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特集

野心作『去年の雪』刊行、デビュー32年目を迎えた江國香織を読むならこの5冊を(内藤麻里子・選)

最新作『去年の雪』の登場人物は100人以上!
デビュー32年目にして野心作ともいえる新作を刊行した江國香織のオススメ作品を、文芸ジャーナリストの内藤麻里子さんに紹介していただきます。

 江國香織さんの作品は、いずれも驚くほど確かな宇宙を形成している。その宇宙の骨組みはディテールであり、注意深い描写の積み重ねである。例えばある情景を描写して、意味合いを与える。意表を突かれる表現でも、この作家がこうだと言えばそんな気がしてくる。たおやかに見えて、実は剛腕なのである。
 この世のリアルを描いて、どんな下世話な設定でも上等な宇宙にしてしまう。その言葉の海にたゆたうのは極上の時間だ。

1.『去年の雪』(KADOKAWA)

 最新作『去年の雪』は、そんな江國さんのエッセンスが凝縮した一つの到達点にして、目を見張るような野心作。こんな小説ってあるんだとあっけにとられた。
 ここにあるのは、私たちが生きている世界というものを時空を超えてとらえてみせる試みだ。軸となるストーリーはなく、掌編が絡み合ってある一つの世界観を見せてくれる。いや、ストーリーがないのではなく、切り取られた人生のほんの一瞬に物語性をはらむと言うべきだろう。掌編の手際には見とれるばかり。リュックサックのサイドポケットからつきだした飲みさしのペットボトルに、子育て中の母親の疲労や不安を象徴させたり、「夕方の日ざしは、ときどき真昼の日ざし以上にまぶしい」と書き出したりして、瞬く間に掌編ごとの空気感を作ってしまう。
 登場するのはなんと100人以上の人物。彼らは掌編によっては重なり合う。夏レンコンや梨、豆腐など、ある一つの食材を特別に「白い」と思う人々が同時多発的にいる。100人分の乳房がならんでいても妻のそれを見分ける自信のある男もいれば、100人分の男性器がならんでいてもボーイフレンドのそれはわかる自信のある女もいる。どこか一点において自分に似た人があちこちに顔を出す。
 時代は現代、平安時代、江戸時代、1970年代に及ぶ。例えば平安時代、「御帳台」に「ベッド」とルビを振ったり、「天地神明にかけて」の誓いを「クロス、マイ、ハート」と言わせたりする方法によって、いにしえの人々が我々とそう精神活動が変わらない、なんだったら同時代人くらいに思えてきてしまう。過去の声は現代に響き、現代の声を過去に響かせる。時空を飛び交うカラスもいる。
 読み進んでいくうちに、この世はまるっとつながっているという世界観が立ち上ってくる。死と生も同列だ。時空を超え、漂っている死者が何人もいる。人間や動物のそばにきては、それらの物理的な存在感に満ち足りた幸福を感じたりしている。
そうか、我々はすべてがそこにある世界にいるのだという喜びと安心感に包まれる。本書の終幕で、死者の声が次々披露された先に待っているのは子どもたちの声。世界はそうやって続いていくと言われているかのようだ。大切なことをそっと、しかし確信を持って伝えてくれる驚異の物語といえよう。


書影

『去年の雪』


2.『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(朝日文庫)

 江國さんは世界とのいろいろなかかわり方を、折に触れ描いてきた。
 大人たちは忘れてしまったけれど、本当は世界はつながっているよと子どもの目線で語っているのが谷崎潤一郎賞を受賞した『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(2014年)だ。
 幼稚園児の拓人は言葉が遅いと心配されているが、実は豊かな内的世界で生きている。虫の声がわかるし、誰かが話す言葉は、耳ではないどこかで感じ取っている。充足した人の出す音は、たとえテレビの大音量でも騒音ではない。
 一方で、父は恋人のもとから帰らず、母は思い煩い、ピアノの先生の結婚も暗雲が立ち込める。複雑な大人の事情に囲まれているのだ。しかし拓人にとって虫も人も「いることがぜんぶ」で、世界は十全だ。人が真意を口にするときは怒りであっても「ココニイル」と言っているだけだから安心なものである。
 子どもに託した世界のとらえ方に、はっとさせられる。いかに自分が虚飾を身に付けているかと気づくのだ。それが言葉を獲得するということ、成長するということか。そんなことが、瑞々みずみずしい子どもの一人語りであらわになっていく過程に陶然とする。

3.『真昼なのに昏い部屋』(講談社文庫)

 拓人は成長してしまうが、もちろん言葉を獲得することによって新しい世界と出会うこともまたできると言っているのが、『真昼なのに昏い部屋』(10年・中央公論文芸賞)だ。ですます調で大人の純愛を紡ぎ出す。アメリカ人の「ジョーンズさん」は主婦として完璧な「美弥子さん」が好きだが、美弥子さんはそのことを知らない。ただ、ジョーンズさんの穏やかなたたずまいに好感を持ち、フィールドワークという名の散歩に誘われ、話が尽きない関係にワクワクしている。
 しかしそんな関係を夫になじられ、美弥子さんは家を飛び出してしまう。そして「世界の外へでちゃったんだわ」と感じ、外への不安を抱えるに至る。だが、冷静なジョーンズさんに「罪悪感というのは、自意識にすぎないんですよ」と指摘され、恐怖が鎮まっていくのだ。いったん外に出たことを受け止めた美弥子さんは、すっくと立つ女性になった。
 今まで充足していた世界の外もまた、美しく、くすくす笑いたくなるような高揚感に包まれるものだった。世界というものは決して小さくない。価値観は揺らぐし、すべての一瞬はかけがえのないもの。世界の多彩さと自由さを優しい物語に結実させた。

4.『ウエハースの椅子』(ハルキ文庫)

 生と死がくっきりと姿を現し、また別の世界とのかかわりを見せてくれるのが『ウエハースの椅子』(01年)だ。7年間、不倫関係を続けている女性画家「私」の逡巡を、短いエピソードを幾重にも重ねて描き出す。
 他に家庭を持っているとはいえ、恋人は申し分ない。「私」を徹底的に甘やかしてくれる。お互いに求めてやまず、世界から閉じ込められる幸福もある。しかし、この関係に充足はあっても先がない。一人でいると「私」は満足に食事もせず、孤独にさいなまれ、絶望もときどきやってくる。孤独、絶望と「死」は親しいものだ。「私」は恋人に別れを切り出し、緩慢な自殺を図るものの、引き戻される。変わらず愛をささやき合う生活に戻ることになるが、死にかけている二人がいるばかりなのだ。
 ここには圧倒的なエロスとタナトスがある。純粋ではあるが命の賛歌につながらない官能を味わい尽くすため、世界から閉じ込められた二人のいく先には死しかない。けれど、それは悲しむべきものではない、死とはそういうものと繰り返し作家は語る。いずれにせよ生と死は一続きなのだから。そんな生と死が、甘い毒のように心をとらえて離さない。

5.『つめたいよるに』(新潮文庫)

 最後に、短編集も紹介しておきたい。『去年の雪』が掌編で出来上がっていることからもわかる通り、江國さんは短編の名手でもある。山本周五郎賞受賞作『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(02年)や、直木賞を射止めた『号泣する準備はできていた』(03年)をお薦めしたいところだが、今回は『つめたいよるに』(1993年)を挙げたい。ちょっと不思議な要素あり、死の影ありの作品だから、『去年の雪』の源流の一つを見る思いがする。
 愛犬を亡くし、悲しみに暮れる私の前に現れたハンサムな少年との1日を描いた「デューク」、19歳の修行僧と7歳になったばかりの少女の宿命の恋の顚末てんまつをつづった「桃子」、さむらいの幽霊が父親だと判明する中学生が登場する「草之丞の話」など9編を収録。
 ここに出てくる死は、あくまでも日常と近しい。懐かしささえ感じる存在だ。不思議な設定は、愛犬を失った悲しみ、人を恋することはえらい(大変な)こと、両親の恋がどんなものだったかなどを描く道具立て。すんなりと心にしみる佳品である。

内藤麻里子(ないとう・まりこ)
1959年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。87年に毎日新聞社に入社し、宇都宮支局などを経て92年から学芸部。2000年から文芸を担当し、名物記者として活躍する。編集委員を務め、19年8月に退社。現在は文芸ジャーナリストとして活動する。毎日新聞のコラム「エンタメ小説・今月の推し!」、小説現代の「書評現代 エッセイ・ノンフィクション」(いずれも隔月)などを連載中(2020年2月現在)。


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