(嫌です。ホント無理なんで、帰らせて下さい。帰ります、私)
(気持ち悪いんですあなたの目が。性的な対象として見られてること自体が、耐えられないんです)
(これって完全にパワハラのセクハラじゃない? 訴えたら勝てる? でも裁判なんか起こしてあの職場にいられる? 私の味方をしてくれる人がこの会社にいる? みんなどこ行っちゃったの? どうしてコイツと私をふたりきりにしたの?)
(ああ無理無理無理、くさい。駄目。お願い、死んで……。死んで……)
これらは全て、心の声である。
口頭では「あー、いや流石に三軒目はちょっと……。帰ってやんなきゃいけない仕事も残ってるんで……」と、努めて事務的な態度を装いながら、その場を切り抜けようとしている。ワイととち子との間に通じるパイプの向こうに、それが見える。
しかし彼女は酒を飲まされすぎたようだ。表情と裏腹に足元がおぼつかない。
相手の男はそれを狡猾に見抜いている。
飲み屋の灯りも少ない、繁華街の路地。
一緒に帰る筈だった同僚はいつの間にか消えてしまって、とち子は男とふたりきり。
「さっきの角を曲がる前に、同僚の女どもは別の男性社員に誘導され、違う店に入った。こいつは仲間の協力を得ての、計画的な犯行だ」
「……犯行?」
「この男は、今夜、とち子を手籠めにするつもりなんだ」
(ずっと手握って引っ張ってるんだけど、これって暴行じゃない? 警察呼ぶ?)
(……でも酔っぱらってたからって、酒の席でのことだからって、いつもみたいに笑ってごまかされるんだ、どうせ。こっちが神経質な被害妄想患者みたいに言われるんだ)
(昭和かよ)
(ああ……。どうしよう。もう面倒だなホントに)
(何もかも面倒)
(死にたい)
(面倒)
(……こいつ、一回させてやれば、それで納得するのかなぁ……)
「駄目に決まってんだろ莫迦!!」
ワイは襤褸布を咥えたまま草むらを飛び出し、風神の如き勢いで国道を駆け出した。
*
薄の原に鎌鼬が舞い、スパスパ穂を刈り取る。
ビュンッ、とすれ違う車の運転手がワイの姿に驚き、目を丸くしたのが一瞬見える。
糞田舎に吹く真っ黒な夜風を切って、ワイは走る。
「……丹吉。落ち着いてください。どこへ行くつもりですか」
「ふぐぐ……。とち子のところだよ! 当たり前のこと訊くな!」
「行ってどうするんですか。丹吉はまだ神使ではない、勝手な行動は許されない」
「神使じゃないから勝手に行動するんだろうが! とち子にこの殿中を縫わせるまでは、ワイはまだ、首輪のない一匹の化け狸なんだろ? 違うか!?」
「……なるほど、確かに。とんちが利きますね」
のんびりしたことを言いやがる。
初速からMAXスピードで駆け出したにもかかわらず、蛇はちゃっかりワイの尻尾の付け根で輪になって絡みつき、ついて来ている。流石に並の蛇などよりは素早いらしい。
「しかし、もう少し速度を落としてもらわないと俺が落ちます。俺が丹吉を見失った瞬間、丹吉は神使候補の資格を失い、岩の中へ戻されます」
「マジかよクソッ」
ワイは少し思案してから、道ばたの縁石に飛び上がりそれを踏み台にしてクルクルクルッ、と空中で三回転した。
「あっ……」
と尻尾からすっぽ抜けた蛇が声を上げたが、ワイはそれを咥えて軽く振り、輪の形にしてそこへ首を突っ込んだ。
「蛇、自分の尾を噛め!」
「尾を」
パクッ、と咄嗟に言われるがまま円環の形となった神使を、まさしく首輪のように太い首に嵌め、ワイは再び走り出す。
「なんちゅう屈辱的な……。自分でこんなもんを着けさされるとは」
「…………」
「……あっそうか、その恰好ならお前、喋られんな。ハハッ、こりゃいい」
殿中ごと輪っかで留めてもらった状態なので、ワイのほうは犬歯にそれを引っかけておく必要もなくなり、喋りやすい。
真っ赤な殿中の残骸をバタバタとマントのように翻しながら、ワイらはとち子の許へと急いだ。
が――ほどなく。
「いかん。タクシーに乗りやがったぞ……」
ワイはタタタタタッ、と速度を緩めることなく手近な電信柱を直角に駆け上がった。
その天辺で、遥か彼方の街の光を見晴るかす。
「……プハッ。丹吉、落ち着いてください。車より速く走るなんて無茶だ。頸動脈の拍数が尋常じゃなくなってる。今の丹吉には肉体があるんです、無理をすると死にますよ」
「……どうせずっと死んでたようなもんだ。それにこれから先も、半分死んだような飼い狸の一生を送ることになる。ワイが、ワイの意志で自由に駆けられるのは、今宵限りよ」
「なるほど。確かに、丹吉のこれからに自由はないですね」
「……ちょっと今、目の前が暗くなったかな。まあええけど」
吹きっ曝しの電柱の上にワイは立つ。
二足立ちである。
そのまま夜空に目を凝らして風がくるのを待ち、ほどなくパシッ、と宙を掴んだ。
「……なんです?」
「変身アイテムだよ。……おっ、萵苣の木か。ええな」
肉厚で丸々とした、虫食いもない落ち葉。その軸を爪先で抓み、くるくる回す。
久々の高揚感を覚える。
「どうすっかなぁ……。この状況で人間に化けても、とち子を助けられるとは思えんしなぁ」
「人間ならまずこの電柱から降りられませんね」
「やっぱり、とち子の好きなものになって助けてやったほうが、アイツも喜ぶんと違うかなぁ」
「何か成りたいものがあるんですか」
「いや。特にこうというイメージがある訳ではないんじゃが……」
あえて言うなら。
幼子の頃から見守ってきたとち子が、今この瞬間に求めている救い主の姿は。
「……まあ大体、こんな感じだろう」
ボッ、と両目に火が灯る。
落ち葉を額にあて、霊験をフォーカスする。
草木を通じて大地と繋がる。
大地を通じて万物と繋がる。
たとえそれが、束の間の幻だとしても――。
「変化……!」
ぼふんッ!!
(つづく)
作品紹介・あらすじ
丹吉
著者 松村 進吉
定価: 1,870円(本体1,700円+税)
発売日:2022年07月04日
現代に蘇った卑俗な化け狸が、この世の不平と悪を斬る!? 令和版狸合戦!
「語られなければ信じる者も減り、信じられていなければ存在もできない」
かつて赤殿中と呼ばれた化け狸・丹吉は、エッチな悪事によって徳島市方上町にある弁天山の卑猥な形の岩に封じられた。暇をもてあます丹吉は、弁天山に通い詰める松浦とち子を通じて現代社会の見地を得る。ある日、神々の会合で馬鹿にされたプチ弁天は、悔しさを晴らすために丹吉の肉体を復活させ、神使〈候補〉として妖怪退治を命じた。だがこの時代にアクティブな活動をする妖怪はいない……。ひとまず受肉時に破けてしまった殿中を縫ってもらうため、とち子のもとに向かった丹吉とお目付け役の蛇はSOS を察知。セクハラ男からとち子を救うべく田舎道を疾走する。丹吉は無事に神使になれるのか、はたまた岩に逆戻りか――。怪談実話のトップランナーが満を持して放つ、冒険活劇!
人間とは、神とは、妖怪とは、信仰とは――。
真心と下心が錯綜する性悪狸の愉悦と煩悩!
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