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試し読み

赤ん坊遺棄は組織的な犯罪? 混乱のなか四人に追っ手が迫る。――『四日間家族』第一章まるごと公開#05

3月1日に刊行された川瀬七緒さんの書き下ろし長編小説『四日間家族』。帯の「徹夜必至」という言葉どおり、圧倒的一気読み小説だと評判になっています。
好評御礼企画として、第一章「最悪への扉」を全文公開!



『四日間家族』第一章公開#05



 わたしはバンの後ろから小ぶりな段ボール箱を探し出し、タオルや千代子のカーディガンを敷いて簡易的なベッドを作った。陸斗がそれを後部座席の中央にシートベルトで固定し、赤ん坊を起こさないようにそっと寝かせる。長谷部はイグニッションキーを繰り返しひねっていたけれども、甲高い摩擦音が鳴り響くだけで一向にエンジンはかからなかった。
「バッテリーもそうだが、この車自体がかなり古いからな」
 長谷部は言い訳でもするようにつぶやき、再びキーをひねる。しかし何度挑戦しても車はうんともすんとも言わず、わたしは思わず身を乗り出した。
「もしかしてバッテリーが完全に上がってる? ルームライトも点けっぱなしだったし」
「いや、この感触だと何回もやってりゃそのうちかかると思う。今までも騙し騙し乗ってきたんだよ。要は、車にまわす金がねえ」
 長谷部はアクセルを踏んで少しだけ時間を置いてからまたキーをまわした。が、エンジンがかかる気配がない。
「山だからプラグが湿ってんのか?」
 長谷部は前のめりになってセルをまわし続けた。しだいに焦りの色が見えはじめたとき、陸斗がはっと息を吸い込んで声を裏返した。
「山を上ってくる車がいる……たぶん二台」
 その言葉と同時に、みな一斉に国道のほうへ顔を向けた。右後方、外灯もない闇のなかにちらちらと瞬く光が見える。まだずっと下のほうにいるようだが、あの光は確かに木々の間から漏れる車のヘッドライトだった。わたしはどっと汗が噴き出した。
「長谷部さん、早く!」
 長谷部は土気色になった顔でイグニッションを睨みつけ、何度も何度もセルをまわした。しかし摩擦音が虚しく響くだけでエンジンはかからない。わたしは木々の間で揺れている小さなヘッドライトを焦りながら凝視した。蛇行する山道をかなりのスピードで移動している。間違いない、さっきの女だ。こんなにも早く、仲間を連れて戻ってきた。
「長谷部さん!」
「わかってる! セルをまわしすぎっと、それこそバッテリーが完全に上がっちまうんだよ! 少しインターバルを置かねえと車が完全に死ぬ!」
 長谷部は怒鳴り声を上げ、舌打ちした陸斗は座席の背もたれを飛び越えて荷室へ行った。小ぶりな金槌やドライバー、スパナなどの工具を次々に袋に入れて戻ってくる。
「武器になるもんがなさすぎる! 金属バットとか鉄パイプはないの! おっさん、鉄工所経営者なんでしょ!」
「あるわけねえだろ! うちは鉄工所つっても穴開け専門なんだよ! 車に積んでおいた資材は売り飛ばした! 鉄もスチールも全部金に変えたんだよ!」
 長谷部は怒鳴り声を上げ、手の汗を作業着のズボンになすりつけてキーを握った。あまりのうるささに赤ん坊は再び泣きはじめ、千代子の「ご先祖さまお守りください」という念仏のような声はどんどん大きくなる一方だ。もう収拾がつかない。
「ばあさん! やかましい! ちっと黙ってろ! ガキも泣き止ませろ!」
「あんたの声がやたら大きいから赤ん坊が泣くんだよ! ど、どうすんだよ! 悪党がすぐそこまで来てるんだ! こ、こんな惨めな死に方をするほどあたしは悪いことをしたのか! なんで晩年になって次々とひどい目に遭うんだよ!」
「だから黙ってろ!」
 車内はもうパニックと化しており、常に落ち着きを見せていた陸斗でさえも頭を抱えて激しい貧乏揺すりを始めている。わたしは山を上ってくるヘッドライトを目で追い、過呼吸になりそうなほど息を吸い込んだ。
「あ、あと三つぐらいカーブを曲がったらここに来るよ!」
 わたしは運転席の背もたれを摑み、最悪の結末を予期しておののいた。殺人をなんとも思っていない人間たちに囲まれ、なぶり殺しにされている自分が頭に浮かんでしようがない。そしてこの森深くに埋められ、人知れず朽ち果てるところまでが鮮明に想像できた。
 数十分後に起こるであろう未来に震え上がっている間にも車は近づいてくる。すでに二つのカーブを猛スピードで曲がり、車体の影まで見えるようになっていた。
 焦りで声も出せなくなったとき、ハイエースは大きく揺れながらエンジンを始動した。
「よし! かかった!」
 長谷部は何回かエンジンをふかしてからバックし、タイヤが空まわりするほどアクセルを踏み込んで急発進する。国道へ出る砂利道を走り抜け、急ハンドルを切ってひび割れたアスファルト敷きの道路を左折した。五、六十メートル後方にはハイビームのミニバンがつけている。わたしは気が気ではない思いで後ろを凝視し、じっとりと汗で湿った手を握り締めた。長谷部は目を細めてバックミラーを確認し、下り坂へステアリングを切った。
「あの女だ! 間違いねえ、くそっ! この車が森から出るとこを見られちまった!」
 長谷部はこめかみの汗を肩口になすりつけた。
 赤いミニバンは森への入り口にさしかかっており、まるでこちらを窺うようにスピードを緩めている。長谷部はわずかにブレーキを踏んで九十九折のカーブを強引に曲がった。わたしと陸斗は咄嗟に赤ん坊の入った箱へ手を伸ばし、小さな体が揺さぶられないようにしっかりと押さえた。カーブを完全に曲がり切る前に首を伸ばして後ろを見たが、あの女が追ってくる様子はない。
 わたしはひと時の安堵を貪り、トートバッグからペットボトルの水を出して喉の奥へ流し込んだ。人生を終わらせるためにこの場所へ来たのに、いざ死を感じたときの恐怖たるや尋常なものではなかった。本能が死にたくないと金切り声を上げ、逃げることだけが頭の中を支配した。
 運転席では、長谷部が勝ち誇ったような声を張り上げた。
「このまま飯能へ抜けるからな! あの女は完全にまいた!」
 わたしは楽天的すぎる男に忠告しようと口を開きかけたが、横から腕を摑まれてぎくりとした。見れば、陸斗が蒼白い顔をこちらに向けているではないか。
「もう黙ってて。疲れた」
「このまま警察へ行って事情を話したとしても、きっと捜査にはかなりの時間がかかる。その間、犯罪者がナンバー伝いに長谷部さんまでたどり着くかもしれない」
 陸斗は意外そうな顔でわたしを見まわし、薄い唇に笑みを浮かべた。
「おねーさんって実は優しい人だったんだ。人の心配もするんだね。しかもあのおっさんの。もっと冷酷なのかと思ってた」
 わたしは咳払いをして声を潜めた。
「あんた、ヤクザがどういうもんか知ってんの? 追い込みかけられたら普通の生活なんてできなくなるし、殺されるにしても楽には死ねないんだよ。そこらのヤンキーみたいに考えてるんだろうけど、まったくの別物だから」
 すると陸斗は、興味ありげに顔を近づけてきた。
「まさかおねーさん、ヤクザに追われてる?」
「ねえ、おねーさんって呼び方やめて。苛々する。夏美でいい、わたしも陸斗って呼ぶし」
「なんか新展開。ここに来て初めておもしろいと思った。今どき森ガールみたいなカッコしてるほんわか癒やし系狙いの女が、実はビッチでヤクザの女だった」
 おとなしそうでいて実はずけずけと物を言う陸斗を睨みつけたとき、長谷部がバックミラー越しに目を合わせてきた。
「何ごちゃごちゃ言ってんだ? リーダーには隠し事すんな……」
 そこまでを言いかけた長谷部は、バックミラーを二度見してから慌てて後ろを振り返った。
「いや、待て待て。あの車はなんだよ!」
 わたしたちも同時に振り返ると、黒っぽい車体の車が後ろにつけているのが見えて目を剝いた。
「まさかあの女の仲間?」
「こんな夜中に、青梅の山んなかで無関係の車が二台重なることなんてねえだろう! あれはきっと人殺しの一味だ! 二手に分かれたんだよ!」
 長谷部はがらがら声でがなり立て、わたしは急いでスマートフォンをバッグから取り出した。一一〇を押そうとしたが、見事に圏外だ。
「陸斗のスマホは電波立ってる?」
 少年はジーンズのポケットからスマートフォンを出したけれども、同じく通話できるような状態ではない。長谷部の電話も同じで、ここから通報することは不可能だった。
「長谷部さん、この山を下りるのにどのぐらいかかるの?」
 わたしが早口で問うと、長谷部は険しい顔を前に向けながら言った。
「おそらく小一時間……いやもっとかもしれん。こっち側は青梅よりも山深いことだけは確かだし、ぐるっと迂回するようなルートだからな」
 すると千代子は胸を押さえながら絞り出すような声を出した。
「い、いっそ車を停めて話し合うことはできないのかい?」
「できるわけないでしょ」
 わたしはかぶせるように即答した。
「あいつらが本当にヤクザなら、車を停めたらそれで終わりなんだよ。話が通じる相手じゃない」
「だけど、あたしらは何も悪いことはしてないんだ。赤ん坊を救い出しただけなんだぞ」
「そうだね。赤ちゃんを救ってくれてありがとう……ってヤクザが泣いて喜ぶかもね」
 あまりの危機意識の低さに皮肉をこめて吐き捨てると、千代子はたちまちむっとした。
「あんたはホントに心ない女だな。人には良心ってもんがある。あたしはな、悪党を改心させたことだってあるんだ。あれは三十年前のことだ。大雨が降った寒い日に、あたしの店に入ってきた男が……」
 急に昔話を始めた千代子をあからさまに遮った。
「だから、そういう次元の話じゃない。目撃者をひとりでも逃せば、あいつら自身が死ぬかもしれない状況だってことを言ってるんだって」
「なんで向こうが死ぬ?」
「こんな汚れ仕事をするのは下っ端のチンピラだからだよ。組織的な犯罪で、ヘマをやらかせば相応のツケを払わされる。だいたい少しでも良心があるなら、赤ちゃんをゴミのように捨てるわけがない」
 とたんに千代子は戸惑った顔をし、助手席から体ごと振り返ってわたしを探るように見た。
「あんたはいったい何者なんだ? なんでそんなに悪党を知ってるようなこと言うんだよ。まさか、あんたも罪人なのか?」
 老女は嫌悪感と猜疑心をないまぜにしている。そのとき、後ろを窺っていた陸斗が口を開いた。
「夏美姐さんはヤクザから逃げてるらしい。あいつらの恐ろしさを身に染みて知ってるんだと思う」
「うるさい。そんなにあいつらと話し合いたいなら、千代子さんだけ車を降りな。泣き落としでも色仕掛けでもなんでもして見逃してもらえばいい」
 わたしはぴしゃりと言った。スマートフォンに目を落とすも依然として圏外だ。やはり赤ん坊など助けるべきではなかった。妙な胸騒ぎは的中だ。今さら善人になどなれるはずもないし、またなろうとも思っていないのに情に流されてこの始末だ。
 何度も後ろを確認しながらとにかく落ち着けと自身に言い聞かせていると、アクセルを踏み込んでいる長谷部がバックミラー越しに視線を送ってよこした。
「連中をまいたら、悪いがねえちゃんには降りてもらう」
 わたしはミラー越しに長谷部と目を合わせた。
「俺が自殺志願者を募ったとき、犯罪者お断りと書いただろ。罪を犯した挙げ句に死んで逃げようなんざ都合がよすぎるからな」
 長谷部のしたり顔には心の底からうんざりした。
「わかった。もう練炭自殺なんてできるような雰囲気でもないし、降りろというならそうする。ただ、この一件にはなんのかかわり合いもないから警察でわたしの名前は出さないでよ。それと、タクシーを呼べるとこまでは乗せてよね」
 すると陸斗が、ぐずる赤ん坊に目を向けながら口を挟んだ。
「僕も降ろして。もう四人で一緒にいるメリットがないし、ヤクザに目えつけられるとかめんどいから」
「おまえらは本当に恩知らずのろくでなしだな」
 長谷部がバックミラーで後続車を確認しながら言い捨てた。そしてわずかに目を丸くし、後ろを振り返って唇を歪めた。
「くそ! あいつら詰めてきやがった! まさかケツに当てる気じゃねえだろうな!」
 そう叫びながら速度を上げたが、古いうえに整備不良のバンが後続車のスカイラインに勝てるわけがない。わたしはハイビームの強烈なヘッドライトを手で遮りながら後ろの車に目を凝らした。男が三人、いや、四人はいるだろうか。シルエットだけ見ても若そうな雰囲気だった。
 長谷部はハイビームで山道を照らしながらアクセルをべた踏みにした。
「この状況で停まれば一巻の終わりだ。すぐエンジンがかからねえ。やつらに捕まるぐらいなら、い、いっそこっからガードレール突き破って転がり落ちてみっか?」
 長谷部は引きつったような笑い声を上げ、作業着のポケットから潰れた煙草の箱を取り出した。
「そもそも死ぬために集まったんだ。練炭にこだわる必要もねえだろ」
 震える手で折れた煙草をくわえた長谷部は、血走った目を一瞬だけ後部座席に向けた。赤ん坊はうとうとしたり起きたりを繰り返しており、今は手脚を活発に動かしてぐずっている。サイドブレーキの脇にあるライターを手にした長谷部だったが、激しい手の震えを止められずにそのまま取り落とした。もうみなが限界に見える。
 わたしはスマートフォンを起ち上げた。依然として圏外だ。焦りながら電源を落とすと、暗くなった画面に映っている自分自身と目が合った。これほどやつれた顔をしていただろうか。わたしはクマに縁取られたような虚ろな目を見据えた。会う者には年齢よりもずっと若く見えると言われ、コンプレックスだった丸い鼻もあどけなく見える武器だと認識していた。どんなときも曖昧に笑ってさえいれば、大抵の男は内気で優しい性格だと勘違いした……。
 スマートフォンの画面から顔を背けると、今度は箱の中の赤ん坊と目が合った。黒目がちな丸い瞳は驚くほど澄んでいて、暗いなかでもきらきらと上質な輝きを帯びている。無意識に小さな頰へ手を伸ばしかけたとき、けたたましいクラクションの音が鳴り響いて四人は一斉に肩をすくめた。

(続きは本書でお楽しみください)

作品紹介



四日間家族
著者 川瀬 七緒
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2023年03月01日

誘拐犯に仕立て上げられた自殺志願者たちの運命は。ノンストップ犯罪小説!
自殺を決意した夏美は、ネットで繋がった同じ望みを持つ三人と車で山へ向かう。夜更け、車中で練炭に着火しようとした時、森の奥から赤ん坊の泣き声が。「最後の人助け」として一時的に赤ん坊を保護した四人。しかし赤ん坊の母親を名乗る女性がSNSに投稿した動画によって、連れ去り犯の汚名を着せられ、炎上騒動に発展、追われることに――。暴走する正義から逃れ、四人が辿り着く真相とは。

詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322210001445/
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