タイムリープの準備はよろしいですか? 本書を目にとめ、手にされているあなたに、思わずそう声を掛けたくなるのは他でもない。ここにご紹介する桑原水菜の『カサンドラ』は、ページをめくる読者を一瞬にして六十五年前の過去へと連れ去ってしまうに違いないからだ。
時間を遡った読者が降り立つ先は、昭和二十八年夏の横浜港。目の前の豪華客船は、ボーディング・ブリッジで桟橋と繋がり、威勢のいい汽笛を響かせながら、出航を待つばかりとなっている。これからあなたには、この白亜のアグライア号とともに、しばしの間、海の旅に出ていただくことになる。
しかしその前に、実は日本史は苦手な学科だったと頭を掻く読者のために、この『カサンドラ』という作品の時代背景について簡単におさらいをしておこう。
激動の二十世紀には、世界を二分した大戦争が二度も起きているのをどなたもご存じだろう。その両大戦に日本も参戦したが、太平洋戦争とも呼ばれる第二次世界大戦が敗戦で終わったのは昭和二十年八月のことだ。焼土と化した首都東京に本拠を置いた、アメリカが主導するGHQ(連合国最高司令官総司令部)による占領は長きにわたり、昭和二十六年のサンフランシスコ講和会議で結ばれた平和条約が翌年四月に発効するまで続いた。
日本が主権を回復してまだ間もない昭和二十八年は、相次ぐテレビ局の開局で街頭テレビに人気が集まり、都内には公衆の赤電話が登場、青山では日本初のスーパーマーケットも開店している。このように街中の賑わいが復興ムードを盛り上げる一方で、本作の冒頭で描かれるように、横浜港はまだ在日米軍による接収が続いており、米兵たちが埠頭を行き来している。
港の大さん橋に接岸されたアグライア号は、昭和十四年に竣工し、南米航路の移民輸送に活躍したという〝あるぜんちな丸〟がモデルだろう。軍の徴用で空母海鷹へと改造された同艦は、終戦間際に航行不能となり解体されたが、アグライア号の前身である〝さんぱうろ丸〟は、空母艦海鷲として戦火をくぐり抜け、終戦後は米軍に接収され、アメリカの船会社に払い下げられた、と読者に紹介される。その後、秘密裡の船体改造に五年を費やして驚異の高速船に生まれ変わり、今回のお披露目の航海となった。物語は、ここから始まる。
船上の客の中には、政治家や財界・マスコミの重鎮ら招待客に混ざって、主人公の入江秀作がいた。陸軍中野学校出身の工作員で、終戦後もGHQの情報機関G2の傘下でレッド・パージ等の反共工作に従事し、現在は保安隊(後の陸上自衛隊)の情報部に身を置いているが、彼もまた戦中をひきずる一人だ。戦地からの引揚船で故国を目前に逝った親友の記憶が、今も彼の心には澱となって残っている。
招待客の一人である現役閣僚の警護が入江の表向きの役割だったが、実は上司からの密命をおびていた。その内容とは、乗船客の中に紛れたスパイを突き止め、或る重要機密がソ連側に流出するのを阻止せよ、というものだった。ギリシャ神話から取られたコードネームは〝カサンドラ〟。必要とあらば、スパイを消しても構わないという。
入江は、国籍はおろか年齢・性別も不詳というスパイを探し、船内を回遊する。そこで乗組員を始め、内装を設計した建築家や米軍士官、大学教授の物理学者、国会議員の親子、元記者のバーテンダーら、いわくありげな面々と言葉を交わしていく。そんな中に、キャビンボーイとして働く亡き親友とそっくりの青年を見つける。そうして出会った人物の一人が客室で死体となって発見されたのは、その翌朝のことだった。
作者の桑原水菜は、『炎の蜃気楼』のシリーズ累計が六〇〇万部を軽く超えるという押しも押されもせぬベストセラー作家だが、これまでの活躍の舞台がライトノベルの世界中心だったことから、読者の中には今回初めてその作品を手にするという方もあるだろう。そこで著者について簡単に紹介しておきたい。
一九八九年、その年下期のコバルト・ノベル大賞に投じた『風駆ける日』の読者大賞受賞をきっかけにデビュー。最初の一歩となった『炎の蜃気楼』に始まるミラージュ・シリーズは、〝歴女ブーム〟の呼び水にもなったと言われる。数々のスピンオフを生み一大サーガへと発展したシリーズは、二〇一七年十二月をもって昭和編が〝環結〟した。
そんなデビュー以来の活躍に加えて、さらに最近では、より広範の読者に向けた〝遺跡発掘師は笑わない〟のシリーズにも力が注がれている。無愛想だが宝探しの嗅覚は人並み外れた宝物発掘師こと西原無量の活躍は、最新刊の『遺跡発掘師は笑わない 君の街の宝物』で八巻を数える。
その遺跡発掘師シリーズと並行して、しばしライトノベルの世界を離れた作者が一般読者と正面から向き合った作品が、この『カサンドラ』である。単行本は二〇一五年一〇月、株式会社KADOKAWAから書き下ろしで刊行され、本書はその文庫化にあたる。
元々、読む者を作中へと引き込むストーリーテリングには定評のある作者だが、困難な任務を負わされた主人公が船上の諜報戦へと乗り出していく第一章、さらに第二章に入るやいなや、謎めいたダイイングメッセージとともに登場人物の一人が死体となって見つかる。物語は序盤からすでにフルスロットル状態だが、それらすべてが洋上をいく船舶内での出来事であることから、ミステリでいう〝クローズド・サークル〟という言葉を思い浮かべる読者もあるだろう。
船上という舞台は、クリスティの『ナイルに死す』(ナイル川に浮かぶ観光船)や、カーの『盲目の理髪師』やピーター・ラヴゼイの『偽のデュー警部』(大西洋を行き来する豪華客船)など、古今の名作ミステリの数々で効果的に使われている。しかし、そのシチュエーションを活かしているという点で、本作も引けを取らない。
誰もが信じられず、疑わしい。そんなスパイ捜しの迷宮の中で、困惑する主人公をまるで嘲笑うかのように、増えていく死体の数。そうした錯綜の展開は、やがてアグライア号を動かす世界初の革新的なニュー・エンジンのベールに包まれた秘密へと迫っていく。
陸と途絶されたこの船上でスパイ、殺人、ハイジャックをめぐって、誰が? 何のために? という謎の答えは、読者の意表を突きながら、幾度となく更新されていく。作者の旺盛なサービス精神には、ただただ脱帽するほかない。
主人公に与えられるミッションの名前が、ギリシャ伝説でよく語られるトロイアの悲劇の王女から取られていることは作中にもあるが、他にもアグライア(愛と美と豊穣の女神アフロディテの侍女で、三美神の一人)、アポロン(オリンポス十二神のゼウスの息子で、医学・芸術等を司る)、ダイアナ(アポロンの妹で、狩猟の女神)と、物語のキーワードとして、ギリシャ神話・ローマ神話に登場する神々の名前がちりばめられている。
それらはすなわち作品のモチーフでもある。古代の神話の悲劇性とも重なり合う、二十一世紀の日本を襲った安全と言われた神話が崩壊を見た七年前の大カタストロフィを誰もが連想せずにはおれないだろう。〝カサンドラ=誰も信じない予言を紡ぐ女〟と題された本作は、作者のサービス精神がいかんなく発揮されたエンタテインメント小説であると同時に、われわれ日本人が立ち止まり、今一度考えなければならない大切なことを思い起こさせる作品なのである。