対談 「本の旅人」2015年6月号より
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『蒼天見ゆ』刊行記念対談 葉室麟×澤田瞳子
撮影:中岡 隆造 取材・文:末國 善己
2017年12月23日に惜しまれつつ逝去された葉室麟さんの文庫新刊『蒼天見ゆ』は、新旧の価値観が交代する時代に翻弄された親子二代の生き方を描いた長篇です。
この作品を通して葉室さんが伝えたかったこととは何か。「本の旅人」で連載された作品『孤篷のひと』への思いも併せて、京都在住の作家・澤田瞳子さんと語り合っていただいた対談です。
〈単行本版『蒼天見ゆ』刊行時に「本の旅人」2015年6月号に掲載された対談を再録しました〉
〈京都文士〉に期待
――葉室さんはこのたび京都に仕事場を持たれたそうですね。なぜ京都だったのでしょうか。
葉室: 深い理由はないんです。歴史時代小説を書いているので、もともと京都は憧れの地でした。取材では何回も来ているのですが、自分の中に京都を染み込ませてみたいという感じもありました。考えてみたら、今年が作家デビュー十周年なんです。十年でリフレッシュして、京都で何かを吸収して新たにやっていきたいという気持ちがあったのかなと思っています。
澤田: ようこそいらっしゃいました(笑)。最近は葉室先生だけでなく、中山可穂さんも京都にお引越しされました。かつて鎌倉文士という言葉がありましたが、あの頃の東京—鎌倉の距離感覚は、いま新幹線のおかげでちょうど東京—京都ぐらいになっているんじゃないでしょうか。私は生まれも育ちも京都なので、これから〈京都文士〉が盛り上がればいいなと考えています。
『秋月記』から『蒼天見ゆ』へ
――新作の『蒼天見ゆ』は、“最後の仇討ち”を遂げた臼井六郎の実話が題材ですね。なぜこのテーマを選ばれたのでしょうか。
葉室: 僕は前に、『秋月記』という作品を書いています。舞台にした秋月(現・朝倉市)は、福岡の中で小京都といわれていて、大変好きな土地なんです。『秋月記』は、秋月藩の改革派だった間小四郎が、悪家老の宮崎織部に戦いを挑んでいくという時代小説っぽい話なんですが、事件の流れはほぼ実話です。『秋月記』を書いていた頃から臼井六郎のことは知っていたのですが、どちらかといえば、父親の臼井亘理の方に興味がありました。 その後『月神』で、福岡藩の月形洗蔵を書きました。洗蔵は、月形半平太のモデルになった人物です。洗蔵の甥が、北海道の樺戸集治監の初代監獄長になるのですが、この話を書いていた時、明治維新は、近代化を成し遂げた反面、地方に目を転じれば、日本の伝統を壊していたことに気付きました。日本にとって進歩とは何か、を考える手がかりとして、月形洗蔵や臼井亘理がいたというわけです。
澤田: 六郎の仇討ちの話だと思って拝読し始めたら、亘理のキャラクターも思いがけず大きくて驚きました。『秋月記』の主人公である小四郎の遺志が亘理へと受け継がれ、さらに六郎の仇討ちへと繋がっていく。『秋月記』と含めて、亘理の物語、六郎の物語と、三部作のような印象を受けました。重層的に物語が繋がっていて、非常に面白かったです。
葉室: 秋月藩という小藩にも政治があり、政治の中では個人が翻弄されます。それでも自分の生き方を貫いた人はいるはずだし、いて欲しいという思いで『秋月記』を書きました。一方、明治維新という大きな政治の中でも、やはり人間は翻弄されます。『蒼天見ゆ』では、六郎の仇討ちを通して、大きな流れの中で、いかに自分を見失わないで生き抜くか、をテーマにしました。
澤田: 仇討ちというと、勧善懲悪のイメージがあるのですが、この作品では敵役の一瀬直久も、悪い人間として書かれてはいますが、それでも幼い頃の六郎との言葉のやりとりとか、どこか温かみが感じられて、完全に善と悪とに分けられていませんでしたね。
葉室: 『秋月記』で書いたのは、改革派が権力の側について変わるということ。権力の側に立った時に自分をどう維持していくのかは、本当に難しい問題です。その典型は豊臣秀吉でしょうし、『蒼天見ゆ』で、亘理を暗殺した後に明治政府で出世する一瀬直久も同じです。人が変わるのも、政治の恐ろしさだと思うんです。だから、権力を握っても変わらない人を探したいと考えていますし、それは現代に至るまでの課題ですね。
――作中では理想を貫くことが、「蒼天」という言葉で端的に表現されていました。
葉室: 空を見る、ってすごいことだと思うのです。空は宇宙なので、見上げると自分が小さな存在だということが自覚できます。宇宙には何億光年先まで届く光があります。僕たちは、それを見ることができるのですから、苦しいことがあっても、無限に続くものを見れば乗り越えられると思えるはずです。タイトルには、そのような意味を込めました。
――吉村昭さんの中篇「最後の仇討」も、六郎の事件を題材にしていますが、先行作があると小説は書きにくいものなのでしょうか。
葉室: たとえば織田信長なら先行作もたくさんあるので気になりませんが、今回は、「最後の仇討」しかありませんから意識しました。少し前に、テレビドラマの原作にもなっていますしね。だから、吉村さんの書かれたことを尊重し、自分なりのフィクションを加えました。それが、吉村さんの世界を侵さないことになったと考えています。
澤田: 私は古代史を中心に書いているので、あまり先行作がないんです。時代物の場合、テレビで見たとか、教科書に載っていたとかで手に取ってくださる方もいるので、『満つる月の如し』で、平等院の本尊を作った定朝を書かせていただいた時も、「定朝って誰?」という反応でした。その意味では、先行作に助けていただきたいという気持ちもあります。
普通の人の強さを描く
――本誌「本の旅人」で先月号から始まった「孤篷のひと」は、主人公が小堀遠州ですね。なぜ遠州を選ばれたのですか。
葉室: 利休に、有名な黒楽茶碗がありますね。あれには造形美がありますが、お茶を飲むのにあそこまでの美は必要ないような気がしていました。やはり利休が求めたのは、天才の美です。僕は天才ではないので、日常的に黒楽茶碗を見て美しいとはあまり思えない(笑)。それと茶人は、利休も、山上宗二も、みんな非業の最期を遂げていますよね。井伊直弼もそうです。お茶は相手をくつろがせるため、あるいは語らうためにあるのに、なぜ茶人は非業の死を遂げるのかを考えたんです。遠州は幕府の官僚として普通に仕事をしていました。彼のお茶でも、庭でも、普通の人が共感できる等身大の美があるように感じていました。普通の人が、普通に生きるというのは、本当は恰好いいことだし、大切なことです。そうした普通の人たちが社会を作っていることを描きたくて、遠州を選びました。
――新連載と、京都に仕事場を持たれたことにも、何か関連性があるのでしょうか。
葉室: あるといえば、あるかもしれません。遠州作の庭を見ても、これまで訪れた時は威張っている感じがしてあまり好きではなかったんですが、京都で暮らして生活空間の中から見てみると、くつろぎを与えてくれる、癒してくれるというのが分かる気がします。この感覚は、取材旅行でも得られないものだと思います。
澤田: 確かに、遠州は京都だとすごく身近なんです。利休はお茶の偉い人ですが、遠州はお茶をやってない人でも、「知ってる」といったり、お庭を見ると「遠州好みですね」といったりしています。利休が神様なら、遠州は親戚のおっちゃんくらいの距離感ですね。
葉室: それはいいですね。だとしたら僕の考え方は当たっています。桂離宮は遠州好みといわれますが、本当に遠州の作でしょうか。
澤田: 遠州はいろんなことをやっているので、よく分かっていないことも多いんです。幕府の官僚として、ニーズに合わせて何でもできる器用な人だったという気はしていますが。
葉室: それはありますね。自分の能力を使ってパブリックなものに奉仕して、何かを作り上げていくのは、官僚の生き方の一つの典型といえます。でも、それは大切なんです。利休や宗二だと「俺が、俺が」になって、公というものがないような気がする(笑)。
澤田: 利休たちが我を通して亡くなったために、折り合いをつけて生きた人たちが、日和ったみたいな印象になっていますね。
葉室: 僕の小説の主人公は、だいたい最後に死にますが、今回の作品では、自分を活かしながら生き延びる道もあるのではないか、そうしたことを書いてみたいと考えています。
澤田瞳子『若冲』を読む
――芸術家といえば、澤田さんも新作『若冲』をお出しになりました。お読みになって、感想はいかがですか。
葉室: 若冲の人間像はよく分かっていなくて、絵から読み解くしかありません。しかも人間や仏様を描く時は弱いのに、鶏を描くと強い。若冲の人生は、想像が難しい。だから澤田さんの作品を拝読して、奥さんを亡くした心の傷や、義弟との確執が創作の原動力になったという解釈は、なるほどと思いました。
澤田: 若冲の生涯にかなり正確に迫ったつもりですが、奥さんに関するエピソードはすべてフィクションです。その部分だけ大きな嘘をつきましたが、若冲の性格を考えたら、もしかしたらあり得たかも、と考えています。若冲にはコアなファンが多いので、フィクションの部分がどのように評価されるか、気になります。
葉室: 澤田流の若冲になっていて、これから若冲を書く人は必ず読まねばならない作品だと思います。安部龍太郎さんの『等伯』、山本兼一さんの『花鳥の夢』の永徳、これらに匹敵する、大事な作品になるのではないでしょうか。
――ありがとうございました。
<2015年4月京都市円山公園内、長楽館にて>
葉室麟(はむろ・りん)
1951年、北九州市小倉生まれ。西南学院大学卒業後、地方紙記者などを経て、2005年、「乾山晩愁」で第29回歴史文学賞を受賞し、デビュー。07年に『銀漢の賦』で第14回松本清張賞を、12年に『蜩ノ記』で第146回直木賞を、16年に『鬼神の如く 黒田叛臣伝』で司馬遼太郎賞を受賞。凜とした作風で、多くの読者の支持を集めている。著書は他に、『秋月記』『散り椿』『孤篷のひと』『川あかり』『大獄 西郷青嵐賦』『天翔ける』など多数。
澤田瞳子(さわだ・とうこ)
1977年京都府生まれ。同志社大学文学部卒業。同大学大学院博士前期課程修了。2010年『孤鷹の天』でデビューし、翌年に第十七回中山義秀文学賞を受賞。2013年『満つる月の如し 仏師・定朝』で第三二回新田次郎文学賞を受賞。2016年『若冲』で第九回親鸞賞を受賞(同作は第一五三回直木賞の候補作にもなった)。他の著書に『日輪の賦』『泣くな道真 大宰府の詩』『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』など。