葉室作品の端正さは、作中で高らかに謳われる人の縁の美しさに起因している、と私は思う。
本作『蒼天見ゆ』を例に数え上げれば、それはまず、主人公・臼井六郎とヒロインたるお文の清らかな交情。その他に、「西洋亘理」と呼ばれ、賊によって命を奪われた父親・臼井亘理と六郎の親子の絆、六郎を温かくかつ厳しく見守る師・山岡鉄舟との間に結ばれた信頼、共に孤児となった妹・つゆとの兄妹愛、そして更には見事本懐を遂げた六郎が監獄で出会う人々との交わり……それらによって磨かれ、人間としての成長を遂げる主人公を通じて、読者は現代に生きる己自身が何に拠って立ち、何に助けられて生かされているかを顧み、粛然たる思いに打たれるに違いない。いわば葉室氏の作品は端正であるとともに、主人公のみならず読み手にも、「己は何者なのか」という厳しい問いを突きつける、恐ろしさを秘めているのである。
直木賞受賞作たる『蜩ノ記』を筆頭に、近年、九州を舞台にした武家物を次々と発表している作者にとって、本作は福岡藩の支藩・秋月藩を、『秋月記』に続いて再び舞台とした長編。しかも前作をすでに読まれた読者は、『秋月記』の主人公・間小四郎と彼を陰から支えた娘・猷が本作において、それぞれ酸いも甘いも噛み分けた人生の先達として六郎の父を導くことに、思わず膝を打つであろう。
間小四郎、いや間余楽斎が口にした「青空を眺めろ」という教えは、亘理の実感を経て、まだ幼き六郎へと伝授される。そしてその言葉がやがて、故郷に戻った六郎に一つの悟りをもたらすとき、我々は否応なしに、本作がただの仇討ち話ではなかったことに気付かされるのである。
そう、厳しい武家社会の捨て石となった余楽斎から、幕末の動乱を駆け抜けた亘理、そして明治の激しい変化の中でそれでも己の道を貫いた六郎へ。「青空を見よ」という一つの教えによって貫かれた縁は、きっと本作の枠すら超え、『秋月記』よりも前の時代、そして本作よりも後の世までつながっているに違いない。
——ひとは皆、弱い者だ、だからこそ、力を尽くし、懸命に生きていくのだ
と、六郎の父親は胸の中で呟くが、私はここにこそ、作者があえて記さなかった言葉が隠れているのではと推測する。
吉田兼好は『徒然草』第百十七段において、
友にするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人(後略)
と記し、地位が高い者や頑健な者は、人の心を慮れぬとの持論を述べている。
これは逆説的に考えれば、立場が弱く、苦しみを知る者ほど、他人の優しさを理解できるとの意味。そして葉室氏はこの亘理の独白において、兼好同様、懸命に生きる弱き人々こそが、他人の心の温かみを知り、数々の人の縁に気付くことが出来るのだと述べているのではあるまいか。
だとすれば亘理が口にする「弱い者」とは、真の意味での弱者ではない。人との縁なくしては渡れぬこの世において、人と人とのつながりの大切さに気付き得る者はむしろ、どんな逆境にあっても立ち上がる可能性を秘めた強者。実に葉室氏はここにおいて、弱き者こそが本当の強さを有するという価値の逆転を述べるとともに、人が生きる上で大切なものはなにかを、無言裡に伝えんとしているのだ。
幕末から明治へという、激しい時代の転変においても変わることのなかった、「蒼天を見よ」との教え。それは如何なる時代でも変わらぬ人の縁の象徴であり、一つの小説の枠組みを超えた、我々が今日暮らす人の世を在らしめる理念そのものでもあるのである。
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