易者が自分の手相を見て絶句し、ぶるぶるふるえ出す。このばかばかしくて、ちょっとシャレた導入部から、読者は一気に物語の中へ引きこまれてしまう。
人類絶滅の予兆として、あえて手相見といういかがわしくもまた卑近な予言者を出してきたところがシャレているわけだが、実はこの予言者がキリストやマホメットのような預言者ではなかったというところに意外にも重大な意味がある。本書を最後まで読めば当然誰にでもわかることなので、ここではそれについては触れないでおこう。ただ、単なるギャグだと思えるような小さなエピソードにも、作者の周到な計算が働いていることは知っておいてもらいたいのである。
いわゆる破滅テーマ、人類絶滅テーマの小説は、SFというジャンルの中でしか扱えないとは限らないはずなのだが、日本では「まともな文学」としては一度も書かれたことがなかった。これは自然主義リアリズムでは国家の枠を突破して世界を描ききるのが困難なためでもあるし(そうでなければ大江健三郎等に終末を見すえた文学がないわけではない)、おおむね日本の文学者には破滅テーマそのものを扱い得る能力も思想もなかったという事情にもよるらしいのである。
破滅テーマを書くためには強い歴史認識が必要とされるが、残念なことに日本人にはこの能力がはなはだしく欠けている。良いとか悪いとかではなく、魚は木に登れないということを私は言いたいのだ。日本人は非歴史的であり、非論理的であり、非宗教的である。裏をかえせば 刹那的で、感性的で、生そのものが一個の芸術作品のような存在、それが寓意的意味での日本人だということである。もっとも源氏物語の世界にいい知れぬ郷愁を覚える現代の日本人はもはや日本人とはいいがたいし、あまり適切な比喩ではないが現代の日本人は煙草の味を覚える前に禁煙してしまったようなところがあって妙に中途半端な存在なのだが、逆にその点がいかにも日本人らしいともいえる。
宗教と歴史を代表する民族がユダヤ人、論理性を代表する民族がギリシャ人だとすれば、世界にはユダヤ人とギリシャ人と日本人しかいないといえるかもしれない。このようなことを考えたり書いたりすることは、すでに日本人ではなくなることだから、黙示文学を書き得るのも当然非日本人だけである。日本人は自分自身を定義することができない唯一の民族であり、そのせいか日本人論が続々と出版されそれが飛ぶように売れる。しかもそのような傾向が続くと寓意的な意味での日本人が消えてしまうというのだからなおさらおもしろい。しかしそれはまた別の話だ。
筒井康隆や小松左京や星新一をはじめとして多くのSF作家が必ずといっていいほど「破滅テーマ」を手がけているのは、彼らがSF作家だからではなく日本人ばなれした論理性と歴史性を持っているからである。歴史は何度でも繰り返し書かれなければならないはずなのだが、日本人だけがそれを怠ってきた。
歴史は書かれることによって存在をはじめるようなもの、おそらく「書物」のようなものだろう。歴史が宗教と結びついているのはけして偶然ではない。はじめに聖書があったのであり、歴史はユダヤ人によって発明されたのだ。ユダヤ人にとって現世の苦悩は歴史的所産でなければならなかった。なぜなら、やがて神がこれを神の欲するような状態、つまりユダヤ人が救われるような状態へと克服するからである。歴史はそもそもユダヤ民族のためのものであった。この民族的な歴史が世界史へと普遍化されるためには、黙示文学的終末論によって現実世界が歴史化されなければならなかったのである。つまりユダヤ民族にとっては終末論的希望の対象であった「ヤーウェの日」が、彼らが期待するような栄光と幸福に輝く日ではなく、普遍的な基準で審判が行われる恐怖と暗黒の日に逆転する必要があったのである。終末論なき歴史はあり得ない。
ところが現代は反終末論的な時代である。神は死んでしまった。したがって終末論は根拠を失いバベルの塔のように地上に倒れざるを得ない。終末論の否定は極限の否定、つまり始源と終極の否定である。始点と終点があったからこそ直線が引けたのであり、それがなくなれば始まりもなければ終わりもない、浮遊する粒子の世界が現出するばかりだ。その自由粒子の勝手気ままな運動を記録したノートを「書物」と名付けたわけである。この書物はいかなる観点で書かれたにせよそこに観点がある以上われわれが現実と呼ぶものとはつねに異なり、製作されたとたんに破棄されねばならないような不安定な構造を持つ。しかし押し寄せ渦を巻く粒子の流れの中から、せめて首だけでも外へ出そうとするのが人間ならば、不可能な歴史はまさにそれが不可能であるゆえに何度でも書かれなければならないのだろう。
終末論の否定は存在論的には存在の絶対現前の否定である。あらゆる物がそれ自体とは異なり、それ自体がその物の存在と重なるべき終末の時はいつまで経っても来ない。したがって「書物」から観点を取り去ることに成功したとしても、その物はつねにそれ自体とは異なり、世界は世界の実相と異なる。世界の実相と異なる「世界」を書物と呼び換えることは可能だろう。こうして世界の中に歴史が含まれるか、それとも歴史の中に世界が含まれるかという世界と歴史の長い間の相剋]は書物の名の下に統一されるのである。
世界も歴史も書物にすぎない事態の中で文学者に為し得ることは、けしてつかみ出せない現実を虚構の上に幾重にも虚構を積み重ねることによって描き出すことだろう。「虚構の中にあって現実が模倣し得ぬほどの虚構性(超虚構性)を追求することによって現実への回帰を果たすこと」(筒井)。しかし虚構が自分の身を削るようにして虚構の否定を繰り返していけば、やがて言語や形式の問題に行きつかざるを得ない。
自然主義文学の極限に位置する私小説という形式では「人間が知ることができないのは何よりも自分自身である」という命題を先鋭化させ、形式そのものにも本質的な欠陥があることを浮きぼりにしたが、とりわけ形式の問題は今世紀の初め頃さまざまな矛盾を露呈させた近代数学が、形式化によってその危機を脱しようとした動きと呼応しているように見えて興味深いものがある。数学を基礎づけるためにヒルベルトは、数学の中になお残るあいまいさを除去しようと記号論理学を導入したわけだが、ヒルベルトのプログラムに従って数論の体系を形式化してみると、その体系の中に定理とも非定理とも判定できない命題が必ず出てきてしまう。このことを証明したのがゲーデルで、これはゲーデルの不完全性定理と呼ばれている。学問の中で最も厳密な学と考えられていた数学の内部で発生したこの爆発は、その後さまざまな領域に連鎖反応を起こしたが、この定理のアナロジーをとりあえず私小説に応用すると、いっさいの虚構を排し自己という閉じられた体系の中で自分自身を含む世界を記述しようとしたのが私小説の方法だから、現在小説を書きつつある自己、構成を考え的確な単語を探している自己の存在というものが、たとえば太宰治の『逆行』に典型的にあらわれているように形式そのものを破壊せずにはおかないのである。自己を破壊しない私小説はその本来の目的から考えて中途半端な妥協の産物であり、本来的な私小説とはいいがたい。ここに中間小説の出現する素地があったのかもしれない。認識論では自己認識が知覚の知覚という回帰的な構造を持つことから、その境界において破綻することが明白に示される。「主観は世界に属してはいない。それは世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。こうして私小説は方法論と認識論の両面に解決不能な矛盾をはらんで身動きがとれなくなったのである。
自然主義文学が直面したこの壁は実質的には還元論的なリアリズムが直面した壁であったため、自然主義文学を単に反転させただけの反自然主義文学ではこの壁を乗り越えることはできなかった。このような文学の閉塞状況を打破するものとして注目を集めたのが魔術的リアリズムと称される全体論的リアリズムを取り入れたラテンアメリカ文学だった。全体論的リアリズムはカフカにおいてすでに意識的に取り入れられているが、ラテンアメリカ文学には思想の物象化としての象徴性が欠けている、というよりむしろ意識的に象徴性を排除することによって現実と幻想を同一の文学空間に取り込み真の全体論的リアリズムを実現したのである。
こうした流れの他に反文学を目指してゲーデル的に自壊する多くの現代小説があるが、筒井康隆の独自性は反文学でも幻想でもなく反現実に着目した点にある。反現実は幻想に含まれるが、幻想は必ずしも反現実とは限らない。幻想とはもしかするとあり得るかもしれない想像可能な空想のことであり、反現実とは想像不可能な空想のことである。筒井自身の用語法に従ってこれを超虚構と呼び換えれば、たしかに超虚構性によって敷きつめられた道は自然主義文学が激突した壁の裏側にまで通じている。『虚航船団』の第三章では、この壁の向こう側とこちら側を自在に往復してみせてこの手法の有効性を見せつけたのである。
最終的に残存する壁は言語そのものが突き当たっている壁、「書く」という行為自体の中にすでに含まれている壁だが、現実世界が書物として立ちあらわれている以上それは存在論的な壁である。自殺することでしか証明できない実存や終末を予定しなければ書けない歴史、書かれることによって変わってしまう世界、このような逆説的な壁は壁というよりはむしろ蜃気楼であり、そこにたどりついたと見えた瞬間にはすでにそこにはないような何物かである。蜃気楼は見渡す限り何もない広漠たる砂漠の彼方に、しかし今にも手が届きそうなほど近くに見えている。旅人はそれを捉えようとし、不可能なこの旅を、背後に足跡だけを残して歩み続ける。彼自身ユダヤ人である詩人のエドモン・ジャベスは言う。「砂漠では、何一つ花が咲かない」。しかし咲かない花について記述せねばならなかった彼の苦悩は、現代の文学者が共有する苦悩である。「手にすくい上げた砂を見てごらん。そうすれば言葉の空しさがお前にもわかるだろう」(ジャベス)。意味から切り離された言葉が砂のように流れるだけ、そして人はただ砂の中をさまよい続ける。超虚構から脱虚構へ。書き続けることによって「書物」は書かれる。書き続けることが「書く」ことなのだ。
超虚構性を追求することがそのまま脱虚構へ通じていることを筒井康隆ほど意識している作家はいないだろう。反終末論的な終末を描いた本書にもそのことが明白にあらわれていて、特に最終章の、意味が剥脱した記号と小さな昆虫とのたわむれには目をみはらされる。このように現代的な小説を二十年近くも前に書いていた筒井康隆という作家に改めて畏敬の念を覚えずにはいられないのである。
むろん本書は傑作である。それは言うまでもないことだ。常日頃から私は「人類が絶滅するのは勝手だが、どうかおれを巻きぞえにするのだけはやめてくれ」と主張してきたのだが、このような物語の中でなら死んでもいいような気がしたほどである。もちろん銀座四丁目の誰もいない交差点で、ボブ・ディランの『第三次世界大戦を語るブルース』でも口ずさみながら。
書誌情報>>筒井康隆『霊長類 南へ』
レビュー
紹介した書籍
関連書籍
おすすめ記事
-
レビュー
-
レビュー
-
試し読み
-
レビュー
-
連載
-
試し読み
-
連載