対談
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光源氏に教わる「老い」とか「恋」とか。 『古典のすすめ』刊行記念対談 谷知子×酒井順子
撮影:後藤 利江 取材・文:高倉 優子
平安のプレイボーイ・光源氏、中世武士の「人に嫌われない教え」など日本古典文学に広がる豊かな世界。今では古典の世界に魅せられているお二人だけど、実は元から古典がお好きだったわけではなかったそう! 大人になったからこそわかる、古典の楽しみとは?
悩んでばかりの青春時代でした
谷: 酒井さんは古典がお好きですか?
酒井: じつは私、中高生の頃は古典にまったく興味がなかったんです。三十歳を超えて、エッセイストとして仕事をしているのに「枕草子」すら読んだことがないのは、いかがなものかと思いまして……。やっと読み始めました。
谷: そうだったんですね。古典関連のエッセイをたくさん書いてらっしゃるから意外でした。古典に興味を持つ若者の割合が昔に比べると減少傾向にあるように思います。ただし私の大学では選択必修の「古典文学史」という授業があるので、そこで「古典の魅力にひきこもう」と思っているんです。それが本書を書いたきっかけのひとつですね。
酒井: 谷先生は学生時代から古典が得意でいらしたんですか?
谷: じつは私も高三までは医師を目指す理系の学生だったんです。夏の終わり頃、臨死体験の夢を見たんですが、夢の中でものすごく後悔しました。「私が本当にやりたかったのは文学だった」と泣きながら目覚めて。それで父に「私、文学部に行くから」と言い、短期間で古文の読み方などを独自に編み出したんです。それで今に至ります。
酒井: そうなんですね。先生こそ、意外です!
谷: 寄り道したり悩んでばかりいた青春時代でした。大学に入学してからも、古典ではなく近代文学を専攻しようかなと思っていたんですが、京都にある桂離宮で古き佳きものの素晴らしさに衝撃を受け、やっと古典を本格的に学んでみよう決めたんです。
酒井: 学生さんたちもそういう話を聞くと励まされるでしょうね。先生も迷いつつ生きてこられたんだ、と。
谷: そう思ってくれたらいいですね。自分もそうだったからこそ、私はもがきながら頑張っている人が好きなんです。
光源氏のパフォーマンスに憧れる
酒井: 私も、古典と出合ったのは遅かったけれど、人生経験を積んでから読んだからこそ、悩んだり迷ったりしている人たちと自分を重ね合わせて読むことができました。
谷: いろんな人に出会ったあとのほうが、光源氏や女君のことも理解できますよね。
酒井: そうですね。たとえば実際に恋愛をしていなかったら、六条御息所の嫉妬の苦しみには共感できない。
谷: 年齢を重ねた今は、「源氏物語」の第二部(若菜巻~幻巻)のほうが断然、面白くなりました。四十歳を過ぎ、年を取った光源氏の悔しさや苦々しさが身に沁みます。
酒井: ちなみに谷先生は、「源氏物語」の女君の中では誰がお好きですか?
谷: うーん、あまり女君には共感できないんですよ。逆に、光源氏みたいになってみたいと思うことはありますね。「夕顔の巻」に、筆跡を変え、覆面をして素性を隠しながら夕顔と逢瀬を重ねる光源氏が、覆面を取りながら「露の光やいかに(私の顔を見た感想は?)」と言う場面があるんです。ただただ「かっこいい!」ですよ(笑)。女性として見た光源氏は好きじゃないけれど、こういった彼のパフォーマンスには憧れます。酒井さんはいかが?
酒井: 私は朧月夜の性に奔放な感じが好きですね。男性には不人気なのかもしれませんが。男性に聞くと、花散里が好きだという人が多い気がします。
谷: 控え目で、じっと待っていてくれる感じがいいのでしょうね。
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酒井: 『古典のすすめ』では、文学作品以外に北条家に伝わる家訓を紹介なさっていたのも面白かったです。
谷: 家訓は個人的なもので倫理や哲学とは異なり、処世術と見なされるからか歴史家の人はほとんど扱いません。そのため注釈書も少ないのですが、今に通じることが書かれていて私は大好きです。本書で紹介できなかったものですが、たとえば「扇は三本で百文くらいのものがよい」とか「馬は大きすぎても小さすぎてもいけない」など、人に嫌われたり、ねたまれないようにという教えがつづられています。「人はねたむものである」という前提がある。つまり性悪説なんですね。
酒井: 当時、家訓は各家にあったものなんですか?
谷: はい、もともと武家のものですが、それを真似て農家や商家も作りました。先日、ある和菓子屋さんのご主人とお話ししたら、代々伝わってきた家訓と北条氏の家訓がよく似ていて驚いたとおっしゃっていました。
酒井: なるほど。ところで本書には、俵万智さんや谷川俊太郎さんなどの作品も登場しますね。古典と近代以降の作品は分断されているイメージがあるけれど、つながっていることを再認識しました。
谷: 引用した古典にはすべて現代語訳を付けたんですけど、一緒に引用した近代の作品が現代語訳的な意味を持つように呼応させて選んだつもりです。古典を現代的に表現したらこの作品みたいになるよ、と。
酒井: いいですね。とくに詩は古典との親和性が高いと思いました。
谷: そうですよね。私も詩が好きなので楽しく選びました。
酒井: 先日、友人と「詩人最強説」を語り合ったんです。詩人は、翻訳したり、エッセイや小説を書いたりしても上手な場合が多いものです。オールラウンドであり最強であるのは、エッセイでも小説でも、全てを詩の延長線上でとらえているからではないか、と。エッセイストに詩を書けと言われてもできないですから。
谷: 確かに、歌が苦手だった清少納言には物語は書けなかったけれど、紫式部は歌人としても優れていた、つまり詩人だったから名作が描けたのだと思いますね。
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一日に一度はハレの瞬間を持ってほしい
谷: 酒井さんが古典を読んで楽しいと思うのはどんなところですか?
酒井: 私は生身の人とのコミュニケーションが苦手なので、すでにこの世にいない人とのほうが気楽に付き合える(笑)。そんな感覚で古典を読んでいます。昔の人は自分と同じことを考えていたということに驚いたり、また、自然に対する概念が現在とまったく違っていたりもする。つまり人間は変わらないものであり、同時に変わっていくものなのだと古典を通じて知り、カルチャーショックを受けました。
谷: すでにこの世にいない人という感覚で古典を読んでいるのが面白いですね(笑)。私はやっぱり古典文学が文学の最高峰だと思っているんです。もちろん現代小説も好きですし、素晴らしいと思うのですが、いまだに「源氏物語」を超える小説には出合えていません。ハレの緊張感があるもの、頂点を極めてハイになれるような作品が好きなんです。ハレという概念は古典でとても大切にされています。それが美意識や美学と結びついているのです。 私は学生たちに「一日に一回はハレの瞬間を持ってほしい」といつも言っています。ハレといっても入学式などの儀式的なことではなく、雨が上がって虹が出た瞬間とか、カーテンを開けて日差しを浴びたときなど。それこそ歌や物語が生まれるような一瞬がハレの瞬間です。生活の中に、そういう輝きがあれば豊かに暮らしていけると思うのです。