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【解説:凪良ゆう】降り積もっては消えゆく人生のかけら。世界はきっと、ここだけじゃない。――『去年の雪』江國香織 文庫巻末解説

江國香織ワールド全開! この世界の儚さと美しさが詰まった、ちょっぴり不思議で愛おしい物語。
『去年の雪』江國香織

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。

去年の雪』著者:江國香織



『去年の雪』文庫巻末解説

解説
凪良ゆう(作家)

 夕暮れどきになると、昔からなんとも心細くなってしまう。
 子供のころはかぎだったので、友達とわかれて家に帰っても誰もいない。すてばちな気分で通りすぎる家々からはあたたかな夕飯の匂いが流れてくるし、空も昼間のぱきっとした青空とはぜんぜんちがっている。同じ青色なのにひんやりしていて、なんだかさびしい。色としては昼間の青よりれいだから、よけいに。
 くにさんの『ぬるい眠り』を読んで、建物まで青く染まるそれをプルキニエ現象というのだと知った。幼い主人公が青色の空気に手を伸ばす。その心細さの描写が、子供のころの記憶にすうっと重なった。以来、街ごと冷たい青色に沈む夕暮れどきには、『ぬるい眠り』を思い出すようになった。
 あるいは十年続いた結婚生活を終わらせた、明るく晴れたお昼間のこと。がらんとした新居で本を整理しながら、「離婚するってどんな気持ちのもの?」、「そうねえ、半殺しにされたままの状態で旅に出るような気持ち、かしら」という『流しのしたの骨』の会話にぶち当たり、思わずにやっとした。まさしくそのとおりすぎて、笑うしかなかった。それ以来、わたしは半殺しというおそろしい言葉が妙に気に入ってしまった。
 日常が、唐突に物語と結びつく瞬間がある。常なら流れて消えていく心模様に言葉が与えられて、何度も取り出して味わったり笑えるものになる。江國さんの物語は濃密に読み手の中に浸潤していくので、たまに混乱することもある。
 去年のクリスマス、親しい人がワインを持ってきてくれた。『家族の秘密』という、甘いような苦いような不穏な名のワインだった。わくわくしながら開けたそれは甘さ一辺倒で、用意していた料理には合わなかった。これはデザートワインだねえとふたりで笑いながら、なぜかわたしは江國さんの物語を思い出していた。特定のタイトルはなく、「なんか江國さんっぽい」というふわっとした、けれど確固たるイメージだ。江國作品のファンは、必ず自分の中に「江國おりの世界」を持っているのだ。
 甘すぎる不穏な名のワインや、クリスマスだからと張り込んだ料理が並ぶ中で、おいしいと褒められたのがブロッコリとにんにくをただ蒸したものだったことや、七時間も向かい合っておしゃべりをした挙げ句、翌朝にはなにを話したのかすっかり忘れてしまったことや、そういうことすべて。街ごと青く染めるプルキニエ現象に手を伸ばす少女のように、半殺しにされたままの状態で旅に出るように、「なんか江國さんっぽい」という形容しかできない、江國さんだけが醸し出せる世界がある。

 だけど、去年の雪はどこに行ったんだ?

の雪』の冒頭で引用されたフランソワ・ヴィヨンの詩だ。
 くるくると、ひらひらと、空から降る一片の雪のように、この物語に出てくる人物は百人を超える。語り手は生きている人、死んでしまった人、自分が過去に人であったことを忘れてしまったなにか、猫までいる。それらのささやかな日常が半ページから数ページの間隔で淡々とつづられる。それぞれの話はつながっていたり、そうでなかったり、時間軸も過去と未来を行き来し、時空をまたぐカラスまで登場する。
 幻想的な構成の一方で、話の通じない夫に絶望しながら専業主婦の座には居続けたい妻、天気がよくてよかったと母親の死の哀しみから逃げる息子、おちゃんの朝の支度を盗み見る男の子など、しっかりと地に足の着いた人々の暮らしが描かれる。
 どの人物も身近で、けれど深くは入り込めない。もっと読みたいと思うところで終わってしまうからだ。そして次の話がはじまり、忘れたころに、ふいにつながる。ああ、この子は少し前の話でおじさんとぶつかった女の子か。けれど、ふたりが生きている時代はあきらかにちがっていて、そこにはなんの説明もない。ただ時空を越えて、ただふたりは路上でぶつかった。幻想と現実が当たり前に交わり、淡々と進んでいく。
 最初はその奇妙な交わりに意味を見つけようとしたけれど、読み進めるうちに、これはわたしたちが生きている世界そのものなのだとわかってきた。
 マイムに合わせてふくらんだりちぢんだりするダンスの輪のように、気が遠くなるほど繰り返される、それぞれのささやかな日々の営み。生者が、死者が、猫が、それらの器すらなくしたなにかが語り、時間も空間も無限につながりあっていく。
 中でも黒猫のトムの話が印象的だった。老猫のトムは亡くなった家族の匂いや気配が今も家に残っているのを感じられるし、ぎ取れる。閉めきられた家のなかをふいに風が渡るとき、長年住み慣れた家が消えることも知っている。床のあったところには透明な水が流れ、人々が遊んだり魚をつかまえようとするのを見ることができる。

〈〜彼らがトムに気づくことはない。だからトムも、彼らには構わない。じきにみんな消えてしまうのだ。流れる水も、人も石も木々も。〉

 ここに漂う、ある種の無常観が物語全体を覆っているように感じる。
 わたしたちは人生や出会いに意味や法則を探しがちだけれど、命そのものにはなんら意味もないのだろう。それはただ在るもので、どこともしれない場所で生まれ、ひらひらとがんと彼岸を行き来する。そのあわいに、わたしたちのささやかな営みがある。日々の喜びも悲しみも苦しみも、いつかははかなく消えていく。江國さんの筆はそれをあるがままにやわらかく描き出す。その豊かさと深さといったら──。
 読み終わって、ライナー・マリア・リルケの『秋』という詩を思い出した。

 木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
 大空の遠い園生が枯れたように
 木の葉は否定の身ぶりで落ちる
 そして夜々には 重たい地球が
 あらゆる星の群から せきりようのなかへ落ちる
 われわれはみんな落ちる この手も落ちる
 ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
 けれども ただひとり この落下を
 限りなくやさしく その両手に支えている者がある


 昨年、わたしはほぼ二年ぶりとなる長編小説をじょうした。
 うちの小さな島で出会った十七歳の男女の、十五年間の恋の物語。
 その最初の打ち合わせで、担当編集氏が江國さんの小説が好きだということを知って意外に感じた。なにを書いてもいいですよと言われていたけれど、わたしはその人をミステリ大好きのミステリ専門の編集者だと思っていたのだ。
落下する夕方』や『冷静と情熱のあいだRosso』の話で盛り上がり、そのうち編集氏が自分の初恋の話などをはじめ(からっとした人だと思っていたけれど、実はかなりのロマンチストだった)、この人と組むなら恋愛小説だなと次回作の方向性が決まった。
 今、この原稿を書きながら世界はやはりおもしろいと感じている。ずいぶんと昔、それぞれ江國さんの物語に胸をときめかせていたふたりが作家になり、編集者になり、生まれた土地とはちがう場所で出会い、また別の物語が生まれた。
 それぞれは偶然の重なりで、ただからまって、ほどけて、百年も持たずにふわりと消えてしまう出来事だけれど、儚いからこそいとしくも思う。
「将来、あなたは江國さんの物語の解説を書くよ」
 時空を越えて教えてあげたら、若かったわたしは一体どんな顔をするだろう。なんだかわたしも『去年の雪』に登場する誰かになったような気がしてくる。

作品紹介・あらすじ



去年の雪
著者 江國 香織
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2023年02月24日

降り積もっては消えゆく人生のかけら。世界はきっと、ここだけじゃない。
双子の姉妹、千奈美と真奈美は2人だけにしか聞こえない声を聞くことがある。事故で死んだはずの謙人は、気がつくと数百年前の見知らぬ家の中に佇んでいた。黒猫のトムは、住み慣れた家の中に時々現れる別の世界を知っている……。100人を超える”彼ら”の日常は、時代も場所も生死の境界をも飛び越えて、ゆるやかに繋がっていく。
江國香織ワールド全開! この世界の儚さと美しさが詰まった、ちょっぴり不思議で愛おしい物語。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322207000263/
amazonページはこちら


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