歴史は学問であり科学である。従って文献史料の解釈だけが歴史ではない。例えば、神護寺所蔵の「伝源頼朝像」、この像は今日では室町幕府を開いた足利尊氏の弟、直義を描いたものと見なされている。どうしてそう変わったのか。それは画布を科学的に分析して鎌倉時代のものではないという結果が出たことが大きな要因である。放射性炭素年代測定(C14法)技術の発達により、最近ではかなり正確に古代の年代測定が可能となったが、これなどは自然科学技術を歴史に適用した最たるものであろう。歴史が科学であれば、歴史は物理学等と同様に日々新しい発見によって更新されていく。昔の中国では、新しいお墓が発掘される度に、大量の文書が発見されて、歴史が書き換えられたといわれてきたほどだ。
鎌倉時代や室町時代は、歴史の研究が進んで昔の通説は今日ではかなり修正を余儀なくされている。新しい研究成果の具体例をいくつかあげてみよう。
1.源氏 対 平氏、源平対立について
昔は、源頼朝の率いる源氏と平清盛の率いる平氏の争いだと考えられていたが、頼朝軍の主力は「坂東八平氏」と呼ばれた平氏の豪族であり、この戦いは平氏の主導権争いであった。現に鎌倉幕府の権力を握った北条氏は平氏であった。つまり、伊勢から都に上り西国を基盤とした清盛の伊勢平氏を、頼朝を担いだ東国の平氏が倒したのである。
また最初の武家政権を築いたのは清盛である。軍事警察権の掌握、守護・地頭の設置、京都から離れた地(福原)からの権力の行使などは、清盛の創始によるものであり、そのほとんどを頼朝が真似ることになった。このようなケースは世界史上よく見られる。秦の始皇帝が始めた諸政策を、漢の劉邦がほぼそのまま踏襲した例などがその典型であり、隋と唐の関係も同様である。
2.モンゴル戦争(元寇)について
最近の歴史学では、用語をよく吟味して正しく使用することが大きなトレンドとなっている。モンゴルの日本遠征について本書(197頁)では「元寇」もしくは「蒙古襲来」という従来の用語を用いているが、最近では価値中立的な「モンゴル戦争」という言葉を用いる学者も増えている。本書は「この戦いをきっかけに鎌倉幕府の力がおとろえた」という立場を採っているが、実態をよく見るとモンゴル戦争に全国の武士を動員するために鎌倉幕府は自らの軍事警察権を全国に貫徹させており、モンゴル戦争が終結した時点で鎌倉幕府の権力はピークをつけたものと見られている。鎌倉幕府が滅びたのは、土地本位制を採っていた幕府に対して、清盛が本格的に始めた日宋貿易によって貨幣(宋銭)が大量に流入し、貨幣経済を上手く活用した新興の人々(悪党、203頁)との利害調整に失敗したことが主因ではないかと考えられている。
3.鎌倉文化について
従来は鎌倉文化について、武士や庶民の好みや生活に合った親しみがあり力強い新しい文化が生まれたとする見方が支配的だった。そしてその代表として、鎌倉新仏教――法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西や道元の禅宗などが広まったと考えられてきた。しかしこれも実態を備に見ると天台宗や真言宗、南都六宗などの旧仏教の方がはるかに民衆に浸透しており、新仏教が広まるのは実は戦国時代であることが明らかになった。もちろん東大寺南大門の金剛力士像のような力強い作例も見られるが、「新古今和歌集」(153頁)、「金槐和歌集」(155頁)に代表される優美な作例も多く、優美な平安文化と力強い鎌倉文化をことさらに対峙させる見方よりも両者の連続性や一体性を重視する立場が増えつつあるというのが最近の動静である。
以上3点に絞って新しい研究成果を紹介してきた。鎌倉時代のエピソードには、一度話を聞いたら忘れられない劇画的なものが多い。しかしそのほとんどについては実は信ぴょう性が疑われているのである。例えば、義経の「鵯越の逆落し」(40頁)については、当時義経が鵯越には居なかったことがほぼ実証されている。また「承久の乱」における尼将軍、北条政子の大演説(140~145頁)も、フィクションであることが確実である。我々は劇画的な華々しい、しかし確かな裏付けのない歴史から地に足のついた実証的な歴史へと向かっていかなければならない。
最後に、鎌倉時代とはどのような時代だったのだろうか。一言で言えば、平安時代との連続性の強い権門体制の時代だったのだ。王家(天皇という中国に見せる称号は村上天皇を最後として使われなくなっていた)や摂関家をはじめとする公家勢力、有力な寺社勢力、新たに勃興した武家勢力などの各々の権門勢力が、相互に補完あるいは競合しながら荘園公領制(土地本位制。荘園と公領の比率は大体五分五分と考えられている)を通じて農民を支配していた世界だったのだ。当初、幕府の力は東日本の御家人どまりだったが「承久の乱」を勝ち抜いたことによって、西日本にも御家人を置くことができるようになり、西日本の御家人を統轄するために京都に六波羅探題を置いたのである。武士による最初の法律「御成敗式目」(152頁)は、全国に適用されたのではない。公家が支配する荘園公領には律令が適用され、有力寺社が支配する荘園には寺社各々の掟が適用されたのである。武家は承久の乱で頭一つ抜け出し、モンゴル戦争で絶対的な地位を占めるようになったのである。しかし、このような土地本位制に基づくタテ支配は、確実に浸透する貨幣経済によって足元から崩されつつあった。モンゴル帝国は銀と紙幣によってマネーサプライを供給したため、銅銭は不用となった。余った宋銭の1割前後が日本に輸入されたと見られている。そして、そのマネーを背景に新興階級(悪党など)が伸し上がってきて、伝統的な土地を拠り所とした階級と争い次の時代を切り開くことになる。頼朝が「御恩」(本領安堵、所領の新与)と「奉公」(軍事や警備)で御家人との間にきずなを強めたこと(83頁)が鎌倉時代≒土地本位制の象徴であろう。
書誌情報はこちら>>山本博文『漫画版 日本の歴史 5 いざ、鎌倉 鎌倉時代』
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