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万能鑑定士Qシリーズの著者が、フェイクニュースの根源を暴く衝撃作! 『ヒトラーの試写室』

 一九一二(明治四五)年、鳴り物入りで英国を出発した豪華客船タイタニック号は、北大西洋上で氷山に衝突して沈没してしまう。約一五〇〇人の犠牲者を出したこの事故は、当時の最先端技術を用いた船がただ一度の航海で海の藻屑と消え去ったことでも世界に衝撃を与えた。
 一九九七年にジェームズ・キャメロン監督によって映画化された『タイタニック』はこの悲劇を迫力ある映像とロマンチックなストーリーとで現代によみがえらせ、作品としても興行としても大成功を収めた。事故から一〇〇年以上経った今でも私たちがこの事故を知っているのは、この映画のおかげだと言っていい。しかし、キャメロンよりも約半世紀も早く、タイタニックの悲劇を映画化し、思想宣伝に利用しようとした為政者がいた。しかもその撮影に日本人技術者が関わっていたと聞いて、にわかに信じられるだろうか。
ヒトラーの試写室』を開くとまず「この小説は史実から発想された」とある。近年のアメリカ映画にも「based on a true story」か、それに近い意味のクレジットがしばしば登場する。実話に基づいたフィクションですよ、ということだ。「事実は小説よりも奇なり」という有名な言葉があるように、現実には私たちの想像を超えたできごとが起こりうる。また歴史を振り返っても劇映画や小説はそうした実際に起きたできごとを養分にし、豊かなエンターテインメントの果実を観客・読者に提供してきたという歴史がある。『ヒトラーの試写室』もまたその流れのなかに位置づけられる小説である。
 物語は一九三十年代半ば、昭和十年頃から始まる。二十歳になる青年、柴田彰しばたあきらには映画俳優になるという夢があった。高校を卒業後、大工の仕事を継ぐために父のもとで見習いをしていたが、ついに家を出て撮影所の門を叩く。しかしチャンスはなかなか訪れない。だが、ある日、日独合作の映画『新しき土』が制作されると知り、たまたま学校で習っていたドイツ語が生かせるかもしれないとオーディションを受ける。残念ながら通らなかったが、その代わり、『新しき土』の特殊技術を担当する撮影技術研究所という聞き慣れない部署の助手になる。その部署の主任で、たった一人の正社員が円谷英二つぶらやえいじだった。
 一方、その頃ドイツではナチス=ドイツの宣伝相、ゲッベルスが大衆を魅了する大作映画の製作を指示していた。ネットはおろかテレビも普及していない時代である。映画は大衆を魅了する一番の娯楽であり、うまく使えば効果的なプロパガンダになるはずだった。
 しかし、ゲッベルスは『新しき土』には満足していなかった。新興国アメリカは『キング・コング』の成功により、世界中にその富と繁栄を印象づけていた。そこでゲッベルスは芸術的な成功ではなく、大衆を扇動する娯楽大作映画の必要性を痛感する。浮上したのは世紀の大事故として記憶に新しかったタイタニック号の沈没事故の映画化である。英国船籍のこの船の失敗を描くことで、英国人の愚かさを観客に印象づけることができると考えたからだ。しかし、肝心の沈没シーンをどうやって撮るのか。スタッフは頭を悩ませていた。
 映画の発明はフランスのリュミエール兄弟がその栄光に浴しているが、劇映画で成功することはなかった。一方、アメリカではエジソンがいちはやく劇映画の興行に成功し、映画産業が育っていた。トリック撮影自体はかなり古くからあり、この小説のなかでも触れられているジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』(フランス)などがある。しかし、作中で円谷が指摘している通りすでに時代遅れで、アニメーションとの合成には驚かされるものの、カメラは固定され、舞台中継を見ているようで画面への没入感は味わえない。一方、アメリカでは、D・W・グリフィスの『國民の創生』などカメラワークと編集技術により臨場感あふれる画面をつくり出したアクション映画が大ヒットしていた。その延長線上に『キング・コング』の成功があったのである。ちなみに円谷英二も『キング・コング』に目を見張り、一コマずつ研究したという逸話が残っている。
 ゲッベルスは『キング・コング』の成功を横目に、世界最大の豪華客船が沈没し、多くの人が犠牲になった悲劇を自分たちに都合よくつくりかえることで、事実をもとにしたフィクションによるプロパガンダを行おうと考えた。しかし、問題は沈没シーンだった。精巧な模型はつくったものの、撮影してみた結果は失敗で、失笑が漏れるほどチャチだった。そんなとき、日本から送られてきた『ハワイ・マレー沖海戦』の海戦シーンを見たヒトラーは「ただちに(電話を)かけろ」とゲッベルスに命じる。どこへ? 製作した映画会社に、である。
 円谷が担当した『ハワイ・マレー沖海戦』の特撮技術のすばらしさは公開当時から世評が高かった。戦後、日本を占領したGHQがドキュメンタリー・フィルムだと思い込んだという。この小説の前半の読みどころは、いかにしてその映画の特殊技術が生まれたかを描いていることである。
『ハワイ・マレー沖海戦』でのちの特撮の神様の才能を見抜いたヒトラーだったが、ドイツからの招聘しょうへいに応えたのは責任者の円谷ではなく、その助手でドイツ語をかじっていた彰だった。すでに家庭を持っていた彰は逡巡しゅんじゅんするが、国からの指示を受けた会社からの命令を断ることはできなかった。物語の後半は、彰がナチス政権下のドイツでどのような日々を送るかに焦点が当てられる。
 この小説が描いているのは、日本の特撮黎明れいめい期の円谷たち特殊撮影技術スタッフたちの奮闘と、その技術をプロパガンダに利用しようとしたナチス、そして、その間をつなぐ存在として単身ドイツに渡り、特殊撮影に携わった青年の物語である。たしかにナチスの映像を使った宣伝技術には定評があり、レニ・リーフェンシュタールが監督したナチス党大会の記録映画『意志の勝利』、同監督によるベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア』が大成功を収めていた。そこに特殊撮影が加わったらどれほど強力なプロパガンダ映画ができるだろう。すでに八〇年近い昔の話とはいえ、ネット上に巧妙につくられたフェイクニュースが流布している現在、映像によるプロパガンダは古くて新しい問題だと言える。この物語が単なる歴史を題材にした小説に終わっていないのは、このテーマに今日性があるからだ。
 本作は作者の松岡圭祐にとって『ジェームズ・ボンドは来ない』に続く、映画界を題材にした〝実話から生まれた〟小説の第二弾と位置づけられる。松岡は『千里眼』『万能鑑定士Q』『探偵の探偵』などの人気シリーズを持つヒットメーカーであり、映画化、ドラマ化された作品も多い。一方、近年は『黄砂の籠城』では義和団の乱における北京籠城を、『八月十五日に吹く風』では太平洋戦争中の大規模な撤退作戦を、『生きている理由』では川島芳子かわしまよしこの青春を描くなど、近代史を題材とした作品も手がけ好評を博している。
『ジェームズ・ボンドは来ない』が007シリーズのロケ誘致に奮闘する瀬戸内海の島を舞台にした現代作品であることを考えると、『ヒトラーの試写室』は、『ジェームズ・ボンドは来ない』に続く映画界ものと、近代史ものとが合流した作品だと位置づけることができる。どこかのんびりとしたユーモラスな味わいがある『ジェームズ・ボンドは来ない』に比べれば、戦時中を描く『ヒトラーの試写室』には暗い影が差してはいるが、決して暗いだけではないのが特徴になっている。その理由を考えると、主な登場人物に映画に携わるスタッフが多いことに行き当たる。洋の東西は違えど「カツドウ屋」たちはどんな時代でも、どんな状況でもしたたかに映画づくりをすすめようとする。そのバイタリティは暗い時代を照らす強い光となっている。
 最後にいま一度「この小説は史実から発想された」という言葉に戻ろう。優れた小説には行動と会話、内面描写に踏み込むことで、読者をその世界に引き込む力がある。そして、登場人物に感情移入することで、事実に潜んでいるさまざまな意味をくっきりと解像度を上げて読み取らせてくれる。私たちはこの小説を読んでいる間、物語に没入することで戦時下に生きる人々のそばにいられるのである。まるで特殊撮影でも使ったかのようにリアルに。


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