「天使と悪魔」シリーズ、待望の第10弾スタート!
本日 11 月 12 日(火)発売の「小説 野性時代」2019年12月号では、赤川次郎さんの新連載「〈天使と悪魔〉湖の底の金塊」がスタート。
その冒頭を公開します!
1 ちょっと……
それにしても……。
マリは考えたこともなかった。
「ちょっと」
という、簡単なひと言に、こんなに色んな意味があるなんて。
「ちょっと!」
と、銃弾のように飛んで来たひと言。
「はい!」
マリはあわてて飛び上る。
「何をグズグズしてるの! お客様のお荷物を早くお持ちして!」
「はい!」
マリは玄関へ飛んで行くと、はち切れそうなトランクを、「エイヤッ!」と両手で持ち上げた。
重い! 何が入ってるんだろ?
「おい、気を付けてくれよ」
と、ラフなジャンパー姿の男の客は、マリの苦労も知らぬげに、「中には大事な物が入ってるんだ。壊れやすいんだから、落とすなよ」
だったら、自分で持て! ――と、口には出さなかった。
「お部屋は三階でございます」
と、仲居頭の久保布子は、すっかり体の一部と化した和服姿で、男の客をエレベーターへと案内する。
マリは、重いトランクを両手で持って、早くも息を切らしながらついて行った。
「三角様でいらっしゃいますね」
と、久保布子はエレベーターに乗ると言った。「お二人様で……」
「うん。後から、もう一人、少し遅れて来る」
四十前後だろうか。サラリーマンという雰囲気ではなかった。
この旅館〈湖畔荘〉のエレベーターは、至ってゆっくりしている。下りるときは、階段を駆け下りた方がよほど早い。まあ、もともと五階までしかない温泉旅館なのだが。
「――湖が見える部屋にしてくれてるだろうね」
と、三角という男はニコリともせずに言った。
「もちろんでございます」
と、布子は言った。「特にそういうご指定がございましたので」
「うん。絶対に湖が見える部屋にしてもらわないと」
まだ三階に着かないの? ――マリは重いトランクを、エレベーターの床へ下ろそうとした。すると、
「床に置くな!」
と、三角が怒鳴ったのである。
「はい」
「ちょっと」
と、布子がマリをにらんで、「お客様のお荷物ですよ。しっかり持ちなさい」
「はい……」
やっと三階に着いた。
「こちらでございます」
布子が廊下を先に立って行く。そして、
「こちらのお部屋になります」
と、手にしていたルームキーで、ドアを開けると、「どうぞお入り下さい」
三角は中へ入ると、ともかく真直ぐ奥へと向って、広い窓のカーテンを思い切り開けた。
「――いかがでございましょう」
と、布子が言った。「右手に湖、左に紅葉の山々がご覧いただけて――」
だが、三角はパッと振り返ると、
「どういうことだ!」
と、顔を真赤にして怒鳴ったのである。
布子もさすがに言葉を失った。
「湖が見える部屋と言ったんだ! 誰が山を見たいなんて言った? 湖が《正面に》見えなくちゃならないんだ!」
三角は凄い剣幕だ。布子は、しかしさすがにベテランで、
「失礼いたしました」
と、即座に謝った。「少しでも眺めのよろしいお部屋を、と思いましたので。では、湖が正面に見えるお部屋に変更させていただきます。少しお待ちいただけますか」
布子は急いで部屋を出て行った。
三角は不機嫌そうに、部屋の中を見回していたが、マリがトランクを両手で持って立っているのを見ると、
「おい、トランク、畳の上なら、置いていいぞ」
と言った。
「はい……」
「そっと置くんだ。いいな」
「はい」
ホッとしながらも、畳の上にゆっくりとトランクを下ろす。両手は真赤になっていた。
「怒鳴って悪かった」
思いがけず、三角は穏やかな口調で言った。
「いえ……。慣れてないもので」
と、マリは言った。
汗がふき出してくる。
「自分で持てばいいんだがね」
と、三角は言った。「病み上りで、力が出ないんだ」
「そうですか。私はこれが仕事ですから」
と、マリは言った。
「ここの仲居さん?」
「いえ! ただのアルバイトです」
実際、仲居はみんな和服だが、マリはジーンズ。
「そうか。若いね。十七、八?」
「そんなところです」
まさか、「天使ですから、年齢ってないんです」とも言えない。
マリは、天国から地上へ「研修」に来ている天使である。十六、七の少女の姿で、腕力もその程度しかない。
たまたま一緒になって旅をしているのは、見たところ真黒な犬のポチ。こちらは、「成績不良」で地獄から叩き出されて来た悪魔の仮の姿だ。
お互い、天敵同士というわけだが、人間界で生きていくには、マリが働いて稼ぐしかない。ポチも、野良犬扱いされないためには、心ならずも(?)天使のマリが働くのを助けて、食べものにありつかなくてはならないのである。
マリが、この〈湖畔荘〉という、至って分りやすい名前の旅館で、〈アルバイト募集〉という貼紙を見て飛び込んだのは一週間前。
ポチも、何とか「番犬として役に立ちます!」というマリの話を聞いてもらって、置いてくれることになった。
もっとも、こういう山の中の温泉旅館なので、「犬は外にいるもの」というのが常識で、ポチは寒さに震えながら、表の物置で寝るはめになった……。
「三角さん、ここの湖が、よほどお好きなんですね」
と、マリは言った。
「うん……。まあね」
三角は、窓から右手の方に見える湖面へと目をやって、「ずっと憧れてたんだ」
と言った。
「え?」
「いつか、この湖へやって来ようと……」
「じゃ、ここは初めてなんですか?」
マリの問いに、三角はフッと表情を消して、
「部屋が空いてるといいけどな」
と、話をそらした。
そこへ、バタバタと足音がして、
「――お待たせしました!」
と、久保布子が戻って来た。「湖を正面に眺められるお部屋をご用意いたしました!」
「そいつは助かる。じゃ、案内してくれ」
「かしこまりました! ちょっと!」
「はい」
マリは、再び重いトランクを、よいしょと持ち上げた。
――確かに、窓からほぼ視界一杯に湖面が広がった部屋で、三角も満足そうだった。
「ちょっと!」
と、布子が言って、マリはお茶とお菓子を持って来るために、一階へと階段を下りて、台所へ行こうとした。
「――誰かいます?」
玄関に、若い女性が立っていた。
「あ……。お客様でいらっしゃいますか?」
と、マリが訊く。
「旅館の方?」
「はい。あの――アルバイトなので、こんな恰好ですが」
と、マリは言った。「係の者を呼びますので」
「三角さんって人が、着いてるかしら?」
と、その二十歳ぐらいかと思える女性は訊いた。
「三角さんですか? はい、ついさっき」
と、マリが答えると、
「まあ……。それじゃ、無事に着いたのね!」
と、女性は安堵の表情になった。「良かった……。本当に良かった……」
マリは、その女性が涙をこぼすのを見て、びっくりした。
「あの――三階のお部屋です」
と、マリは言った。「ご案内しましょうか?」
「ええ! お願い!」
エレベーターは、きっと実際以上にノロノロと上っているように感じられたに違いない。
「こちらで――」
と、ノックするより早く、その女性はドアを開けて中へ飛び込んで行った。
「三角さん!」
「令子! 来たのか!」
「会いたかったわ!」
――マリとしては、ドアを閉めるしかなかったのである……。
▶このつづきは「小説 野性時代」2019年12月号でお楽しみください!
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