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試し読み

切なさの名手が描く、小説家の奇妙な生態。  山白朝子『小説家と夜の境界』試し読み#2

切なさの名手が描く、小説家の奇妙な生態。
山白朝子『小説家と夜の境界』

人生を踏み外してまでも、創作にのめりこむ小説家たち。これはあなたの愛する作家の"秘密"かもしれない──。『小説家と夜の境界』より「墓場の小説家」特別試し読み!



『墓場の小説家』 試し読み#2




 O氏の作家人生の半分以上は学園ミステリの執筆に費やされた。他のジャンルを書くようになったのは、デビューから七年ほど経過した頃である。ミステリブームが下火になり、売れ行きの芳しくない状態が続いた。その当時、世間でもっとも多く読まれていたのは恋愛小説だった。ネット上に掲載されていた恋愛小説が出版され、映画化され、大ヒットを記録したのだ。原作は百万部を超えるベストセラーになり、様々な出版社が似たような装丁の恋愛小説を売り出した。
 O氏に恋愛小説の執筆を勧めたのは、私の知り合いの編集者のT氏である。
「Oさんの作風で恋愛小説を読んでみたかったんです。それがまさか、あんなことになるなんて」
 T氏は後悔しているようだった。しかしだれも彼を責めることはできない。O氏はその特殊な執筆方法について作家仲間にしか教えていなかった。T氏は知らなかったのだ、彼がいつもどのようなやり方で小説を書いていたのかを。
 O氏に恋愛小説というジャンルを勧めたことも理解できる。O氏の小説で卓越していたのは物語のプロットやミステリのトリックの部分ではない。文章から薫ってくる空気感こそが彼の小説の魅力であり、それは恋愛小説というジャンルにとって武器となるはずだ。
 それに、O氏自身にも他のジャンルに挑戦してみたいという意欲があったようである。
「七年間、続けていましたからね。シリーズにけりをつけて、何か新しいことをはじめたかったのかもしれません。同じ時期にミステリ系でデビューした作家さんが、純文学系の賞をとったのも大きかったのかも」
 彼はO氏と打ち合わせの場を設け、どのような恋愛小説を書くべきかを何度も話し合った。
「高校生の純愛をテーマにした恋愛小説が世間にあふれていました。単純にその追従をするだけではいけないと思ったんです。だから、読み手が心に傷を負うくらいの破壊力があるようなものをリクエストしたんです。彼も、その方がいいとおっしゃっていました。それで【傷心】をテーマにしたんです。読者が慟哭するような恋愛小説を書きたいと意気込んでいました」
 O氏は作品のプロットを事前に編集者に提出するようなタイプではなかった。だれかに相談し、他人の思考が物語に入り込むことで、純粋さが失われると考える作家だった。事前に組み立てたプロットは、執筆という神聖な瞬間において、窮屈な拘束具でしかない。そのため、T氏の知らないうちに執筆は開始されていたという。
「数週間ごとに連絡を入れて、原稿の進捗をたずねたんです。初めての試みばかりで苦戦されているようでした。内容を聞いても教えてくれなかったのですが、登場人物の年齢は大学生から社会人くらいだと言われました」
 それまでのように高校生を主要登場人物に据えなかったのは、小説家として成長するための判断だったのだろう。そのため、自宅裏の高校校舎を観察しながらの執筆は行わなかったようだ。
「作品が完成して、原稿が送られてきたのは、打ち合わせから半年後のことでした。初稿を一読し、傑作だと思いました。読んでいる間、主人公に感情移入しすぎて、胸が痛くて仕方なかった。【傷心】というテーマがあれほど似合う小説はない。書評家からの評判もすさまじかった。あの小説を彼のベストにあげる人がたくさんいるのも納得の出来です」
 O氏が生涯で書いた恋愛小説は、その一冊だけである。愛する者に裏切られ、心に傷を負う青年の物語だった。心から滲み出た血をインクにして刻み付けられたかのような、嘆きに満ちた小説だった。
「初稿を読み終えてすぐに電話したんです。感想をお伝えしたくて。でも、Oさんは憔悴していて、それどころではなさそうでした。後からうかがった話では、その頃、夫婦喧嘩が絶えなかったとか」
 当時、作家仲間の飲み会に誘ってもO氏は現れなかった。彼の置かれている状況を知ったのは、例の恋愛小説が出版される直前の時期だった。O氏と奥さんとの夫婦仲が険悪になり、離婚間近の状態だと噂に聞いた。
「何度か私も会ったことがあるんですけど、若くてかわいらしい感じの奥さんでした。本当に仲が良くて、お似合いの夫婦だったんです。でも、私は知らなかったんです。Oさんが、小説と同じ環境に身をおかないと、書けないということを。彼は執筆のため、奥さんを出会い系サイトに登録させていたそうなんです。Oさんは、奥さんに浮気してきてもらうようにお願いしたそうなんですよ。小説の主人公が体験する【傷心】を深く理解するために、愛する人に不倫をさせたんです」
 O氏と奥さんは高校時代の同級生だったという。お互いに初恋で、成人後すぐに結婚。学園ミステリを書いていた時期などは、大きな喧嘩もなく、幸せな夫婦関係だった。そのかわりO氏は人生において、恋愛が原因で心に傷を負うという経験をしたことがなかったという。だから経験する必要があったのだ、心の痛みを。
「奥さんは嫌がったそうですよ。でも、小説のためだからと説得したそうです。Oさんの指示で、奥さんは出会い系サイトで知り合った何人もの男性と遊びに出かけたそうです。奥さんに隠し持たせたICレコーダーに会話を録音させ、それを聴きながら執筆したらしいですよ。奥さんと男性がホテルに入った後の音声もすべて収録されていたそうです」
 O氏は奥さんのことを心の底から愛していた。彼の小説を読めば、そのことがよくわかる。奥さんに対して愛情がなかったというのなら、小説で描写された主人公の痛みは上辺だけの空疎なものに仕上がっていただろう。
「ある日、外出が急に取りやめになって、Oさんが自宅で仕事をしていたそうです。すると、奥さんが男性を自宅に連れ込んできたそうなんです。その頃には、奥さんもすっかり出会い系にはまっていて、Oさんが指示をしなくても、知らない男性と会うようになっていたそうなんです。奥さんはその日、Oさんが出かけていると思い込んでいたんでしょうね。仕事場にOさんがいると知らないまま寝室に向かったそうです。仕事場と寝室は壁を一枚へだてた位置にあったらしくて、耳をすますと、二人の楽しそうな会話が聞こえてきたらしいですよ。それから、ベッドの軋む音も……」
 それに耳をかたむけながら、彼は小説を書いたのだ。私にはその光景が容易に想像できた。彼はそういう作家だ。愛の喪失に胸が痛くなるほど、小説の描写が鬼気迫り、迫真性を獲得する。十代の頃から一人の女性と育んできたかけがえのないものと引き換えに、彼は、本物の懊悩と焦燥と絶望を小説という芸術に昇華することができたのだ。
 本が刊行される少し前、彼の奥さんは荷物をまとめて家を出て行った。
 今は別の男性と幸福に暮らしているという。




 雑誌「怪と幽」に寄稿する身として、O氏がホラーというジャンルに興味を抱いていたことは、喜ばしい事実である。小説家として活動した十年三ヶ月のうち、彼の最後の一年間は、ホラー小説の執筆に捧げられた。その時期に発表されたいくつかの短編作品は、はたして、どのような経緯で書かれたのだろう。
 離婚後に一人暮らしをはじめたO氏と、私は会ったことがある。
[\「住んでいた家を売り払ったんです。もう、あの高校校舎を眺めることはできません。学園ミステリは二度と書けなくなりました」
 O氏は以前にも増して瘦せ細り、目は落ち窪み、弱々しい笑みを浮かべていた。
「今は賃貸のアパートの二階に住んでいます。一人暮らしをするのって、初めてなんですよね。結婚するまでは実家で両親と暮らしていたんです。その両親も、ずいぶん前に病気で二人ともいなくなってしまって。僕は今、たった一人になってしまったんです」
 彼が学園ミステリを書けたのは、家の裏に高校の敷地が広がっていたことが大きい。彼が恋愛小説を書けたのは、夫婦関係の犠牲と引き換えだった。たった一人になったO氏は、これからどんな小説を書いていくのだろう。当時の私は疑問に思い、そのことを質問した。
「今、興味があるのは【死】についてです。安心してください。自殺しようと思ってるわけじゃないんです。アパートの裏から墓地が見えるんですよ。二階の窓から、雑木林をはさんで墓石の並んだ一画が見えるんです。都内の霊園のように整った感じじゃなく、田舎の外れにあるような、古い墓地ですよ。それを見ていたら、【死】というテーマについて考えるようになったんです」
 一人暮らしをするようになり、あらためて、亡くなった両親のことを考えるようになったという。毎日、小さな仏壇に手を合わせ、自分を産んでくれたことに感謝しているそうだ。
「【死】をテーマにするといっても、純文学みたいなものじゃなくて、怪談みたいなものを書いてみたいんです。今なら何となく、怖い話が書けそうな気がするんですよ。住んでいるアパートは、比較的、新しいんですけど、なぜか壁や天井に謎の染みがあって、陰鬱な雰囲気があるんです。いかにも何か出そうな部屋なんですよ。最初に物件を見せてもらったときは気にならなかったんですけど。トイレの床になぜか子どもの手形みたいなのがあったり、水道の水がたまに生臭かったりするんです」
 O氏は、小説の世界観と、自分の周囲の環境を一致させ、境界を曖昧にさせながら執筆する。彼の口ぶりでは、住宅環境から【死】というテーマが引き出されたかのように聞こえた。しかし本当にそうだろうか。【死】というテーマが無意識にでもあったから、わざわざそのような物件に引っ越したのではないか。そんな想像をしたが、確認しないまま、その日は彼と別れた。
 しばらくすると、とある文芸誌に、O氏の手による短編ホラー小説が掲載された。一人暮らしをはじめた主人公が、様々な怪異に出会うという内容だった。作品世界の空気感を再現する彼の特殊能力とも言える筆致が、ホラーというジャンルにおいても見事な効果をあげていた。作品全体に不穏な雰囲気が漂い、形容し難い不安と寂しさが描かれていた。怪異に怯える主人公は、孤独で、すこしだけ滑稽で、物悲しい人物として描写されている。
 数ヶ月後、同雑誌に再びO氏のホラー小説が掲載されていた。おそらく同じ編集者のもとで何本か書きため、後に短編集として出版する計画なのだろう。内容は、より幻想性と怪奇性が高まったもので、死後の世界への憧れのようなものが登場人物の心理に垣間見えた。
 私は小説の感想を伝えるため、O氏へ電話した。
「何とか僕にも、ホラー小説というものが、書けるようです。最初に掲載したものなんて、なかなか頭の中が執筆モードになってくれなくて、書きはじめるのに毎日、苦労していましたよ。いろんな工夫をして、登場人物の怯えている心情を理解することができるようになったんす」
 工夫?
 具体的に、どんな工夫をしたんですか?
「自分が怖いと感じるものを、とにかく部屋の中に、たくさん集めたんです。ネットで探し集めた怖い写真や画像を印刷して壁一面に貼ったり、ゴミ置き場に捨てられていた日本人形を連れてきたり」
 O氏はもともと恐怖への耐性がそれほどある方ではないらしい。人並みに怖いものは怖いという。だから、怖いものを集めて部屋に飾るのは嫌だったが、小説のためだから仕方なかったそうだ。
「基本的に昼間は自宅で仕事をしていました。夜に執筆を行う場合は、ノートパソコンを持っていって墓地で書いていました。管理する人がいないのか、入り放題なんです。外灯もなく、周囲は雑木林に囲まれているから真っ暗なんです。目が慣れてくると、苔をまとった墓石が闇の中に並んでいるのがわかるんです。墓場の敷地には段差があって、僕はそこに腰掛けて夜な夜な小説の執筆をしていたんです」
 深夜に心霊スポットへ出かける者たちが私の周りには多い。怪談系の雑誌で仕事をしていると、オカルト好きの連中と知り合うせいだろう。しかし、小説の執筆をするために墓地へ行く者は、初めてだった。
「真っ暗な墓地にいると、息が詰まるほどの緊張感に襲われるんです。夜があれほど暗く、闇があれほど怖いものだということを、あらためて実感するんです。あまりの恐ろしさに、手が震えて、何度もキータイプをミスしました。闇の奥に、何かがいるんじゃないかという気がしてならなくなるんです。自分しかいないはずなのに、そこら中から視線をむけられているかのような気がしてくるんです。想像すると、肌が粟立って逃げ帰りたくなる。でも、そういう気持ちになればなるほど、執筆が、はかどって仕方ないんです。どんどん書き進めちゃうんですよ。まるで僕が書いているんじゃなくて、誰かに書かせられているかのように、勝手に手が動くんです。部屋で執筆していたら絶対に生まれない描写が自分の奥から出てきて驚かされました。恐怖に怯える登場人物たちの心理が手に取るようにわかって、僕はそれを叩きつけるようにキータイプして小説の形にするんです」
 彼の声は震えており、何かを怖がっているみたいだった。

(つづきは単行本でお楽しみください。)

作品紹介



小説家と夜の境界
著者 山白 朝子
発売日:2023年06月22日

幸福な作家など存在しない――山白朝子による業界密告小説。
私の職業は小説家である。ベストセラーとは無縁だが、一応、生活はできている。そして出版業界に長年関わっていると、様々な小説家に出会う。そして彼らは、奇人変人であることが多く、またトラブルに巻き込まれる者も多い。そして私は幸福な作家というものにも出会ったことがない──。
そんな「私」が告発する、世にも不思議な小説家の世界。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000335/
amazonページはこちら


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