人気シリーズ「ハゲタカ」をはじめ、様々なテーマに取り組んできた真山仁氏の最新『トリガー 上下』が2019年8月30日に発売となります。小説家デビュー15年目の著者が挑んだのは、東京五輪を舞台にした“謀略小説”。緊迫の展開が連続する本作の冒頭を公開します!
*
「少佐殿、九時の方向に、不審者の可能性」
「よし、叩き
沖縄・
「しかし、少佐殿。民間人かも知れません」
「構わん。叩き潰せ!」
アルトマンがかつてイラクにいた頃は、周囲に不審な動きがあれば、「叩き潰せ!」と
噂では、その命令のために、民間人や友軍兵士が死傷しているが、それ以上に敵を掃討したことで、アルトマンには勲章が授与されている。
「少佐殿、どうやら女のようです。生け捕りにしましょうよ。最近、自分、女日照りなんで」
「バカかおまえは。女戦士かもしれんだろ。とにかく叩き潰せばいいんだ」
コザの米兵でアルトマン少佐を知らない者はいない。小心者なのに、やたら虚勢を張る嫌われ者だ。肥満で気道が狭くなった少佐独特のしわがれた声とイントネーションは、声帯模写芸人からすれば朝飯前だ。
覚は舞台の上を縦横無尽に動き回り、やや誇張した動きで、会場を笑わせている。
「少佐殿、大変です!」
「なんだ?」
「不審者は、奥様です!」
「だから、言ったろうが。叩き潰せと!」
女性の声で「もっと! 死ぬうう」と悲鳴を上げると、得意の銃声音の真似と共に暗転した。
再びステージに照明が向けられ、覚が一礼すると、突然、銃声が
どよめきが消え、ライブハウスは静まり返った。覚の背後の壁板に大きな穴が空いている。
続いてもう一発。今度の弾丸は、覚の頭髪をかすめていった。
「ひぃええ」という情けない声を発するのと同時に覚の腰が抜けた。
ざわめく客席の中から肥満体の男がステージに向かって近づいてきた。
手には、ピストルが握られている。
やばい! アルトマン少佐本人だった。
二メートル近い長身大柄のアルトマンの顔つきは、軍人と言うより、殺人鬼に見えた。
「動くな! 動くと、本当におまえを叩き潰すぞ」
命じられるまでもなく腰が抜けた覚は動けない。
「おいおい、やり過ぎだぞ!」
誰かのたしなめる声がしたが、アルトマンは銃を下ろす気はないようだ。
「お願いします。お許しください。どうか」
必死に謝る覚のこめかみに、銃口が押しつけられた。
「俺に恥をかかせた落とし前を、どうしてくれる」
「落とし前と言われても」
答えた途端、右手の甲を、軍靴で踏まれた。
骨の折れる音が聞こえた。
冷や汗が流れ、覚の口から絶叫が溢れた。
「助けてくれ! 人殺し!」と泣き叫んだ時に、銃口が頭から離れた。
少佐の他に、もう一人の男の足が視界に入った。
「これは大佐殿」
少佐の声に
覚が顔を上げると、クルーカットの巨漢がいた。白髪だが若々しく気迫に満ちている。
「銃をしまえ。こんな
「しかし」
「おまえは、栄えあるアメリカ海兵隊の少佐なんだぞ。誇りを忘れるな」
男の語気が厳しくなった。
いきなり、アルトマンが
「自分は、けっして誇りを忘れません!」
「では、このまま店を出て、基地に帰れ。あとのことは、俺にまかせろ」
「自分のような者に、お気遣いくださり、感謝致します!」
別人のように従順になって店を出て行った。
助かったぁ!
覚が大きなため息をついたのも束の間、白髪頭の大佐に胸ぐらを
身長一六五センチの覚の足が宙に浮いた。
「さて小僧、おまえは、この御礼に何をしてくれる?」
「何でも致します、大佐!」
「何でもするんだな、よし」
胸元を摑んだ手が緩んだ。両足が床に着いた瞬間、
「
「よしカク、別の店に
なんで、このオッサンが俺の名前を知ってんだという疑問が頭をかすめたが、酒のつきあいで許してくれるならと、覚は思いっきり笑顔になって敬礼した。
*
暗号名〝眠りネズミ〟と呼ばれる男は、その名の通り、敵国であるニッポン社会に浸透し、工作官からトリガーを引かれない限り、ずっと眠り続けるスリーパーだった。
十五歳で日本に渡ってきたネズミは、現地工作官が用意した日本人の名前とプロフィールを忠実に守って、その人生を生きた。祖国で厳しい訓練をしていたおかげで北朝鮮人だと気づかれたことは一度たりともない。今や日本人以上に日本人らしく生きている。
だからといって、使命を忘れたわけではない。ネズミがしくじれば、祖国にいる肉親が殺されるのだ。何より、彼は朝鮮民主主義人民共和国を愛していた。大義のために人生を
日本という国に愛着を覚えたことはない。物質的に豊かではあるし、先進国としての文明が素晴らしいのは認める。
だが、この国で生きる者どもには、大義がない。国家観も持たず、愛国心を悪だと断じる
だが、待てど暮らせど、トリガーは引かれなかった。
ミサイル攻撃や不審船のニュースが流れるたびにいよいよかと期待したが、ミッションは届かなかった。
あまりに眠りが長いので、近頃は不安を覚えるようになった。あれほどに鍛えた体も衰えてきたように思う。こんな平和ボケした国では、危機感や警戒心を維持するのが難しい。
平凡と安穏の生活に埋没するのが耐えられなかった。
──必ず目覚める時がくる。二十年でも三十年でも待てる精神力があるからこそ、おまえは栄えある大役を仰せつかったのだ。
年に一度の工作官との接触では、何度もそう励まされた。
そして遂に、栄えある大役の通達が届いた。
ネズミはいつものように家を出て、いつものように満員電車に揺られた。
押し出されるように電車からホームに降りると、ネズミはいつものように職場に向かった。
>>第 3 回へつづく
※掲載しているすべてのコンテンツの無断複写・転載を禁じます。
ご購入はこちら▶真山仁『トリガー 上』| KADOKAWA
▶トリガー【上下 合本版 電子特典書き下ろし短編付き】(電子書籍)