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試し読み

【新刊試し読み】東京五輪を舞台に日米韓が入り乱れる、真山仁初の謀略小説『トリガー』 #1

人気シリーズ「ハゲタカ」をはじめ、様々なテーマに取り組んできた真山仁氏の最新『トリガー 上下』が2019年8月30日に発売となります。小説家デビュー15年目の著者が挑んだのは、東京五輪を舞台にした“謀略小説”。緊迫の展開が連続する本作の冒頭を公開します!

プロローグ

「弔銃、構え!」
 米国立アーリントン墓地に号令が響き渡り、じよう兵がライフルを天に向けた。
「撃て! 撃て! 撃て!」
 重苦しい色の空に向かって、三発の空砲がとどろく。
 米国大統領サミュエル・ロバートソンは、自身の胸に撃ち込まれているような痛みを覚えた。
 この二ヶ月で、犠牲者は三人を数えた。
 一人は、二ヶ月前にソマリアでゲリラとの交戦中に頭を撃たれて命を落とした。そして五日前、イラク・イラン国境で極秘任務を遂行中の装甲車が爆破され、海兵隊の大尉と曹長が即死した。
 アメリカが、「世界の警察」を自認していた時代は終わったと、大統領就任以来、ロバートソンは繰り返し発言している。
 だが現実には、「世界の秩序を維持する」という大義名分があるからこそ潤うものがあった。
 多国籍企業の利権だ。米国に巨万の富をもたらすこの源泉を守ることが、米国大統領の最優先ミッションである以上、対米勢力排除のための極秘作戦などには、軍の出動が不可欠なのだ。
 しかし、冷戦の時代はとっくの昔に幕を閉じた。その上、イスラム勢力を悪の帝国と決めつけるのも難しくなった以上、海外での米兵の殉職に対して、世論の風当たりは強くなっている。
 大統領選挙の予備選挙まで、あと半年。このままでは有望なアメリカの若者を、戦場で殺す大統領と非難されるばかりで、再選など夢物語になってしまう。
「大統領」
 首席補佐官が小声で呼びかけてきて、スマートフォンの画面を示した。
〝連邦最高裁判所が、昨年シリアで戦死した米兵遺族に対し、合衆国政府に一〇〇〇万ドルの賠償金命令〟
 ダメだ、限界だ。何か手を打たなければ。

 *

 ジョンミンは、部下に呼びつけられて、むかっ腹を立てていた。
 八つ当たりするようにドアを開けると、ソウル中央地方検察庁特捜部検事キム・セリョンが、デスクに足を載せるという行儀の悪い姿で読書をしている。しかも泥ハネのついた乗馬服を着たままだ。室内には、事務官や捜査官の姿はない。
「お呼びでございましょうか、キム検事」
 俺はおまえの上司であると嫌味を込めて、わざと下手に出た。しかも、恋人でもある。
「ご苦労様、イ・ジョンミン主任検事、そこに座って」
 セリョンは、顔も上げずに返した。
 なんだと!
 怒りもあらわにジョンミンは腰を下ろした。セリョンは、読書をやめようとしない。
 彼女は、日本語の本を読んでいた。ジョンミンは日本語は分からないが、表紙に記された「繊細」と「真実」という漢字は読めた。
 一体、何のつもりだ?
 いつも思うが、彼女の部屋は、およそ検事の部屋らしくない。
 雑然と書いて、検事部屋と読むのだと、ジョンミンは思っている。事件の資料が詰まった棚が壁一面にあり、いつのものか分からない段ボールが床の上に積み上がっている。
 そんな書類と資料に埋もれて生きるのが、検事ではないか。なのにセリョンの部屋は、小さな塵さえ目立つほど規則正しく整えられ、その趣は優美ですらある。
 セリョンは、一体どこの国の検事様なんだ。
 デスクは素材がこくたんという特注で、彼女が体を預けている椅子も座り心地が良さそうだ。
 多くの同僚が、タレントや政治家とのツーショット写真を額装してこれ見よがしに飾っているが、彼女の部屋には、そんなものは皆無だ。代わりに愛馬タンザナイトを操るセリョンが華麗にバーを跳び越える瞬間をとらえた四切サイズのモノクロ写真をはじめ、ツーショットの相手はタンザナイトしかいない。
 乗馬趣味の写真を検事の執務室に飾るなんて、公私混同も甚だしいと問題視されるかも知れないが、セリョンの場合は、問題ない。
 なぜなら、キム・セリョンは、2020年東京オリンピックの馬術の韓国代表であり、金メダル候補の一人だからだ。その上、美人ときている。
 バランスの良い丸い額、大きな目と筋の通った鼻、強い意志が宿る唇──全てがパーフェクトだった。女のみだしなみといわれる整形すら、彼女には必要ない。その完璧さを、神様が与えた奇跡などと持ち上げるメディアもある。
「キム検事、申し訳ないんだが俺は忙しいんだ。用件に入ってくれないか」
「昨日の話、了解した」
 まだ、本から視線を上げようとない。
「昨日の話って?」
「あなたが提案した、関係解消のこと。但し、永久にね」
 恋人同士ではあるが、ジョンミンには妻子がいる。しかも、妻は青瓦台チヨンワデを牛耳る大物の次女だ。
 もつとも、ジョンミンの言い分としては、こちらがセリョンを誘ったのではなく、セリョンに押し倒されたのだ。
 それで三年ほど関係を続けてきたのだが、五輪が近いことだし、世間の目をはばかる関係はしばし凍結しようと、昨夜、ベッドの中で切り出したのだ。
「俺は、解消といった訳じゃあ」
 本がデスクにたたきつけられて、大きな両目がこちらを向いた。夜に見るとしびれるほど魅力的なひとみだが、時と場所が変われば、心臓が握りつぶされそうな迫力になる。
「私は、フェイドアウトが嫌いなの」
「どういう意味だ?」
 セリョンはひきだしから封筒を取り出すと、ジョンミンの前に座った。
 ブラックガラスのテーブルに投げ出された封筒から、数枚の写真が滑り出た。
「おたくの奥様から依頼されたという探偵からのプレゼント」
 ジョンミンとセリョンのツーショットが鮮明に写っていた。タンザナイト・ブルーの特注のフェラーリ812スーパーファストの車内で、キスしている様子まで撮られている。
 くそったれシーバル
「こんなものを、いつ?」
「一週間前。だから、いかにも私をおもんぱかったようなあなたのれ言を聞いた時、私は偽証罪で告訴しようかと思ったほど」
「いや、違うんだ。セリョン、聞いてくれ」
「聞かない。青瓦台を目指す方は、せいぜい、身辺をきれいになさって、ごますりに励んでちようだい。これで、私もトレーニングに集中できる」
「待ってくれ、セリョン。俺がどれほど、君を想っているかは──」
 セリョンが優雅な細い人差し指を自分の口元に当てた。
「ご存知でしょ。この部屋には、盗聴器を仕込んであるのよ。録音されてもよければ、いくらでも弁解なさってください」
 自分の執務室に盗聴器を仕掛けるなんぞ、どうかしている。これまでにも何度も非難したのに、彼女は改めていなかったようだ。
「私に検事としての魂を叩き込んでくれたことや、スランプで落ち込んでいた時に支えてくれたことには、感謝している。だから、あなたとの関係は誰にも言わないし、この会話記録も、後で消去しておく」
 それが私の武士の情けよ! とでも言いたいらしい。
 まあ、いい。一度言いだしたら、断固として譲らないのが、キム・セリョンの性格だ。
 ここはおとなしく引き下がろう。
「用件は、それだけか」
「そう。下がっていいわ、イ・ジョンミン主任検事」
「いや、俺からも用がある」
「プライベートな話なら、聞く耳を持たないわよ」
「おまえの上司としてだ」
「謹んで伺いますわ、主任」
 セリョンが、優雅に足を組み直した。
上の捜査を、即刻打ち切るんだ」
 セリョンには、もう一つ最強の武器がある。伯父が、韓国大統領なのだ。なのに、こいつは伯父の不正を極秘捜査している。
 それについては、情報機関である国家情報院(国情院)も、既に把握している。
 おかげで、疑惑の有無はともかく、めいが伯父を捜査するなど「言語道断!」と、上司の俺が青瓦台からのお叱りを受けた。
 だが、セリョンは、一向に止める気配がない。昨夜も、二人の関係凍結以上に重要な話として、その点を厳命した。
「ああ、その話。それは、主任のご命令に従います」
「おまえの口約束なんてあてにならない。すぐに破るじゃないか」
「この部屋をしっかり見てよ。昨日まであった資料ボックスが消えているでしょ」
 執務室にないぐらいでは、信用できない。彼女は、実家に極秘捜査専用の部屋を持っている。
「君の実家も、チェックするぞ」
「お好きに。でも、私は同行しないわよ。母にどんな説明をする気かしら」
 セリョンの母親は大統領の妹で、セリョンの気の強さは母親譲りのものだ。
「心配するな、俺はお母様に好かれている」
「だって、ママは二人の関係を知らないからね。でも、知ったら、あなた撃ち殺されるわよ」
「セリョン!」
「なんてね。まあ、やりたければ、お好きに。私は別の獲物を見つけたから、伯父の捜査からは手を引く」
「別の獲物って?」
 話は以上と言わんばかりに、セリョンが立ち上がった。
「さあね。主任、お疲れ様でした。お幸せに」
 怒鳴りつけてやりたかったが、自重した。それに、三日前まで大統領不正疑惑の資料ボックスが置かれていた棚は確かに空っぽで、代わりに一冊の古びた英字のペーパーバックがあるだけだ。
 著者は、パール・S・バックとある。確か中国を舞台にした『大地(The Good Earth)』という大長編で、ノーベル文学賞を受賞した米国の女流作家だった。ただ、本のタイトルは、『大地』ではなかった。〝Command the Morning〟。直訳すると、『暁を制せよ』か。韓国では翻訳されていない気がした。

>>第 2 回へつづく

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