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試し読み

“何も盗まなかった泥棒”の本当の目的とは? 和装名探偵と犯人に騙されまくる助手が、レトロな街の難事件に挑む! 『谷根千ミステリ散歩』特別ためし読み!#8

「小説 野性時代」で人気を博した、東川篤哉さんの本格ミステリ『谷根千ミステリ散歩』。
10月17日の書籍発売に先駆けて、「もう一度読みたい!」「ためし読みしてみたい」という声にお応えして、集中掲載を実施します!

>>第7回へ

 ◆ ◆ ◆

      2

「んで、んで? それでどうなったの、瑞穂ちゃん?」ピンクのエプロンを身につけた私は、カウンター席に座る古い友人、足立瑞穂ちゃんに対してワクワク気分で話の続きを促した。「金庫、大丈夫だったの? 何か大事なものとか、盗まれてなかった?」
「それがね、不思議なんだよ、つみれちゃん」といって充分に期待をあおった瑞穂ちゃんは、隣に座る私のことをチラリと横目で見やって、意地悪く沈黙。手にしたザク切りレモンサワーのジョッキを傾けながらグビリグビリと二回ほど喉を鳴らすと、「プファ~ッ」と妙にオヤジっぽい吐息を漏らす。そして彼女は、あらためて意外な事実を語った。「おばあちゃんがいうにはね、金庫の中身は、まったく無事だったらしいのよ」
「えぇー、無事だったのー? なーんだ……」
 と馬鹿な私がリアクションを間違えたので、瑞穂ちゃんは不満げな表情。太めの眉を八の字に寄せ、手にしたジョッキをカウンターに置くと、「ちょっとぉ、『なーんだ』じゃないでしょ、つみれちゃん。そこは『無事で何より』でしょ!」
「うんうん、そうだね、『無事で何より』だったよ、瑞穂ちゃん」
 これ以上、友人の機嫌を損ねないようにと思って、私はテキトーに話を合わせた。
 関東地方に梅雨入りの発表があってから数日が経過した、とある平日の夕刻。場所は文京区谷中界隈のゴチャゴチャッとした路地の某所にある鰯料理メインの居酒屋、その名も『鰯の吾郎』。会社帰りのサラリーマンが訪れるには早すぎる時間帯ということもあり、狭い店内は閑散としている。客と呼べるのは、女子大生になったばかりの足立瑞穂ちゃんが、ただひとりだ。
 ちなみに私は客にはカウントされない。なぜなら私こと岩篠(いわしの)つみれ、弱冠二十歳は、この店の人間。自分でいうのもおこがましいが、居酒屋『吾郎』の看板娘だ。近所の無名私立D大学に通いながら、ときには店の手伝いにも精を出し、常連客の間では《三杯ほど飲めば、だんだん可愛く見えてくる》と滅法評判の女子大生である。
 そんな私は、瑞穂ちゃんに当店自慢のザク切りレモンサワーを勧めながら、つい先日、彼女のおばあちゃんの周辺で起こった奇妙な出来事について、詳細を聞かせてもらっているところなのだ。――と、こう書くと、いまどきの真面目なオトナたちの中には眉をひそめて、このように指摘する向きもあるだろう。『こらこら、その瑞穂ちゃんて娘は、大学生になったばっかりなんだろ。だったら居酒屋で堂々とレモンサワーなんて飲んでちゃ駄目じゃないか。ちゃんと隠れて飲みなさい、隠れて!』とか何とか愉快なことを……
 だけど大丈夫。なぜなら足立瑞穂ちゃんは大学生になるまで二浪もした苦労人だから、六月現在でキッチリ二十歳。髪はサラサラのショートボブ――っていうか、むしろ前髪パッツンのオカッパヘアーで目鼻立ちも童顔。着ている服もグレーの半袖Tシャツにデニムパンツという具合で、なんだか少年っぽいから、実年齢より下に見られがちだけど、お酒は飲んで構わない年齢だ。レモンサワーを堂々と飲もうがテキーラを隠れて飲もうが、まったく何の問題もない(ちなみに彼女が二浪してまで入った大学というのは、もちろん私が通う私立D大学などとはレベルが違う別の学校だ。本人の名誉のため付け加えておく)。
 さてと、コンプライアンス上の問題も綺麗にクリアできたところで、さっそく話題を元に戻そう。確か、瑞穂ちゃんが『金庫は逆さまにされていたけれど、中身は何も奪われてはいなかった』というような話をして、友人である私が『無事で何よりだったねえ』と心から安堵するリアクションを示した――そんな場面だったはずだ。
 瑞穂ちゃんは、またレモンサワーをひと口飲んで、話を続けた。
「でもね、金庫だけじゃないのよ。部屋にあった品物の中には、多少なりと値打ちのあるものもあった。テレビは新品だったし、DVDプレーヤーもまだ使えるものだった。置時計も貰い物だけど値の張るものだった。でも、そういったものも、いっさい手が付けられていない――いや、手が付けられていないって言い方は不正確ね――もちろん手は付けられているのよ。逆さまにするためには、手を触れないわけにはいかないもんね。だけど犯人はいろんなものを逆さまにしただけで、何ひとつ持ち出していない。犯人は盗もうと思えば何だって盗めたはずなのに、結局は何も盗らずに立ち去ったらしいの。――ね、なんだか薄気味悪いでしょ、つみれちゃん?」
「確かに気味の悪い話だねえ」
 いっそ何か盗まれていたほうが、むしろ気色悪さは緩和されていただろう。私は少しの間考えてから質問の口を開いた。「平凡な解釈だけどさ、誰かの悪戯っていう線はないの?」
「うん、悪戯じゃないと思う。だって悪戯だとするなら、それをおこなう可能性があるのは、おばあちゃんにとってただひとりの孫娘。すなわち、この私をおいて他に考えられないもん」
 妙に得意げな顔で、瑞穂ちゃんは自分の胸を指差す。そして彼女は首を真横に振った。
「でも残念ながら――いや、残念っていうのもアレだけど――私はそんな悪戯はやってない。やってないという証拠はないけれど、ここはとりあえず信じてね、つみれちゃん」
「判った。信じるよ」私は確信を持って頷いた。「だって瑞穂ちゃんは悪戯した後には、必ず自分で顔を出して『やーいやーい、引っ掛かった、引っ掛かった!』って派手にやるタイプだもん。悪戯するだけして、知らん顔するような娘じゃない。そうだよね、瑞穂ちゃん?」
「う、うん……そういうふうに思われてるんだね、私って……」
 軽くショックを受けた様子の友人に、私は無邪気に微笑みかけた。
 そもそも瑞穂ちゃんのことを疑うならば、いままで彼女から聞かされてきた長い話が、すべて疑わしく無意味なものになってしまうのだ。とりあえず友人は無実であり、被害者である久枝さんの話を、あくまで忠実に再現して語ってくれているだけ。私としては、そう考えるしかない。
 だが、そうだとすると、やっぱり私は首を傾げざるを得ない。――いったい犯人は何の目的があって、久枝さんの自宅の居間に、そのような奇妙な細工を加えたのかしらん?
 居酒屋の手伝いなどすっかり忘れて、私は提示された謎に没頭して腕組みする。と、そのときこちらの思考を大いに掻き回すがごとく、男性の威勢のいい声が狭い店内に鳴り響いた。
「――ハイよ、鰯のなめろう、お待ちぃ!」
 カウンター越しに差し出されたのは、鰯のつみれと並んで、この店の看板メニューである鰯のなめろう、一皿四百円。それを差し出したのは看板メニューと漢字違いの岩篠なめ郎、三十二歳独身。板前として居酒屋『吾郎』を切り盛りする、不肖の兄である。
 どうやら、なめ郎兄さんは自分と同じ名前の料理を作りながら、こちらの会話に聞き耳を立てていたらしい。カウンターから身を乗り出すと、無理やり話に加わってきた。
「聞いてて思ったんだけどよ、愉快な悪戯じゃないとしたら、むしろ悪意のこもった嫌がらせってことなんじゃねーか。そう考えるほうが普通だろ。――なあ、瑞穂ちゃん?」
 友人は、さっそく鰯のなめろうを箸で摘んで口に入れると、レモンサワーをひと口。それから、なめ郎兄さんの問い掛けに答えた。
「ええ、嫌がらせというのは、正直あり得ることだと思いますよ。だけど単なる嫌がらせにしては、ちょっと手が込んでいると思いませんか。だって犯人は、たぶん合鍵を使って祖母の家に忍び込んでいるんですから」
「え、合鍵を使って忍び込んだのかい!?」正義感の強い兄の顔に、あらためて憤然とした表情が浮かんだ。「なんて酷ぇ奴だ。それじゃあ完全に泥棒じゃねーか!」
「違うって。泥棒じゃないってば、お兄ちゃん!」私は妹らしく冷静にツッコミを入れた。「なに聞いてたの? その侵入者は何も盗んでいないんだよ。だから不思議なんじゃない」
「う、うむ、それもそうか。だったら泥棒とは呼べねーな。それでも犯罪は犯罪だ。不法侵入罪に当ることは間違いないだろ。まあ、花瓶やら時計やらをひっくり返す行為は、ナニ罪に当るのか、サッパリ判んねーけどよ」
「それは私も、よく判んないよ」ひょっとすると実害がないから、罪には当らないのかもしれない。だが被害に遭った久枝さんの驚きと恐怖は、並みではなかったはずだ。「ひょっとすると、久枝さんを怖がらせること、それ自体が犯人の目的だったんじゃないかしら?」
「そうかもしれないね。だけど、少し回りくどいと思うのよねえ」
 ほっそりとした腕を組みながら友人は首を傾げた。「居間にあるいろんなものを逆さまにするって行為は、確かに気味が悪いけど、ちょっと中途半端だと思う。いっそ大事なものを奪ったり壊したりするほうが、相手に与えるインパクトは大きいでしょ。たとえば可愛い孫娘の写真をメチャクチャにするとか……あ、《可愛い》っていうのは、おばあちゃんから見て《可愛い》っていう意味ね」
 ――大丈夫だいじょーぶ、一般的に見ても瑞穂ちゃんは充分可愛いって!
 私は「うふふ……」と笑って、童顔の友人を見やった。確かに、このカワイ子ちゃんの写真をどうにかされるほうが、おばあちゃんとしてもショックは大きいはず。だが犯人はそうはしていない。写真立ては逆さまにされただけ。これでは大した嫌がらせにもならないだろう。
「それじゃあ瑞穂ちゃんは、どう考えているの、今回の逆さま事件?」
「なにいってんのよ、つみれちゃん」友人はジョッキのレモンサワーを、またひと口飲んでから、こう断言した。「私の頭じゃ何も考えが浮かばないから、まだ明るいうちに、わざわざこんな店にきたんじゃないの。――あ、いや、《こんな店》ってのは、あの、えーと、つまり、お酒とお料理の味が判る、素敵なオジサマたちが集まるツウ好みの店って意味だよ」
「うんうん、判ってる判ってる」──要するにキラキラしたピッチピチの女子大生がお酒を飲むには、ちょっと場末感がありすぎる店って意味だね。間違ってないよ、瑞穂ちゃん!
 ニヤリとして何度も頷く私。それをよそに、カウンターの向こう側では、なめ郎兄さんが照れくさそうに短い髪の毛を掻きながら、「いやあ、ツウ好みの店だなんて、嬉しいこといってくれるじゃねーか、瑞穂ちゃん。――だけどよ、店の大将である俺がいうのもナンだが、その手の小難しいミステリをうちに持ってきたところで、知恵を貸してくれる賢者なんて、この店にはたぶんひとりもいねーぜ」
 数少ない『吾郎』の常連客たちを無意識にディスって、なめ郎兄さんは「あはははッ」と高笑い。私は誰かがどこかで聞き耳を立てていないかと、ハラハラして店内を見回す。
 しかし瑞穂ちゃんは、兄の言葉にキッパリと首を振ると、
「いやいや、いるじゃありませんか、賢者が。噂の名探偵が。――ほら」

(つづく)

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