角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
篠 綾子『義経と郷姫』
篠 綾子『義経と郷姫』文庫巻末解説
解説
茶道の心得に「
文芸作品と読者の出会いも、いってみれば一期一会です。私たちがある作品を読むのは、特別なケースを除けば一生に一度きりのことですから、初めての作家と出会うときは、作品選びに特に慎重でなければなりません。最初に読んだ作品がつまらないと、その作家とは二度と会えなくなってしまうからです。
その意味で、私はとても幸運でした。私が初めて
以来十七年、私は篠綾子のすべての作品をほぼリアルタイムで読んできました。いいかえれば、篠さんの茶会の押しかけ常連客として、作家のお点前をとくと拝見してきたわけですが、最近はその作法やふるまいにますます磨きがかかって名人上手の域に達しているように感じられます。
私のように半世紀近く、小説を読むことを
さすがに全部が全部、後世に残る傑作だというつもりはありませんが、どの作品にも読者に対する温かいおもてなしの心が行き届いていて、最後まで気持ちよく読むことができます。そして本を閉じたとき、「ああ、おもしろかった」という満足感があります。世に作家多しといえども、これほどハズレのない作家は珍しいといっていいでしょう。
さて、本書『義経と郷姫』は、篠綾子の事実上の出世作ともいうべき作品です。この作品に先立って、第四回健友館文学賞を受賞した長篇『春の夜の夢のごとく 新平家公達草紙』(二〇〇一)、第十二回九州さが大衆文学賞佳作に選ばれた短篇「虚空の花」(二〇〇五)などがありますが、その文名が広く知られるようになったのは、この作品以後のことだからです。
本書の内容をひとことでいえば、「河越御前」の物語です。「河越御前って誰だっけ?」と思われた人も多いでしょう。実は私も知らなかったのですが、この女性は
本書の読者ならよくご存知のように、篠さんは東京学芸大学で古典文学を専攻し、高校の国語の先生をしながら小説を書き始めたひとで、史料の読みの深さには定評があります。「
この作家のもうひとつの特長は、
といえばもうおわかりのように、この作家はまさしく歴史・時代小説を書くために生まれてきた作家であり、この作品はこの作家の文体でなければ書けなかった作品なのです。たとえば序章「入間川」の冒頭の一節を見てみましょう。
《入 間 川 の川 面 をなぶるように風が吹きつけた。
冬の間、少雨のせいで水量を減らしていた川の浅瀬に、小波 が音もなく立つ。川面が陽光を跳ね返すと、その度に黄金 色の光の粒が宙に舞い上がった。
「小 次 郎 」
ぼんやりと川を見下ろしていた少年は、不意に名を呼ばれた。記憶を失 くした少年のため、仮の名前を付けてくれた少女の声であった。
「何ですか、お郷 さま」
少年は振り返って、少女を見た。少年を引き取って世話をしてくれた河 越 館 の当主の娘、郷 姫 である》
歴史的な悲恋物語の始まりを告げて、これは実に見事な文章です。たったこれだけの描写のなかに、ヒロイン郷姫を取り囲む自然と風土、地位や身分、人間関係までがさりげなく、だが的確に表現されていて、私たちを一気に物語のなかに引き込む力を持っています。それが強靭でしかもしなやかな文体の力であることはいうまでもありません。
埼玉県
小次郎はのちに
郷姫に思いを寄せたもうひとりの男は
しかし、郷姫は
こうした
こうして物語はいよいよクライマックスを迎えるのですが、ここでこれ以上内容に立ち入るのは、読者の「知らされない権利」に対する侵害となるでしょう。ただし、これだけは申し上げておかなければなりません。あなたはいま、歴史小説の名手から一期一会のおもてなしを受けている、この上なく幸運な招待客のひとりなのです。
作品紹介・あらすじ
篠 綾子『義経と郷姫』
義経と郷姫
著者 篠 綾子
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2022年02月22日
義経と最期を共にした正妻・郷姫の切なくも美しい生涯を描いた時代小説。
河越重頼の娘、郷姫は源頼朝の命により、初恋を捨て義経の許へ嫁いだ。周囲は彼女を鎌倉の間者と疑い、義経も次第に愛妾に思いを寄せ、妻を遠ざけるようになる。しかし、彼女は夫を一途に思い続けた。源平の戦いや頼朝・義経兄弟の争いにも巻き込まれていくなか、子を産み、最期は義経と共に壮絶な死を遂げた郷姫。戦乱の世を気高く生きぬいた一人の女性の生涯を描く。歴史に隠された真実が心揺さぶる時代長編。
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