谷根千ミステリ散歩 中途半端な逆さま問題
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部屋中の物が逆さまに! 脱力系イケメン探偵はどう見る? 暴走迷推理女子が、名探偵とコンビを組んだ! 『谷根千ミステリ散歩』特別ためし読み!#7
「小説 野性時代」で人気を博した、東川篤哉さんの本格ミステリ『谷根千ミステリ散歩』。
10月17日の書籍発売に先駆けて、「もう一度読みたい!」「ためし読みしてみたい」という声にお応えして、集中掲載を実施します!
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◆ ◆ ◆
第2話
1
それは谷中の路地を彩るアジサイの花も鮮やかさを増し、梅雨入りも間近と囁かれはじめた、六月初旬の日曜日。眩しかった初夏の陽射しも、大きく西に傾いた夕刻のことだ。
東京都文京区に住む七十代女性、滝口久枝は仲間たちとの小旅行を終えて、JR日暮里駅にひとりたどり着いた。一泊二日の伊豆への旅行は充実したものだった。宿に着いて早々、まず温泉に入り、それから美しい海辺を散策し、また温泉に入ってから、郷土料理に舌鼓を打ち、またまた温泉に入った後には、寂れたスナックのカラオケで大いに盛り上がって、またまたまた温泉に入って、旅館の分厚い布団でぐっすり眠って、翌朝はまたまたまたまた温泉に入って――
「いったい、どんだけ温泉に浸かってたのかしら、私……」
久枝は旅行鞄を手にしながら自嘲気味に呟いた。宿のお風呂は何度入っても宿泊料に影響がないから、ついつい入りすぎてしまうのだ。人間だからいいようなものだが、もしも自分の身体が生タマゴだったなら、お湯の中で熱々トロットロの半熟状態になっていたことだろう。温泉タマゴになった自分の姿を想像しながら、久枝は思わず苦笑する。
そんな彼女は駅を出ると、ゆっくりとした足取りで千駄木方面へと歩を進めた。
晴天の休日、しかもここ最近の谷根千ブームも手伝ってか、谷中銀座商店街は大変な賑わいよう。旅行鞄を持った久枝の姿などは、はたから見れば完全な観光客に見えたことだろう。実際は観光地から地元に戻ってきたところなのだが、なんだかちょっと面白い状況なので、久枝はわざとミーハーな旅行者のフリをして、道行く《谷中猫》を写真に撮ったりなどして楽しんだ。元来、茶目っ気のあるタイプなのだ。
夫と結婚して以降、久枝はこの界隈に暮らすようになり、夫が他界したいまも、同じ場所に住み続けている。もちろん谷中の猫など珍しくも何ともない。そんな彼女の自宅は谷中銀座を抜けて郵便局を通り過ぎ、不忍通りを渡ったあたり。須藤公園の傍に建つ二階建て住宅だ。
その古ぼけた玄関先にたどり着いた久枝は、持っていた鍵で自宅の玄関を開けた。かつて夫が存命だったころ、家族旅行から戻った久枝は自宅に足を踏み入れるなり、『あー、やっぱり自分の家がいちばんねー』という禁断の台詞を堂々口にしては、夫を大いに憤慨させる――というのがお決まりのパターンだった。夫にしてみれば、『せっかく家族旅行に連れていってやったのに、〈やっぱり自分の家がいちばん〉はないだろ。だったら旅行なんて、もう連れていってやらないからな!』といった気分だったのだろう。久枝にしてみれば、家族旅行などというものは《我が家がいちばんという事実を思い起こすための確認作業》に他ならないと信じて疑わないのだが、その感覚は最後まで夫には理解してもらえなかったようだ。
その夫もいまはなく、ひとり娘もとっくに嫁いで家を出た。生まれた孫娘は、この春から花の女子大学生だ。したがって久枝は現在、悠々自適のひとり暮らし。誰にも気兼ねする必要はない。
玄関を入った久枝は、「あー、疲れた!」とひと声叫ぶと、短い廊下を真っ直ぐ進んで居間へと向かった。そこは純和風の畳敷きの八畳間に絨毯を敷いて、ソファやテレビを置いた和洋折衷の空間。久枝はクラシカルな円形の和風ローテーブル――要するに、古ぼけたちゃぶ台――その脇に旅行鞄を置くと、ソファにドスンと腰を下ろす。そして誰はばかることなく、
「あー、やっぱり自分の家がいちば……」
と、大きな声で例の台詞を口にしかけたのだが――「ん!?」
その台詞を言い終える寸前、久枝はふと口を噤んだ。
「…………」
呑気に自宅の素晴らしさを賛美している場合ではない。この部屋はどこか変だ。いつもとは何かが違う。言葉にならない違和感を覚えて、彼女は静かにソファから立ち上がった。
最初に気付いたのは、テレビ台の端に置かれた孫娘の写真がおかしい、ということだった。それは大学の入学式でのひとコマ。ピースサインをしながら可愛く微笑む孫娘の全身が写っているのだが、なぜか彼女の頭がフレームの下側にある。必然的に、スカートから覗く両脚が上を向いている。まるで写真立ての中で孫娘が逆立ちしているかのようだ。
久枝は一瞬ギョッとなり、そしてその直後には、「あらあら、私としたことが、なんて間抜けなのかしら……」と口に出して呟いた。写真立ての天地が逆になっているのだ。旅行に出掛ける前に、自分がウッカリ間違った置き方をしたのだろう。当然のようにそう考えた久枝は、これまた当然のようにテレビ台へと歩み寄り、逆さまになった写真立てを正しく置きなおした。
だが、その直後に彼女の目に留まったのは、テレビ台の隣に置かれた小さな本棚だ。一見すると何の変哲もない本棚。彼女の愛読する書籍や雑誌、お気に入りの映画のDVDなどがギッシリと並んでいる。だが間近で見ると、そこにも明らかな異変があった。
「ん……『だいじせいや』……?」
久枝は目の前にある雑誌の背表紙を一文字一文字、声に出して読み上げた。だが、もちろん『だいじせいや』などというタイトルの雑誌は、この世に存在しない。『野性時代』というお馴染みの雑誌名が、ひっくり返って『代時性野』となっているのだ。しかも、ひっくり返っていたのは、その雑誌だけではない。並んだ単行本や文庫本、DVDのパッケージなどもすべて逆さまになっており、本棚はなんとも奇妙な光景を晒していた。さすがにこれは、久枝がウッカリ間違った置き方をしたものではない。
「いったい、どういうこと……何の悪戯なの!?」
戸惑いながら、さらに周囲を見回す。すると奇妙な状態に置かれた品々が、次から次へと彼女の視界に飛び込んできた。本棚の上の時計は夕方五時ごろを示しているはずが、なぜか十一時半あたりを示しているように見える。やはり逆さまなのだ。箱型の置時計の天地が逆になっているため、五時を示す針が十一時半に見えたのだ。時計の横に置かれた一輪挿しの花瓶は口を下にした状態で、ひっくり返されていた。画鋲でもって壁に貼られたカレンダーも、わざわざ逆さまに貼りなおされている。ちゃぶ台の上に置いてあった来客用の灰皿も、よく見れば伏せた状態で置いてある。久枝は灰皿をこのように置くことは絶対にない。
「テ……テレビは……?」
久枝はあらためてテレビ台の上に置かれた大画面テレビを確認するが、そこに動かされた形跡はなかった。だが、その一方でテレビ台の下に置かれたDVDプレーヤーは、やはり逆さまだった。といっても天地が逆というわけではない。正面を向いているはずのDVDディスクの挿入口が、壁のほうを向いているのだ。したがって配線を繋ぐコネクターなどが、むき出しのまま正面を向いていた。これではDVDが観られない。
「で、電話は……?」
固定電話は専用の台の上に置かれていたが、これは台ごと向きが変えられていた。プッシュホンの数字が壁のほうを向いている。やはり逆なのだ。ゾッと寒気を覚えた久枝は、事ここに至って、このリビングにおける最も重大な物体へと思いを馳せた。
「そ、そうよ、金庫……まさか金庫まで……?」
久枝は慌てて金庫へと視線を向けた。それは電話台のすぐ隣。リビングの一角にぴったりと寄せる形で、畳の上に直に置かれている。いかにも重量感のある家庭用金庫だ。そう簡単に逆さまにできるような代物ではない。久枝は祈るような思いで、金庫の前にペタンとしゃがみ込む。そして震える眸で恐る恐る金庫の扉を確認。すると次の瞬間、彼女の口からは、ほとんど絶望的とも思えるような悲痛な叫び声があふれ出た。
「ああッ、金庫が……金庫が逆さになっている~~~ッ」
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