本書は酒井順子さんの代表作のひとつである「負け犬の遠吠え」の地続きにあるものながら、負け犬たちのその後をつまびらかにすることが目的の書ではありません。子を持たぬ人たちへエールを送る本でもありません。誰のことも否定せず、強く肯定もせずに、出生率が低下した日本社会を俯瞰したものです。
内閣府が発表した「少子化社会対策白書」(平成29年度)によると、日本人女性の第一子出生時平均年齢は、平成27年で30・7歳でした。平成2年の27・0歳と比較すると、3・7歳上昇しています。
酒井さんが記すように、日本では結婚ありきの出産が一般的とされています。よって晩産化は晩婚化が主な要因と言えるでしょう。前出の「少子化社会対策白書」によれば、日本人の平均初婚年齢は平成27年で夫が31・1歳、妻が29・4歳。平成2年と比較すると夫は2・7歳、妻は3・5歳上昇しており、晩産化の上昇年数とほぼ一致します。第一子の出産年齢が上昇すれば、第二子、第三子誕生の可能性はおのずと低下します。このように、晩産化も未婚率の上昇などとともに少子化の一因と考えられますが、だったら女が早く結婚して産めばよいという話でもありません。女性の意思ひとつで子どもが産めるわけではないことは、少し考えればわかることです。
本書の大きな意義のひとつに、子なしの理由にも多様性があることを記した点があります。「どうしてもできなかった」から、私のような「なんとなく」、そして「子供はいらない」と明確な意思を持つ人まで、子を持たぬ人はさまざまです。
酒井さんはバブル世代、私は氷河期世代、そして平成が終わろうとするいま、平均初婚年齢(アラサーと呼ばれる年頃)にいるのが、平成が誕生する前後に生まれた世代です。これら三世代は、同じ国に生まれ育ったとは思えぬほど価値観に乖離があります。しかし、バブルも氷河期も平成序盤生まれも、十代の頃は漠然と「いつか自然に結婚して子供を持つことになるだろう」と思っていたのではないでしょうか。少なくとも私はそうですし、今年三十歳になる女友達もそのようです。
現実は、そうはいきませんでした。酒井さんも私もアラサーの女友達も、依然、未婚子なしのまま。「自然に結婚し、やがて出産するだろう」と思っていた三世代の多くは結婚を経て出産に至りましたが、残されたその他はやがて「自然に」では結婚も出産もできないと悟り、それでも子を持つことに積極的になれず、気付けばタイムリミットが来てしまうのです。
政府や自治体の少子化対策を見ていると、待機児童ゼロを目指したり、社会での女性の活躍を促したりと、子供を産み育てやすい環境を整える策を講じているようです。同時に、導入が検討された「女性手帳」では女性に出産の適齢期やリミットについて説く方針がありました。つまり、育児の困難を取り除くとともに、先述の「その他なんとなくな女たち」をこれ以上増やさないことが、少子化を食い止めるとお上は考えているのでしょう。
では、出産のゲートウェイである結婚を渋る現代の若者たちは、なにを考えているのか。前出の「少子化社会対策白書」には
「いずれ結婚するつもり」と考える未婚者(18~34歳)の割合は、平成27年で男性85・7%、女性89・3%であり、ここ30年間を見ても若干の低下はあるものの、男女ともに依然として高い水準を維持している。
とありました。わかる。わかりすぎる。私だってそう思っていましたから。
では、「いずれ」と考えている若者はなぜ若いうちに結婚しないのか。同資料には、
未婚者(25~34歳)に独身でいる理由を尋ねると、平成27年で男女ともに「適当な相手にめぐり会わない」(男性:45・3%、女性:51・2%)が最も多く、次に多いのが、男性では「まだ必要性を感じない」(29・5%)や「結婚資金が足りない」(29・1%)であり、女性では「自由さや気楽さを失いたくない」(31・2%)や「まだ必要性を感じない」(23・9%)となっている。さらに、前回の第14回調査(平成22年)と比較すると、男性では「自由さや気楽さを失いたくない」(28・5%)や「異性とうまくつきあえない」(14・3%)が上昇しており、女性では「異性とうまくつきあえない」(15・8%)が上昇している。
とありました。これらが解決されない限り、当事者の「いずれ」は訪れません。
晩婚化の原因を結婚制度に対するイメージの悪化と捉える向きがありますが、それだけではないと思います。むしろ、「私はさまざまなスペックにおいて結婚(及び恋愛)という段階に至る資格がない」と考える人が増えているのではなかろうか。イメージが悪いのは結婚ではなく自分自身。男女ともに最多の「適当な相手にめぐり会わない」という理由ですら、ある程度の条件を満たした相手とでないと、自分だけでは結婚をうまく維持できないという不安が透けて見えます。とりあえず結婚すればなんとかなると思われていた時代がうらやましくもあります。
同じことが出産や子育てにも言えるでしょう。要は、男女ともに抱える「この社会でうまくやる(さもなければ取返しがつかなくなる)」というプレッシャーが甚だしいのだと思います。「うまく親をやれる気がしない」という漠たる不安が、妊娠・出産から若者を遠ざけている。私はそう感じます。
問題は、この社会が「私でもまともな親になれる」と自信を持てる状態にないことです。酒井さんは「子供は贅沢品になった」と記しておりますが、それは裏を返せば「贅沢品である子供を育てる上で、失敗は許されない」という圧を社会が親に掛けているとも推察できるのではないでしょうか。
酒井さんは、結婚の二文字を前にすると逃げ腰になる男性も少子化の要因と記しており、私もそれに賛同します。男性も、旧来型の夫や父(≒稼ぎ手)をうまくやれる自信がないのでしょう。ならば、スペインやイタリアなどほかの伝統的な家族観を持つ国でも少子化が食い止められないように、女を家庭に押し戻すだけでは日本の少子化は解消できません。酒井さんの指摘通り、形式的な過去への回帰はやはりお門違いと言えます。
また、現代社会で好ましいとされる「自立」は、高度成長期における自立、つまり結婚して子を持つことよりも、まず個人として経済的精神的自立を達成している状態です。そこで前出の「少子化社会対策白書」で平成24年の所得分布を平成9年と比べてみると、20代では250万円未満の雇用者の割合が増加、30代では400万円未満の雇用者の割合が増加しており、自立の定義が個人の経済的自立を示唆するものへと変化したにもかかわらず、実情がそれに追いついていないことがうかがえます。「自立の定義の変化」と言うより、「好ましいとされる自立の順番」と言った方がよいかもしれません。経済が右肩上がりの時代では、何もない二人が夫婦となっても、後に経済的な豊かさが半自動的に入手できたかもしれませんが、今はそうではないことがデータからうかがえます。
これだけの荒波に揉まれるとなると、圧を跳ね返すほどの覚悟で「子が欲しい」と望むか、旧来型の「結婚したら、そういうものだから」と考えるしか子作りに向かうことはできず、後者は当事者がかなり若いか、産後の手助けが十分に見込める他者が周囲に存在するしか手はありません。つまり、敏さとい人ほど結婚や妊娠出産子育てへの警戒心がつのる可能性が高い。それを覆すのが「子供が欲しい」と願う(主に)女性の情熱だけに掛かっているのは、甚だ心もとなく感じます。
酒井さんはご自身の最期についてたびたび姪御めいごさんを心配されていらっしゃいます。介護を含めた看取りの問題です。
経済的にも精神的にも自立した既婚者でも、親族や公共サービスに頼らねばままならないのが子育てだとすれば、同じように自立した独身者が、己の力だけではどうにもならなくなるのが親の介護と自分の最期です。どこかのタイミングで誰かを頼りにしなければ、どんな人も立ち行かなくなるのでしょう。
子を持つか否かは個人の自由だからこそ、日本の少子化を食い止めるためには、他者の子育てにも柔軟に手を差し伸べていける他罰的でない社会を作ることが先決でしょう。子を持つ家族の形態を固定しないことも必須です。
なにより、うまくやれなくても誰かが助けてくれる、自立と相互扶助は同時に成立すると担保できる社会は、子供を持つ人だけでなく、子供のいない独身者にとっても安心して生活できる社会です。ユートピアを目指すような話で若干気が遠くもなりますが、助けが必要な側から助ける側へと移行できる可能性が最も高いのが子供ですから、その逆を行く予定の大人たちは、誰の子であれ、全面的にサポートせねばならない。徹頭徹尾、俯瞰の目で子なしの人生を紐解いた本書が、私に気付かせてくれたことです。