2023年9月22日(金)、長浦京さんによるミステリ巨編『アンダードッグス』(角川文庫)が刊行となります。直木賞候補作となるなど大きな話題を集めた本作の文庫化を記念し、冒頭部約50ページ分が読める豪華試し読みを掲載! 全6回の連載形式で毎日公開します。超スケールで綴られる極上のエンタテインメントの序章を、存分にお楽しみください。
長浦京『アンダードッグス』試し読み#6
地下鉄
一階に豆腐店がある雑居ビルの三階。この貸事務所が当面の古葉の拠点になる。
豆腐店が大家だが、シャッターが下りている。時計は午後二時十五分。脇の扉を叩くと老人が出てきた。店主のようだ。鍵を受け取りに来たと告げると、渋い表情から急に笑顔に変わり、「ウェルカム」と両手を広げた。契約の際にマッシモ自身が
気に入られるわけだ。古葉は広東語がほとんどわからず、英語での会話だったが特に問題はなかった。店主の妻や中年の娘も出てきて、「新しい商売はきっと上手くいく」と話し、別れ際にはペットボトル入りの豆乳二本を渡された。
事務所はがらんと広い一間で、トイレと水道はあるが、シャワーなどはついていない。すぐ使える状態の有線電話機と、隅のほうにマットレスがひとつ。これをベッド代わりにしろということか? あとは、誰かの使い古したマグカップが四つ残っていた。
マッシモの手配した本物の就労ビザと営業許可証を使い、日本企業向けの広告代理店の営業申請をする。もちろん実体はない。
それでも事務所らしくするために備品くらいは配置しなければ。机や椅子、来客用の茶器も買ってこよう。マットレスの目隠し用にパーティション、パソコン類も必要だ。
考えているうちに、本当に広告代理店を立ち上げるような気分になってきた。
いい傾向だ。大きなうそを
何者かが押し入ってきたときのため、素人なりに退路の確認もした。
壁の二面が金網つきの窓で、古くて
腹が減ったが、まだやらなければならないことがある。マットレスと壁の間に隠すようにスーツケースを入れた。ブラインドも取りつけよう。このままでは外から丸見えだ。
入り口ドアに大家からもらった鍵のほか、日本から持ってきた後付け式のロックを二つつけ、事務所を出た。
道を早足で歩きながら、大家にもらった豆乳を飲む。確かに
恒明銀行東旺角支店に駆け込んだ。
恒明銀行本店には、奪おうとしているフロッピーと書類が保管されている。その支店のひとつを、古葉のダミー会社はメインバンクにする。
窓口業務終了直前で、ここでもはじめは接客係の女性に嫌な顔をされたが、パスポートとキャッシュカード、マッシモが保証人になっている関連書類を見せると、とたんに表情が柔らかくなった。彼の会社は現地香港でも高い信用を得ていることがわかる。古葉名義の口座に初動資金として百五十万ホンコンドル(約二千百万円)が入金されているのも確認できた。
中国本土側の九龍半島から、地下鉄で狭いビクトリア湾の地下をくぐり、香港島へ。
「ビジネス?」タクシーの運転手が訊いた。
「イエス」古葉はいった。
「会食? それでも商用でアバディーンまで行くのは珍しいよ。近ごろの観光客は
団体ツアー客か、水上生活者の歴史と文化に興味のある連中、そして変わり者でなければ、最近はわざわざ香<外字>仔まで足を延ばさないらしい。ネオンで派手に彩られた宮殿のような巨大海上レストランは、味はともかく、日本や欧米の観光客の目には古臭く映り、敬遠されているという。
そういう場所だから、マッシモは選んだのだろう。これから彼に会い、奪取計画の全容を聞くことになっている。
タクシーを降り、レストランへの専用送迎ボートに乗った。
夕陽が波を照らし、吹く風が心地いい。湾岸に沿って進むボートから見上げると、港に並ぶ高層マンションの背後、ビクトリアピークへと登ってゆく緑の斜面に、
あの中のひとつにマッシモの住む家もある。他にも香港島の中<外字>と九龍半島側の
ボートの行く先に目的の海上レストラン『
「ようこそミスター・スズキ」マッシモの伝えていた偽名でマネージャーに迎えられ、サッカーコートのように広い客席フロアーを進んでゆく。七割ほどの席が埋まり、盛況のようだ。酒とタバコ、料理の匂いが渦巻き、広東語、英語、韓国語の会話が飛び交っている。
昔ながらの
「お待ちかねですよ」彼女に笑顔でいわれながら五階で降り、ふたりで通路を進んでゆく。部屋は突き当たりで、装飾された
だが、ノックのあとにドアを開けても誰の姿も見えなかった。円卓の上に料理だけが並び、少し開いた窓から吹きこむ風でカーテンが静かに揺れている。
状況を把握できずにいると、先に気づいたウエイトレスが絶叫した。声が廊下と部屋に響き、古葉も慌てて身を伏せる。
視線の先、円卓の下には赤黒い液体が広がっていた。
ボトルからこぼれたワインじゃない。その大きな血だまりの中に、待っているはずのマッシモはグラスを手に、目を見開いたまま倒れていた。
これは自殺じゃない。
部屋の隅に倒れているふたりの専属警護員の巨体と、マッシモのジャケットの背に無数に空いた
はじめて見る殺人現場。そして殺されたばかりの肉体。
血だまりがさらに広がり、床に這いつくばっている古葉の指先に触れた。びくりと腕が震え、声が漏れそうになる。喉が詰まり、息も苦しい。
ウエイトレスはまだ大声で騒ぎ、助けを呼んでいる。
──どうしよう。
左手の爪先で額を叩き、
ここが安全とは限らない。犯人が窓の外に隠れている可能性もある。今すぐ逃げたほうがいい? だが、その背中を撃たれるかもしれない。
古葉は怯えながらもマッシモに這い寄った。
「ミスター。しっかりしてください」
下手な芝居だが、今この場で死んだ彼の体に近づく理由を他に思いつけなかった。無駄とわかっていながら英語でくり返し、動かない体を揺さぶる。小柄な老人なのに、命の抜けた肉の塊はひどく重い。半開きの口の中で、ぷるぷると揺れる舌がたまらなく気持ち悪い。
声をかけながら、死体の衣服を探ってゆく。渡されるはずだった追加資料があるはずだ。ズボンのポケットにはない。上着の内側には、鍵もフロッピーディスクもなく、財布だけ。古葉は緊張で息を荒くしながら自分のハンカチを出し、マッシモの財布をつまんで引き抜いた。老人の首がぐらんと揺れてこちらを向き、完全に生気の消えた目と目が合った。
紛れもない死。これは壮大なうそでも、偽装でもない。
この危険極まりない仕事の依頼主は、誰よりも先に殺されてしまった。古葉がわざわざ香港まで来た、その晩に──息がさらに苦しくなってゆく。
開いた財布には大量の各国通貨と、ブラックやプラチナのクレジットカードが並んでいる。
他には何もない。そう思ったと同時に、近くでがさりと音がした。
古葉は体を震わせ、そちらに顔を向けた。濃紺のスーツを着た警護員の巨体がゆっくりと揺れ、動いた。生きている? いや、違う。うつ伏せの死体の向こうに、もうひとりいる。長く薄い栗色の髪が揺れ、白く細い腕が伸びた。
「クラエス。シニョーラ」
古葉は呼びかけた。
マッシモの秘書、クラエス・アイマーロは生きていた。横たわったまま動けないのだろう。それでも
廊下の遠くから多くの足音が駆けてくる。
「
制服の警官が
古葉はその言葉通り、クラエスの指を握りしめたまま体を硬直させた。
(続きは本書でお楽しみください)
作品紹介
アンダードッグス
著者 長浦 京
発売日:2023年09月22日
世界に、牙を剥け。超弩級ミステリー巨編!
1996年、元官僚で証券マンの古葉慶太は顧客の大富豪・マッシモにある計画を強要される。
それは中国返還直前の香港から運び出される機密情報を奪取するというものだった。
かつて政争に巻き込まれ失脚した古葉は、自分を陥れた者たちへの復讐の機会と考え現地へ飛ぶ。
待っていたのは4人のチームメンバーと、計画を狙う米露英中の諜報機関だった。
策謀と銃弾飛び交う香港で“負け犬たち”は世界に牙を剥く!
直木賞候補作にもなった究極のエンタテインメント小説。
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