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レビュー

落語の奥深さと、世界の美しさを教えてくれた大切な作品――増山実『甘夏とオリオン』文庫巻末解説【解説:中西若葉】

角川文庫の巻末に収録されている「解説」を特別公開! 
本選びにお役立てください。

増山実『甘夏とオリオン



増山実『甘夏とオリオン』文庫巻末解説【解説:中西若葉】

解説
中西 若葉(KaBoSイオンモール新小松店)

 可愛らしい、素敵なタイトル。
 その日、店に入荷したその本を見て、そう思いながら新刊の棚に並べたのを覚えています。南国のオレンジ色の果実と冬の夜空に輝く星座が並べられた『甘夏とオリオン』。タイトルにかれて、それだけで本を買い、読み始めて、何の物語かを知り驚いたことも覚えています。
「甘夏」と「オリオン」の言葉から「落語」は、あまりにも予想外でした。

 主人公の桂甘夏は、大阪の下町に住む駆け出しの女流落語家。ある日突然、師匠の夏之助が失踪してしまいます。残された三人の弟子、小夏、若夏、甘夏は一門を守るため、大好きな師匠の帰る場所を守るため奔走し、甘夏の居候先の銭湯で、ある寄席を始めることに。その名も「師匠、死んじゃったかもしれない寄席」。師匠が帰ってきやすいようにと名付けられた深夜の寄席で、師匠を待ちながら落語家として成長していく物語。
 ということで、この本には落語のはなしがたくさん出てきます。

 この作品の中で、私が、とっても大好きな一節があります。
 ある日、甘夏は兄弟子の小夏に連れられて『落語の国』(落語の噺の舞台となった土地)を歩きながら、夏之助のどこが好きで入門したのかと尋ねます。それに小夏は、噺のひとつ『次の御用日』を演じて答えるのですが、小夏はまず、定番の風景描写を演じて見せます。

「夏のこってございます。昼下がり、人通りの途絶えた道。往来の砂が陽の光を受けて、キラキラキラキラ光っております」

 美しいと思いました。キラキラキラキラ、言葉の響きが心地よくて、光にあふれる夏の昼下がりが目の前に浮かぶよう。小夏も、これで十分、美しいといいながら、次に夏之助の『次の御用日』の一節を演じます。

「夏のこってございます。昼下がり、人通りの途絶えた道。往来の砂がキラキラキラキラ、小さな光の鼓笛隊が今まさに横切った、そんな不思議な心持のする昼下がりです」

 この一節を読んだ時、あまりの美しさに私は、甘夏と同様にため息が出ました。初めて知る「光の鼓笛隊」という言葉は、私の人生で見たことのないそれを一瞬で想像させ、目の前に広がっていた夏の昼下がりの風景の中にいるような感覚でした。
「落語」で「情景描写」にこんなに心が震えるなんて。
 私は、落語家というのは演者だと思っていました。演目があって、登場人物になりきり、物語を伝える人。しかし、夏之助が甘夏に教えるのは落語のことだけではないのです。夜空に浮かぶ星の存在、陽の光が反射する砂のきらめきといった「世界」のこと。
 小夏との『次の御用日』のエピソードの前に、甘夏と夏之助が街を歩きながらオリオン座の話をするシーンがあります。
「オリオン座が、きれいやないか」と空を見るよう促す夏之助に、甘夏は「師匠、オリオン座って、なんですか」と返す。オリオン座を知らなかった甘夏に、私もちょっと驚いて笑ってしまったけど、師匠はとても怒ります。激怒です。
「落語家は、落語のことだけ知ってたらええんと違う」「甘夏、これは大事なことや。落語のネタをひとつ覚えるよりも、ずっとずっと大事なことや」と、「人間にとって無知は罪」だと。そして続けて、オリオン座と言ったものは、本来はただの星で、それを人間が結び付けて神話の英雄に見立てている。それが、文化であり芸能だと教えるのです。
 小夏から、師匠の『次の御用日』を聞いたときに甘夏は、このことを思い出します。

「見えへんもんを見えるようにする。それが、落語家の仕事やで」

 甘夏がオリオン座を知らなかったことに驚いていた私も、同じだと思いました。私も、夏の昼下がりのうつくしさを知らなかった。甘夏のことを笑えない。
 日常の中で、いろんなものを見ようとしている人がいる。そうして、見て知ったことを高座の上から演目を通して観客に伝えてくれているのが落語家なのだ。夏之助が甘夏に、これは見えているか? 気づいているか? お前の世界には、こんなに素晴らしいものがあるよと教えたように、私もまた、この物語に教えられました。

 知ろうとして見えてくるものは美しいものばかりではありません。
 この物語には、落語という伝統芸能のなかで、女性というマイノリティの立場である甘夏の困難、兄弟子の若夏には故郷で起きた公害による偏見が描かれます。
 甘夏が突き当たる大きな壁、落語は男性社会であり、女性の落語家は認められないということ。甘夏がこの困難にぶつかる度に、私は何とも言えない居心地の悪さを感じていました。一番強くそれを感じたのが、甘夏の初舞台でアンケートに書かれた「女の落語家では、笑える噺も、笑えません」という一言です。意地悪な言葉と思う。でも「女の落語家では笑えない」というのが何となく分かる感覚が私にもあるのです。
 若夏に「女は落語に向かへん」と言われたと話す甘夏に、小夏がこう答えます。

「落語の歴史はざっと三百年近くあるけど、その間、ずっと男が演ってきた。あらゆるノウハウは、全部、男が演じるためのもんや。女の噺家が男を演じると違和感があるのは、女が男を演じるノウハウが一切伝わってないからや」

 この話を、私は技術の話だと思いました。「ないんやったら、作ったらええんちゃいますか」と言った甘夏も、そうだったのではないかと思います。けれど、次の遊楽師匠からの言葉で、そんな簡単な話ではないのだと分かります。そして「女の落語家では笑えない」理由も。

「実際の世界でどうかは、関係ないで。大事なんは、お客さんがそこにリアリティを感じるかどうか、や。落語にはな、リアルでない噓の描写がいっぱいある。けど、客はそれを噓やとは思わんと受け入れて観る」

 このリアリティは落語家だけで作り上げただけのものではない。三百年かけて、落語家と観客で作りあげた落語の暗黙の了解。甘夏がいきなり新しいルールで演じても、観る側には伝わらない。

 このように女流落語家の困難を描くこの物語を読んでいて、ずっと抱いていた違和感がありました。落語家の師匠たちは、皆、甘夏に教えてくれるのです。「女には無理」といいながら、落語は教える。このことが、ずっと不思議で仕方がありませんでした。
 その理由が、終盤、竹之丞の話の中で明らかになります。
 落語はこれまで何回も滅びかけている。残った噺家たちの想いを自分たちは繫いでいるのだと。

「これから噺家になろうとするやつは、宝や。大事に育てんとあかん。落語を残さんとあかんのや。それが落語の未来を作るんや」

 落語を絶やさないという思いがある。だから「女流落語家」に偏見を持ちながら、甘夏に落語を教える。
 甘夏の成長は、落語家の数を増やすことのほかに、大切な役割があるのではないかと思います。
ねこ』という噺での女性の扱いや表現に嫌悪感を抱く甘夏。今、ものすごい速度で世の中の正しさ、価値観が変わっていっている。今まで受け入れられていたルールが、いつか通用しなくなるかもしれない。落語の中に違和感を持てる甘夏の感性は、落語の未来にとってとても大切な宝物になるのではないかと思うのです。
 そして「甘夏」の由来について。師匠が若夏に付けるつもりだったけど、偏見に苦しんだ故郷に繫がる名前を若夏に拒絶され、お下がりみたいに貰った「甘夏」。それは、公害に負けず、差別に負けず、その土地で生き抜いた人たちが実らせた果実の名前でした。
 女流落語家に立ちはだかる困難に負けないように、夏之助は甘夏にその名を付けたのでしょう。そして、若夏がいつか自分の背負った困難と向き合えるように、お守りみたいに傍に置いたような気もするのです。

 読み終えてもう一度、タイトルを見る。改めて、素敵なタイトルと思いました。
 現実は厳しく、報われることなんてそんなにない。でも稀に、本当にごく稀に、思いもよらないところで報われることがある。私にとって『甘夏とオリオン』との出会いは、まさしくそういうものでした。想像もしない素晴らしいことが起こって、今、私はこの文を書かせてもらっています。
 この物語に教えられたこと。私はきっと大切なことをたくさん見落として生きてきて、まだまだ世界を知らない。無知は罪。けれど、私にとってそれは希望でした。世界には素晴らしいものがたくさんある、私が知らないだけで、ちゃんとある。
 そう思えたら、いつかそれに気づく瞬間を思いながら、直向きに生きていけるように思うのです。
『甘夏とオリオン』は、落語の奥深さと、世界の美しさを教えてくれた、大切な作品です。

作品紹介・あらすじ
増山実『甘夏とオリオン』



甘夏とオリオン
著者 増山 実
定価: 792円(本体720円+税)
発売日:2022年02月22日

人はいつだって、誰かを待っているんやね。
大阪の下町、玉出の銭湯に居候する駆け出しの落語家・甘夏。彼女の師匠はある日、一切の連絡を絶って失踪した。師匠不在の中、一門を守り、師匠を待つことを決めた甘夏と二人の兄弟子。一門のゴシップを楽しむ野次馬、女性落語家への偏見――。苦境を打開するため、甘夏は自身が住んでいる銭湯で、深夜に「師匠、死んじゃったかもしれない寄席」を行うことを思いつく。寄席にはそれぞれに事情を抱える人々が集まってきて――。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322108000232/
amazonページはこちら


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