愛しているからといって、何をしても良いのだろうか? 答えは考えるまでもなく、否である。しかし、本作に触れた読者の方の多くは、その感覚が「常識」という檻に囚われているだけなのかもしれないと気づかされるだろう。
初めに、作者が上梓した本をここで簡単に紹介させていただきたい。
2011年、第12回ボイルドエッグズ新人賞を受賞しデビューしたときの作品『をとめ模様、スパイ日和』(産業編集センター)。さらに、デビュー後、2012年、初の書き下ろし長編小説『片桐酒店の副業』(新潮社→角川文庫)(発売当時、書店員の支持を一心に集めた作品)。そして2014年、『その名もエスペランサ』(新潮社)と、短編「鳥かごの中身」を収めた文庫アンソロジー『この部屋で君と』(新潮文庫nex)を発売。2015年、本書の親本が発売される。
本書の主人公、宗谷聡子は、手芸用品専門商社の商品部で働いている。日々、業務に明け暮れながらも生きることに光を見出せずにいた。ある日、同期の日生から健康診断を受けに行くよう強く勧められる。気が進まない聡子だったが、彼の勢いに押され婦人科系の健診も受けることになる。そこで、卵巣嚢腫の可能性があると診断される。詳しい診断を受けるため、病院へいくが可能性は決定的になる。茫然としながら岐路につく聡子は、最寄り駅のホームで白百合の花束を持つ喪服姿の男性に目を奪われるが、急なめまいで気を失ってしまう。あやうく線路に落ちそうになったところを助けてくれたその喪服姿の男性との出会いによって、彼女の見える景色は急速に変化していく。
そこから、狂気とも言える愛情に向かって聡子は一気にひた走る――。
序盤から執念と欲望が凄みと共に溢れんばかりに伝わってくる。最初に紹介した全ての作品が、本作を書き上げるために存在したのでは、と思わせるほどだ。この鬼気迫るような感覚は、今までの徳永作品とは明らかに違う。一言で表すならば「覚悟」を感じるのだ。そして、本作では「人への羨望」「愛情への渇望」が強く表現されている。読み進めるごとに、聡子が負の感情に飲み込まれそうなギリギリのラインに立っており、純愛なる物語でないことが分かるのだ。言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。
しかし、ここで目を逸らしては真の徳永節を味わうことはできない。
聡子は本能に忠実で貪欲な女性。そこには狂気さえ感じさせる。
物語の中盤、どこか孤独で、常に戦い続けている姿が目立つ。彼女が対峙していたのは、自分自身なのかもしれない。彼女は必死だった。だからこそ、大声で泣きたかった。泣き叫びたかった。見えないものから解き放たれたかった。生まれた姿のまま、受け入れてくれる人を求めていた。その矛先が、偶然「歪んだ愛」だった。そして、その愛は、女性だけではなく、男性も例外ではないと知ったとき、読者は「自分ならどうするのだろう」そう考えざるを得なくなる。自分が欲したものを得るために、他に方法がないと感じたとき、どんな行動を起こすのか、誰にも分からない。自分が信じている「常識」が揺らいでくる。それ程に、徳永圭という作家は終盤、全力で語りかけてくる。私たちの心には、歪んだ愛を受け止めきれる「覚悟」があるのか、と。
実は、本作の親本が発売された頃、それまで書店員として全力で邁進していた生活から一変、私は慣れない育児に奮闘していた。昼夜問わず泣き続ける我が子、立ちながら抱っこで揺らし寝かせる日々。大切な守るべき小さな命。それなのに私は可愛いと思えずにいた。今考えると産後うつだったのかもしれない。現実逃避するように、本を読んでいた。何かに縋っていないと自分が壊れそうだったからだ。そして、出会った、『XY』と。
本作に登場する人物に共感できない人もいるだろう。育児についてのノウハウなども一切書かれていない。けれど、私は、望んで望んで、やっと子どもを授かったときの「愛情」と湧きあがる「使命感」を思い出すことができた。さらに、発売当時、自身が働いていた書店でこの本を届けることができたらと、何度も悔しく思ったことまで思い出した。『ツリーハウス』(角田光代/文春文庫)や『朝が来る』(辻村深月/文藝春秋)を併売し、呼応させて届けたかったからだ。運よく紹介する機会が得られたので、共に読んでいただけたらと願っている。
聡子の埋まることのなかった「心の隙間」に共感することで、親としての「覚悟」を持つことができた。もし、同じように育児に悩んでいる人がいるならば、ぜひ読んでみて欲しいと思う。
男の欲望と、女の欲望。その二つが交わり、次の瞬間遠ざかる。読者を誘う文章に時間を忘れること間違いないだろう。ラストで真相に気づいたとき、必ずや心震わせ、徳永圭という作家のファンになるだろう。読後、本文中に登場するスコットランド民謡「アニー・ローリー」を聴いてみて欲しい。聡子が全身全霊で求め続け、そして私が本書から教えられた「慈愛の心」を感じられるはずだから。