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レビュー

映画化も決定!市井に生きる人々の姿を繊細に描き出す短編集。――『渇水』河林満 文庫巻末解説【解説:佐久間文子】

厳しい日常を懸命に生きる人々を濃密に描き出す、絶望の底に希望の光がきらめく作品集。
『渇水』河林 満

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

渇水』著者:河林 満



『渇水』文庫巻末解説

解説
あや 

 かわばやしみつる(一九五〇─二〇〇八)の『渇水』の単行本が出版されたのは一九九〇年八月。いわゆるバブルの崩壊が始まるのが翌一九九一年ごろからだから、その当時はまだ、膨らんだ風船がはじけるように、この狂乱経済が終わるとは、ほとんどの人が想像できていなかった。
 表題作の「渇水」は、一九九〇年のぶんがくかい新人賞受賞作で、「文學界」に掲載された選考委員のみやもとてるの選評によれば、「満場一致」で決まった。同作はあくたがわしようの候補にもなっている。
 炎暑の夏、地方自治体の水道局職員が、料金未納の家庭の停水を執行し、その後に痛ましい事件が起きるまでの時間を「渇水」は描いている。
 一般に、電気ガス水道の料金を滞納した場合、水道が最後に停止されると言われている。停止執行までの猶予時間の長さは、水を止めることが直接、命にかかわるという判断からだろう。
 それでも水が止められることはある。何度促しても未納分を支払わない場合は執行される。「渇水」の主人公である市水道部のいわきりは、八月も終わりに近い一日に、十三軒の滞納家庭の水を止めて回る。
 文學界新人賞の受賞当時、河林はたちかわ市の職員だった。長年、水道局に勤務しており、停水の手順や、現場で浴びせられるせいといった細部にまで、なるほどと思わせるリアリティがある。
「渇水」は、地方公務員である河林自身の実体験を小説にしたものと受け止められた。その通りではあるが、河林自身がのちに明かしたように、事実と小説の関係は、それほど単純でもない。
 河林満は福島県いわき市で生まれた。彼が生まれてまもなく、一家は東京都あきしま市に転居する。四歳のとき、いわきに帰省中の母が心臓リウマチのため急逝する。この突然の母の死は、河林の小説の核となった。
 定時制高校に通い、郵便局員などいくつかの職業を経たのち、高校卒業後に立川市水道部の臨時職員に採用される。水道部にはあしかけ十四年在籍し、検針係や料金係の後、滞納整理係として停水執行の仕事に携わった。
 希望して異動した図書館で、河林は一冊の本に出合う。マルグリット・デュラスが息子の友人を聞き手に口述したエッセイ集『愛と死、そして生活』(なかみち訳、河出書房新社)で、偶然開いたページの、見出しに目が留まった。
 見出しには「水道を止めた男」とあった。この中でデュラスは、フランス東部の村で起きた事件について語っている。水道局の職員が、廃駅に住む貧しい一家のもとに水道を停止しに来る。水が止まった日の夜、夫婦(妻には知能の遅れがある)は幼子二人を連れてT・G・Vのレールに横たわりに行く。邦訳では八ページほどの短い文章である。
「水道を止めた男……それはわたしではないかと、思った」(河林「社会と個人の風景から」=「月刊自治研」一九九六年七月号)。
 十八歳から小説を書き始めていた河林だが、水道部で働いていたあいだ、自身の体験を書くという考えは浮かばなかった。公務員としての自制もおそらくあっただろう。
 水道の現場を離れ、偶然、デュラスの文章に触れたことで、停水執行について書くアイディアが生まれた。
『黒い水/穀雨 河林満作品集』(インパクト出版会)の編者で、河林の友人でもあった文芸評論家のかわむらみなとは、解説で「(デュラスの)エッセイからヒントを貰った」と書いている。
 ヒントをもらった、という以上に、河林は、第三者から見た自分自身の姿をデュラスの文章の中に見たのではないかと思う。貧しく、他者のサポートが必要な一家を死にいたらしめる冷酷な時間の流れに、「水道を止めた男」はたしかに存在していた。
 河林が初めに書いたのは「ある執行」という、水道を止められる家のあるじの視点からの作品で、「ある執行」は自治労文芸賞を受賞する。
「自分が世に出るにはこれを書くしかない」という思いから、同じテーマを全面的に書き直したのが「渇水」である。
「一人称で書き始め、難渋し、こんどは三人称で書いた。動物でも植物でもなく、寡黙でありながらマグマのように内に激しさを秘めた男、という主人公のイメージが、岩切という名前をもつ主人公となった」(前掲「社会と個人の風景から」)。
 文芸誌の新人賞への投稿を続けていた河林は、この作品でようやく、作家としての第一歩を踏み出すことができた。

『渇水』は、河林満の生前、刊行された唯一の単行本である。
 彼は死を思い、水にとらわれた作家だった。
 本作に収められた「渇水」以外の作品も、すべて死の風景が描かれている。「海辺のひかり」は若くして亡くなった母の墓の改葬を、「千年の通夜」はクラスメートの通夜の風景を描いている。
「海辺のひかり」のクライマックスは、土葬された母のひつぎが掘り返される場面だ。棺のなかいっぱいに黒い水がまっており、「しやれこうべが静まりかえってポツンと浮いていた」。思慕し続けた母との再会は衝撃的な形になるが、「海が近いからぁ、水が湧くんだなぁ」──従妹いとこの夫の言葉は状況に不似合いなのどかさで、「黒い水」は不吉な表象というより生命の循環を感じさせる。
 一九九三年、河林は「穀雨」で再び芥川賞候補となるが、受賞は逃す。選考委員のおおみなは「古風なようだが、あっという間に古びる新しそうに見える風俗に彩られた作品群の中ではむしろみずみずしく、命の手ざわりがある」と評した。
 一九九八年に市役所を退職、警備員の仕事などをしながら作品を書き続けるが、やがて大手文芸誌で名前を見ることもなくなっていった。
 亡くなったのは二〇〇八年、死因は脳出血で、まだ五十七歳だった。
 しのぶ会を報じる記事で、読売新聞の文芸記者かいてつは「文芸誌の編集者の姿はなかった」と憤りを込めて書いている。
 二〇二〇年になって、その鵜飼が編集した『芥川賞候補傑作選 平成編①1989─1995』(春陽堂書店)が出た。「渇水」は、巻頭に収録されている。
 続けて二〇二一年には『黒い水/穀雨 河林満作品集』が刊行された。
 このたび、しらいしかずプロデュースで映画化も決まり、今回の文庫化で、初めて河林作品と向き合う読者もいるだろう。
 作家の死ののち、時をへて作品が蘇り、息を吹き返すことがある。
「古風」と言われた河林の小説をいま読むと、今日的なテーマだと感じられることにおどろく。貧困が社会問題化し、見過ごせない段階まで来ていることも大きい。
 作品の発表当時も苦しんで、差し伸べられる手を必要とする人はいたはずなのに、多くの人にはそれが見えなかった。貧困が拡大してようやく、自分たちがいま生きている社会が描かれていると実感できるようになったということだろう。

作品紹介・あらすじ



渇水
著者 河林 満
定価: 748円 (本体680円+税)
発売日:2023年04月24日

映画化も決定!市井に生きる人々の姿を繊細に描き出す短編集。
市役所の水道部に勤め、水道を止める「停水執行」を担当する岩切は、3年間支払いが滞っている小出秀作の家で、秀作の娘・恵子と久美子姉妹に出会う。小出の妻は不在、秀作も長いあいだ家に戻っていなかった。姉妹との交流を重ねていく岩切だったが、停水執行の期限は刻々と迫っていた――。芥川賞候補にもなった表題作「渇水」を含めた3編を収録。厳しい日常を懸命に生きる人々を濃密に描き出す、絶望の底に希望の光がきらめく作品集。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322107000437/
amazonページはこちら


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