「接触」は、「ハリー・オーガスト、15回目の人生」に続くクレア・ノースの二作目。二〇一五年の作品。前作では、死ぬたびに同じ人生を繰り返し、それを少しでも良いものにしようとする男の物語が語られたが、この「接触」は、相手に触れるだけでその肉体を乗っ取ることができるようになった人間の物語。原題の「TOUCH」は、まさに「触れる」ということだ。この能力がもたらすものは、主人公は老若男女どのような人間にもなることが出来るということで、ほぼ不死の存在になる。つまり服を着替えるように他人の肉体を借りていくことで、様々な時代の様々な人生を自分のものとして生きることになるわけだ。こうした能力を持つ存在はゴーストと呼ばれるのだが、それは主人公だけではなく、複数存在していて、中にはマリリン・モンローの肉体を借りるゴーストがいたりする。
物語はイスタンブールで主人公が狙撃されるところから始まる。危険を感じた主人公は宿主の女性を守るために、近くにいた人間の体に移動する。自分が離れた宿主は無害の存在になるからだが、彼の目の前で、明らかにその必要が無い宿主の女性が撃ち殺されてしまう。何故彼女が殺されなければならないのか、その理由を知るために主人公は行動を始める。言ってみればサスペンス・アクション的な物語になっていくわけだが、女性作家とは思えないほど暴力的だし、血まみれの物語になっていく。主人公が狙われるに至る背景には、ゴーストを実験の検体にしようとする組織が存在し、その正体を知るために主人公の旅は中近東からヨーロッパ全域、そしてアメリカにまで広がっていく。その主人公の探索の過程で、様々な土地、様々な人、そして他のゴーストや主人公の過去のエピソードが織り込まれていく。まるで精巧に織られたタペストリーのような作品。
ゴーストのような他人の肉体を乗っ取っていく存在というアイディアは既に幾つも書かれている。ただその多くは人類に対する敵というものがほとんどであった。「接触」のようにゴーストの側から書かれているものは少ない。こうした視点で書かれた作品で最も優れたものはグレッグ・イーガンの短編「貸金庫」(短編集『祈りの海』収録)だろう。主人公は三九歳の男性。毎日、目が覚めると自分は違う男性の体の中にいる。無制限に移り変わるのではなく、同じ誕生日、同じ街に住む男性だけが対象になる。この設定は、うまい。生まれると同時にこの現象が起きているとすれば、彼が転移できるのは同じときに生まれた赤ん坊でなければならないからだ。ま、生まれたばかりの赤ん坊はみんな同じに見えるしね。そして五〇代のビジネスマンの中身が生後一日の赤ん坊になるというようなことが起きないわけだ。何故、主人公にそのようなことが起きたのか、説明は無い。そうした原因の説明はしばしば、物語の面白さを殺すことになるから、この「貸金庫」に関しては正解というべきだ。この「接触」では、何故このようなことになったのか、ちゃんと説明がされているけれども、だからと言って、物語そのものが損なわれることは無い。安心して欲しい。短編と長編の違いだ。
「貸金庫」では、主人公の意思が介在する余地はない。毎日、何の理由も無く他人になっていく。このアイディアと同様なものを使った「Beauty Inside」という物語がある。小説ではなく、インテルと東芝が提供した六部作のウエブ・ムービー。二〇一二年に公開され評判になり、二〇一三年のカンヌ・ライオンズでフィルム部門、そしてサイバー、ブランデッドコンテンツ&エンタテイメント部門のグランプリを得た。わたしはその時フィルム部門の審査員の一人だったけれども、仲間の審査員の一人が、「このラストを見るたびについ涙が出ちゃうんだ」と言ったことを覚えている。毎日、違う男の体の中で目覚める主人公が恋をする。けれども、毎日違う人間になってしまうのに、どうやって相手の女性に愛してもらえるのか? ラブストーリーなのだけれども、このシリーズが優れていたのは、ストーリーだけではなく、主人公の姿が、毎日変わるというアイディアを発展させて、視聴者自身が自分の体験をフェイスブック上で語り、ストーリーに参加できるというシステムを開発したことだ。つまり視聴者自身が主人公のある日の姿の人間として物語に参加できるというわけだ。「Beauty Inside」は韓国で映画化され、ハリウッドでも映画化されるという話がある。
「接触」には映像化された予告編があるのだけれども、それが「Beauty Inside」の視聴者ヴァージョンに近いものがあって、つい、思い出してしまった。
クレア・ノースという作家には、特異なところがあって、いや、まだ二作しか読んでいないのだから、極め付けるようなことを言うべきではないのだろうが、既存のアイディアを発展させ、異なる物語を造り上げることに長けている。「ハリー・オーガスト、15回目の人生」も、そしてこの「接触」も、元のアイディアから想定されるものとは全く違う物語になっている。「接触」の主人公は、他人の体を盗み、人生を盗む存在だから、本来は否定されるべき存在だ。作中でも敵対する登場人物から倫理的、物理的に批判されていたりするのだが、それでも読者としては感情移入してしまう。それがクレア・ノースの力量というものだろう。この種のサスペンスものには無い仕掛けとして、常に別人として行動することが可能な主人公の正体をいかにして割り出し追跡することが可能なのか、その過程もまた楽しめるし、サスペンスを生み出している。
ある種のピカレスクとして読むことも出来るだろうが、そんなことを考えずに主人公がいかに危機に陥り、それから逃れるのか、それを読むだけでこの長い物語をあっという間に読み終えることが出来る筈だ。
クレア・ノースは、イギリスのヤング・アダルトの作家キャサリン・ウェブのペンネームだが、彼女がペンネームで書く理由は、ウェブ名義とは異なった物語を書くためだという記事を読んだことがあるが、その感覚は「接触」で語られていく多くの異なった人生の物語に共通するものだろう。
私たち自身がどこかに抱えている変身願望や不死願望がこの「接触」という物語の奥に存在している。それに気づかせてくれるのも、またこの物語を読む意味であるだろう。