本書は、「日本最後の仇討ち」という実話をもとにした長編小説である。仇討ちをした男は、筑前の秋月藩執政臼井亘理の長男六郎。この男のことはあとで語るとして、まず臼井亘理とはどういう男であったのか。生きていれば明治政府で大きな仕事をしただろうと言われるほどの切れ者であった。
臼井亘理は、長州や薩摩のようにかねてから西洋式兵術を取り入れている大藩に比べて、秋月藩の西洋式軍勢は見劣りしていたので、だからこそ西洋式兵術を取り入れなければならないと考えていた。ところが藩の尊攘派は、攘夷の戦に西洋の兵術などは不要と、西洋式兵術導入を激しく非難。これが悲劇的であるのは、この無理解な輩が尊皇攘夷を唱える干城隊を結成して臼井亘理を襲撃したのが慶応四年であることだ。寺田屋騒動、七卿落ち、禁門の変、四境戦争と幕末の激動は凄まじいが、慶応三年に大政奉還し、翌年、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗退しているとの背景がある。もうすでに、この国がどこへ向かうのか、大きな流れは見えているのである。長州や薩摩はかつての攘夷の看板をすでに下ろしているのだ。そういう時代が到来しているのに、この干城隊の面々はそれを見ず、臼井亘理憎しの一念で襲撃する。
残酷なのはそのとき、亘理の妻清も惨殺されたこと。親戚は暗殺を行った者に厳しい処罰が下されるよう藩庁に願い出たが、藩庁は干城隊に対してお咎めなしとなった。家老一派がいるための沙汰で、臼井派の面々は秋月藩の宗藩である福岡藩に訴え出る。誰が見ても干城隊に罪があるのは明白だが、戊辰戦争の只なかに支藩が内部分裂することを恐れた福岡藩は臼井派を幽閉。さらに臼井家の家禄を五十石減じる。そのとき六郎十歳。干城隊を率いた山本克巳が父を惨殺したことはすぐに判明したが、相手は剣の使い手なので幼い六郎がかなうはずもない。しかしいつかはきっと仇を討つと誓うのである。
ここからは、臼井六郎の半生が描かれることになるが、それを少し追うと、明治四年に廃藩置県で秋月藩が消滅。さらに、散髪脱刀令が出されるが、いちばん大きなことは、明治六年に仇討禁止令が出ることだ。
人ヲ殺スハ、国家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ、政府ノ公権ニ候処
私憤ヲ以テ、大禁ヲ破リ、私儀ヲ以テ、公権ヲ犯ス者ニシテ、固(もと)ヨリ擅殺(せんさつ)ノ罪ヲ免レズ
太政官布告第37号
つまり、人を殺すことは国が禁じる。殺人者を罰する権限は国が有する。そして、私憤によって政府の禁令を破り、公権を犯す者は罪に問われる、ということだ。
江戸時代なら父親の仇を討つことは美徳とされていたが、それはもう犯罪なのである。ちなみに、仇討ちは、年下の者が年上の者の仇を討つもので、その逆は認められない。つまり子が父親の仇を討つのはいいが、父親が子の仇を討つのは江戸時代でもだめであったようだ。閑話休題。
この長編は、幕末から明治初期にかけて、どういう事件が起きたのかを背景として描いていくので、日本史入門篇という趣もある。ずいぶん昔、中学の授業で日本史を教えるなら司馬遼太郎の小説をテキストにすればいい、と考えたことがある。いや、司馬遼太郎の小説でなくてもいいのだが、歴史小説を読めば、歴史上のさまざまな事件が点としてではなく、線として繋がっていることを実感できるので、日本史のテキストに最適なのである。本書にもそういう一面がある。神風連の乱、西南戦争と明治になっても続いていく各地の不満の爆発は、こんなはずじゃなかったという一部の武士たちの思いの集約といっていい。
本書には歴史上の著名人が数多く登場するが、中でも印象的なのは山岡鉄舟だろう。臼井六郎の剣の師匠だが、このころは西郷隆盛の紹介で、明治天皇の侍従として宮内省に出仕していた。のちに無刀流を創始する鉄舟なので、たとえば、
「まことの剣の理とはわが体のすべてを敵に任せ、敵の好んで打ち来るところに随って勝つということであろう」
と言われても、六郎にはわからない。道は遠し、なのである。先に書いたように実話をもとにした小説なので、六郎の仇討ちが成就するのかどうかを隠す必要もない。明治十三年、六郎はついに一瀬直久(山本克巳)を討つのだ。これが「日本最後の仇討ち」である。小説としてはここで終わってもいいが、さらに作者は六郎の「その後」も描いていくので、なんだか余韻たっぷりだ。
臼井六郎は終身刑で服役するも、明治二十二年、大日本帝国憲法公布の恩赦で、明治二十四年、三十三歳で東京集治監から釈放。饅頭屋、駅前待合所を営み、大正六年に没。臼井六郎の仇討ちについては、長谷川伸が『日本敵討ち異相』の中で紹介しているが、小説の先行作品としては吉村昭「最後の仇討」(『敵討』)が有名である。この原作をテレビドラマ化したのが、「遺恨あり 明治十三年最後の仇討」で、臼井六郎を藤原竜也が演じた。
本書のラストに森鴎外が登場するが、これも実話。長野の温泉に逗留したとき、臼井亘理襲撃に参加した男と知り合って話を聞く、というのだから、事実は小説より奇なり、というやつである。
本書のタイトルについては、いかなる苦労があろうとも、いつか頭の上には青い空が広がるから、それを忘れるなという父親の教えを、臼井六郎がずっと脳裏に刻み続けて生きるところから取られている。蒼天を見よ。いい言葉だ。