺した者を突き止める犯罪ミステリーでもあるのだ。仕事柄、山賀を恨む者は少なくないと思われた。捜査に当たる新宿署のベテラン刑事・諏訪公次は債権回収マンにも劣らぬネバっこさで、結城の前に出没するようになるが……。
著者は『さよならドビュッシー』で第八回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞、デビューして以来、音楽ミステリーはもとより警察小説やリーガルサスペンス等、多彩なジャンルで活躍を続けているが、本書でまたひとつ抽斗を増やした。それも既存の金融ものでは敵役の多かった債権回収マンを主役に抜擢、敵役どころか、遅滞する日本経済を立て直す治療者としての活躍を見事に描き出してみせた。
むろんミステリーとしても「どんでん返しの帝王」らしいはなれわざ健在。新時代の金融ミステリーとしても、出色の出来映えだ。
ご購入&試し読みはこちら>>中山 七里『笑え、シャイロック』
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