文庫巻末に収録されている「解説」を特別公開!
本選びにお役立てください。
(解説者:橋本 麻里 / ライター)
二〇〇四年から二〇一六年まで十二支をひとまわり、怪談専門誌『幽』での連載を主とする二十八本の短篇を、三冊の単行本に収めた「深泥丘奇談」シリーズ、文庫版最終巻となるのが本書である。年来の読者諸賢には既にご承知のとおり、小説家の〈私〉を語り手として進む──いや、直線的には進まず、リングワンダリング(環状彷徨)を続ける物語は、ここでひとまずの閉幕を迎えた。
二〇〇四年の時点では齢四十過ぎ、「推理小説と呼ばれるジャンルもの」の執筆で生計を立て、三巻二十二話目に至って「もうすぐ齢も五十の大台に乗ってしまう」と慨嘆し、二十三話目で馴染みの看護師が手に持つ文庫本の表紙に目を留め、「今から二十年以上も前に刊行され、『新本格推理小説』などと呼ばれてそこそこ話題になった、それは私の著作であった。(中略)新本格……って、ああこれも(後略)」とメタな自虐を吐露する〈私〉は、著者自身を彷彿とさせずにはおかない。その〈私〉が生まれ育ち、よく知っているはずの町は、「紅叡山」「人文字山」「黒鷺川」など、実在する京都のそれを踏まえた地名・固有名詞がちりばめられた、「もう一つの、あり得べからざる京都」である。
眩暈。急激な眩暈が引き金となり、〈私〉が散歩の道すがら通りがかった深泥丘病院の門を潜るところから、物語は始まる。ぐるぐる回る世界はまさに眩暈そのものだが、〈深泥丘〉世界は、万事が円環を描いて閉じている。咲谷看護師は左手首に厚く包帯を巻き、黒々とした大蛇の気配が〈私〉にまとわりつき、身体全体がいびつな「輪」になった異様なものたちが洞窟に潜み、Q**ホテルのプールは、〈私〉が幼い頃に大叔父と過ごした客室とつながって、その「外」へ出ることを許さない。そして十二年に一度、巳──蛇の年の九月に「ねこしずめ」の日がやってくる。それが五たび繰り返されれば、六十年。生まれ年と同じ干支に戻る本卦還り、還暦となる。
還暦──六十年前。かの如呂塚遺跡が発掘された、戦後間もない時期にあたる。ちょうどその頃から、水の悪霊に取り憑かれる者が出る(「悪霊憑き」)、〝六〟山送り火の文字・記号の形が変えられる(「六山の夜」)、ラジオ塔が消えてしまう(続「ラジオ塔」)、オオネコメガニが絶滅する・〈忘却の面〉を使った儀式が始まる・神社の祭神の名が消される(続々「忘却と追憶」)といった、奇怪な事象が起こり始めたという。この町に住む者であれば常識に類する話を、〈私〉はいつも覚えていない。そして問題の遺跡も言及されるばかりで、ついに登場することはない。
そう、〈深泥丘〉世界では、謎の核心となるものは書かれない。名指されもしない。なぜなら多くが、この国の文字では表記しようのない、異様な音の組み合わせだからだ。「悪霊憑き」では水の悪霊「*****(5文字)」、火の悪霊「*******(7文字)」。「深泥丘魔術団」では如呂塚遺跡から見つかった遺物「****(4文字)」、「切断」(続)では森の中の洞窟にいた「******(6文字)」。「開けるな」で、如呂塚遺跡での土産物から出てきた、古い鍵に刻まれた奇妙な文字、あるいは記号。「死後の夢」(続々)では、深泥丘病院のペントハウスに秘された十数文字。「鈴」(続)なら無人の境内に鈴が鳴る廃神社の、表記しようがない名前。そして妻が、先述のいずれとも異なる「何かしら異様な音の組み合わせ」を飼い猫たちに語りかけていたのは、「悪霊憑き」のラストシーンだった。
「IT」ではなく、4文字、5文字、6文字、7文字、十数文字にわたる「それら」。口にするのも憚られる、という風ではなく、〈深泥丘〉世界では、医師から「ご存じありませんでしたか」、妻から「この町に長く住んで、*****を知らないなんて」と言われてしまう程度に、身近な存在であるらしい。だが言葉によって輪郭を与えられていない存在には、どうにも手が掛かりにくい。周囲をぐるぐる回っているだけで、分析的に検証できぬまま、時間と共に細部の記憶が曖昧になる。気づけば読者自身が、〈私〉と同じような状態に陥っている。
名前。シリーズを通じて〈私〉の名は、本来の姓名、ペンネームともに一度として明示されない。深泥丘病院の医師は脳神経科の石倉(一)、消化器科の石倉(二)、歯科の石倉(三)だし、看護師は咲谷、編集者は秋守。主要な登場人物の名で、姓・名とも揃って明らかになるのは一つきりだ。名前以外でも、同音異義語が豊富な日本語ならではの問題として、たとえば「しりょう」という音が資料/死霊のいずれか、判断は文脈によってなされ、単独の語句だけでは判然としない。一見それらしく整合する言葉は、常識と予断に毒されている。虚心に眺めれば、まさかと思われる音の連なりに、自ずから「答え」は示されているというのに。
そういえば「深泥丘魔術団」に登場するカンタ少年の姓もやはり石倉、と明かされている。彼は〈深泥丘〉世界には珍しい子供で、「コネコメガニ」(続)で石倉(一)医師、咲谷看護師と連れ立って、深蔭川上流に生息するコネコメガニを捕っていた。考えてみれば、〈深泥丘〉世界にはほとんど子供が登場しない。〈私〉と妻の間に子はなく、向かいの家に住む森月夫妻も同様らしい。時折〈私〉が車を駆って会いに行く友人の海老子くん、岡山からやってくる妻の友人のヤッちゃん、いずれも既婚子なし、とされている。子供は日々育ち、心も身体も変化していく。彼らのいない世界では、時が止まっても、円環を描いていても、気づかれることはない。
閉じた円環を内から破壊しようという垂直の力を体現するのは、漆黒の翼を広げた巨鳥だ。鳥の眼に飛び移り、天空から螺旋を描くように猛然と落下する〈私〉は、地を穿つ穴の底、暗く深い水の底、その果ての果てへ、繰り返し侵入を試みる。だが最後の水底を突き破るのは、〈私〉でも巨鳥でもない。そして底が抜けた先に広がる、〈深泥丘〉世界の倒立像のような町は──。
〈私〉が暗い部屋の、ひんやりしたベッドの上で目覚める場面から始まった物語は、妻が見たという奇妙な夢について、〈私〉が耳を傾けている場面を冒頭に置いた最終話へ至る。アリアから始まってアリアで終わる、まるでバッハの「ゴルトベルク変奏曲」のように。果たして円環は破られたのか。それともこの、誰かによって見られている夢のような世界からは、ついに抜け出すことができないのか。
「カンヅメ奇談」(続々)に登場する「某区の高台にあるF**ホテル」の、広大な庭園を借景とするマンションの一室で、わたしはこの文章を書いている。そこが〈彼〉の、東京での定宿であることは後で知ったため、これまでにも気づかぬうちに近所ですれ違うことがあったかもしれない。
明治の元勲の邸宅跡を受け継いだホテルの敷地は、台地から崖線までの標高差を巧みに取り込んで庭園を整備し、下鴨神社境内にあった稲荷社や、伏見の古寺に埋もれていた五百羅漢像など、京都から移築・勧請されたものが無数に配されている。また崖線下からの湧水も古来豊かで、敷地内の古井戸はいまだに自噴しており、周囲には水神を祀った神社や旧大名家庭園跡の池などが、鬱蒼と繁る巨木に隠れるように残っている。そういえば、風雅な池泉回遊式庭園の一部、というには、その池はずいぶん深いのだと聞いた。
暮れ方のテラスに気の早い蛍が迷い込む。後になり先になり、明滅する灯りは四つ。コートやシャツ、フェルトペンなど、物語に点々と刻まれる鮮やかな赤色が表象するもの、倒立像のように世界を映しこむ「目」など、重要な問題はまだまだ残っているが、残念ながら紙幅が尽きた。仕方がないので夕涼みがてら、池の方へ散歩に出かけてみようか。今日あたり、天から猫が降ってくる──かもしれない。
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