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試し読み

切なさの名手が描く、小説家の奇妙な生態。  山白朝子『小説家と夜の境界』試し読み#1

切なさの名手が描く、小説家の奇妙な生態。
山白朝子『小説家と夜の境界』

人生を踏み外してまでも、創作にのめりこむ小説家たち。これはあなたの愛する作家の"秘密"かもしれない──。『小説家と夜の境界』より「墓場の小説家」特別試し読み!



『墓場の小説家』 試し読み#1




 小説家には変人が多い。
 それはなぜだろう。
 まともな頭の人は、小説を書こうなどとは思わないのかもしれない。それとも、倫理観が欠如しているような人間の方が、奇妙な視点から世界を切り取り、おもしろいものを書けるのだろうか。確かに、当たり前のことばかり書いてあるような小説は魅力に乏しいだろう。常軌を逸した人間の書いた、常軌を逸した小説の方が、楽しめそうである。
 私もまた小説家のはしくれだが、周囲の作家たちを見渡してみれば、奇人変人の集まりだとわかる。私は別だが、作家などという者たちは、どこか人格的に問題があるようだ。上手に社会で生きられず、はみだしてしまった人間の集団なのだ。
 作品の創造とは、美を追求する行為である。常軌を逸した者たちが、美を追求するあまり、破滅へと向かってしまうことはめずらしくない。彼らは、生活、人生、あらゆるものを犠牲にしても作品を創造しようとする。私は、そういう者たちを眺め、観察するのが格別に好きだ。趣味だとさえ言える。私は彼らに憧れているのだ。人生を踏み外してまでも、創作にのめりこむ姿勢に感銘を受ける。
 今回、私の知っている変人小説家の中から、O氏という人物について紹介することにした。

 O氏が小説家として活動した期間は十年と三ヶ月ほどだった。二十代で小説を書きはじめ、新人賞に応募して入選を果たす。彼のデビュー作は学園ミステリと呼ばれるジャンルだった。とある高校を舞台に、高校生たちが殺人事件の謎に挑むという内容だ。
 ミステリのロジックが弱く、そのせいで他の作品に大賞をうばわれてしまったが、審査員特別賞という枠で彼の小説は出版された。ミステリと銘打つには淡白な内容だったかもしれないが、それでもO氏の作品には魅力があった。作中で描かれている十代の少年少女たちの描写が瑞々しく真に迫っていた。彼らは様々な悩みを抱え、葛藤を繰り返しながら、仲間とともに苦難を乗りこえようとする。何よりも、高校という舞台の空気感が文章から薫ってくる。自分の高校時代の景色を思いだし、なつかしさがこみあげた。
 O氏はデビュー作以降も学園ミステリを書きつづけた。シリーズものとして同じ高校が舞台の物語が紡がれた。爆発的に売れたという印象はないが、O氏の小説の空気感が好きだった読者は多い。
 私が彼に初めて対面したのは、とある出版社のパーティでのことだった。年末になると大手出版社のいくつかは、ホテルの宴会場に作家や編集者を集めて歓談の場を設ける。豪勢な料理が並ぶ立食式のパーティだ。宴会場の隅で私がアルコールを飲んでいると、知り合いの編集者が、二十代半ばくらいの若者を連れてきて紹介してくれた。それがO氏だった。
 O氏は瘦せ型で、身長が高かった。肌は白く、不健康そうに頰がこけている。薬指に指輪をはめており既婚者なのだとわかった。しかし特別に目をひいたのは、彼の左腕が白色の三角巾によって吊られていることだった。
「こんな状態ですみません」
 と彼は言った。
 左腕を骨折して、ギプスで固定している状態なのだと説明を受けた。
「執筆に支障があるんじゃないですか?」
「意外と大丈夫ですよ。もう慣れました」
 私たちは宴会場の隅で立ち話をすることになった。お互いの著作を読んでいたので、特に緊張することなく対話できた。片腕の使えない彼のために編集者が料理を運んできてくれる。
 いくつかの話題を経て、執筆中の作品の内容について質問してみた。O氏は例の学園ミステリシリーズの最新作を書いている最中だという。彼は照れ笑いするように、ギプスのはまった左腕へと視線をむけた。
「実はこの腕、自分で折ったんです」
 私はアルコールの入ったグラスに口をつける。彼の言葉を頭の中で反芻した。
 自分で折った?
 私は怪訝な表情をしていたことだろう。
「次の小説では、主人公が車に轢かれて、骨折するんですよ。左腕にギプスをはめて生活しなくちゃならなくなるっていう展開なんです。僕は、お恥ずかしいことにこれまで骨折などしたことがなくて。大きな怪我のないまま大人になってしまったんです。だから、骨折した主人公の痛みを上手に書ける自信がなかったんです」
 心地よいアルコールの酔いで、宴会場のきらびやかな照明が宝石のように輝いていた。作家や編集者の集団がそこら中で笑い合っており、私にはなぜかそれらが百鬼夜行のように見えてくる。
 O氏の話は大変に興味深かった。私の好物と言えた。
「なるほど、なるほど。それでは、小説のために、自分でその腕を折ったというわけですね?」
 できるだけ表情を変えずに話をする。おどろいたり、顔をしかめたりすると、この対話が中断されるのではないかと危惧したからだ。
「そうなんです。痛かったなあ。でも、おかげで小説を書くとき、描写がはかどってます。妻にも感謝ですよ」
「奥さんに? どうしてです?」
「腕を折るとき、妻に手伝ってもらったんです。妻は嫌がってましたけどね、小説のためだからと言って、説得するのが大変でした」
 O氏の説明によれば、自宅の車庫で彼は寝そべり、車のタイヤの前に左腕を置いたという。彼の奥さんが運転席に乗り込み、エンジンをかけてすこしずつ前進させた。O氏の腕の上にタイヤが乗り、すさまじい重みで腕の骨が軋んだという。
 ごり、ぽき、ぐしゃ……。
 骨が折れ、筋肉がひしゃげ、O氏はすさまじい痛みに襲われて叫び声をあげたそうだ。
「でも、僕は同時に、うれしくて仕方なかったんです。これで小説が書ける、良い描写が生まれる、という確信があった。僕の痛みは、主人公の感じた痛みなんですから」
 O氏は右手にシャンパングラスを持っており、それを顔の前にかかげた。薄い黄金色をした液体に、細かな泡が浮かんで弾けている。話をするO氏の目には歓喜とさえ呼べる輝きがあった。自分の肉体を損傷させて創作物の糧とする。その行為は一般的な尺度から見れば行き過ぎたものだろう。しかし、これから紡がれる小説のことを思えば、その行為も許される気がしてくる。肉体はいつか滅びるが、魂から生み出された創作物は永久にのこるのだから。




 パーティでの邂逅をきっかけに、O氏との交流がはじまった。知り合いの作家や編集者が飲み会を開くとき、彼を誘って参加することもあった。O氏は飲み会でほとんどしゃべらず、聞き役に徹し、どこにでもいる物静かで温厚な青年といった印象を崩さなかった。
 交流を重ねて判明したのは、O氏が小説家という職業に対し、神聖さを抱いているというものだ。物語を紡ぐというのは才能のある一握りの人間にだけ許された行為だ、と彼は信じていた。
 彼がその時期に書いていたものは純文学ではなく、エンターテインメント寄りの学園ミステリだったが、ジャンルなど無関係に彼は小説を芸術とみなしていた。だからこそ、執筆することへのプレッシャーを感じていたらしい。自分のような凡人が小説を書くなどという芸術的行動ができるわけがない、という自意識と戦わなければならなかったという。
「書きはじめるときが、一番、怖いんです。小説の冒頭部分の執筆という意味ではないですよ。パソコンを起動させて、小説の文章を入力し始める瞬間の話をしてるんです。昨日の続きを書こうとしてパソコンと向き合うのですが、その状態で動けなくなるんです。最初の一文字をキータイプするまでが長いんです。緊張で手が震えてくるんですよ。何行か無理矢理に書いていれば、昨日と同じようにすらすら書けるようになるって、頭ではわかっているんですけどね」
 いかにして意識を執筆モードに切り替えるか?
 それは作家仲間の間で常に論じられているテーマである。
 上手に現実を切り離し、精神を作品世界へと沈み込ませるという行為を、日常的にできる作家は強い。例えば人気作家の中には、テレビのチャンネルを切り替えるかのごとく、パソコンの前に座れば執筆モードへと精神状態を切り替えることができて、すぐさま書きはじめられるという者もいる。うらやましくて仕方がないが、それができるのは一部の作家だけだ。
 ほとんどの作家は、独自に研究を重ね、精神を執筆モードへと移行するための自分なりの方法を模索する。例えば私の場合は、ドリップ珈琲をいれることがある種の儀式になっている。
 熱湯を珈琲豆に注ぐと、目の前に湯気がたちのぼる。肌が熱を、鼻腔は香りを感じる。五感から得られた刺激により、連続していた日常の時間に途切れ目ができて、空白の精神状態が生まれる。日常性を断ち切ることで、執筆モードへと頭の中をうながしているのだ。もちろん、珈琲をいれたからと言って、いつも書けるわけではないのだが……。
 O氏の場合、新人賞に投稿している時期から、執筆へのプレッシャーがひどかったそうだ。そのため、デビュー以前からこの分野への研究に余念がなかったという。
「ある作家は、執筆するとき、蚊取り線香をそばに置いておくらしいですよ。蚊取り線香の匂いが郷愁を誘って、イメージが膨らむそうなんです。夏が舞台の小説を書くとき、僕も真似をしてみましたが、なかなか良かったですよ。少年時代の夏休みの記憶が蘇って、スムーズに作品世界へ没入することができたんです。この手法を自分なりに発展させました」
「発展? どのように?」
「これってつまり、日常と作品世界の境界を曖昧にして、執筆モードに頭を切り替えやすくする試みだと思うんです。そこで僕は、執筆する内容と、執筆時の自分の状況が、あらかじめ、できるだけ重なるように工夫してみたんです」
 彼が自らの意思で腕を折ったのは、小説の主人公と自分を重ねるためだったのだ。私はO氏に質問を繰り返し、これまで骨折以外にどんな工夫をしてきたのかと聞いてみる。
「例えば死体発見の場面を書くときは、部屋に血のりをまきましたね。凄惨な現場にいるのだ、と自分に思い込ませて執筆をしました」
「後で掃除が大変だったんじゃないですか?」
「妻に面倒をかけましたよ。でも、小説のためですから、仕方ありません」
「執筆はうまくいったんですか?」
「それが、血のりの臭いって、本物の血の臭いとは違うわけで……。イメージを補完するために、自分の腕をカッターで切って、血をティッシュにしみこませて、その臭いを嗅ぎながら小説を書きました」
 O氏は照れるように腕を見せてくれた。皮膚に何本も白い傷痕がのこっていた。死体発見の場面を書く度に傷つけていたのだろう。私はそれを見てうれしくなった。O氏がこちらの想像を超えて頭のネジがぶっ飛んでいたからだ。
「高校生たちの描写が瑞々しいですよね。決して想像だけでは書けないリアルな空気感がある。あれはどうやって書いてるんですか?」
「引っ越しをしたんです」
「引っ越し?」
「学園ミステリを書くぞ、と決意した日、妻に相談して、高校のすぐ裏手にある中古の一軒家を契約したんです。まだ作家デビューする前だったのですが、両親の遺産があったので、何とか買うことができました。家の敷地のすぐ裏に高校の校舎があるんですよ。耳をすませば、高校生たちが音楽の授業で合唱している声まで聞こえてくるんです。あれはいいものですよ」
 O氏は普段、自宅二階の部屋で執筆を行っているという。その部屋の窓からは、高校校舎がよく見えた。執筆を開始する前、彼は窓のそばに屈み込んで、カーテンの隙間から双眼鏡で校舎の窓を覗くのだという。廊下を行き交う高校生や教師の姿が垣間見えて、小説世界のイメージが膨らみ、執筆の手助けになるそうだ。
「自宅の裏庭の敷地と、高校の敷地の境界には、ブロック塀と金網があるんです。執筆に行き詰まると、僕はそのブロック塀のそばに行って、高校生や教師たちに見つからないように、地面に横たわるんです」
「横たわる?」
「説明がちょっと難しいんですけど。ブロック塀にひび割れがあって、地面すれすれの位置に反対側まで貫通している隙間があるんです。そこに顔を持ってくれば、高校の敷地を覗けることに気づいたんです。ひび割れに顔をくっつけると、校舎のそばで語り合う生徒たちや、部活で運動している生徒たちが、間近で見られるんです。会話の内容や息遣いが聞き取れるほどの距離なんです」
 O氏は執筆のため、日常のすぐ裏側に、小説内世界と似た空間を用意したわけである。境界のひび割れから覗くという行為が、日常から小説内世界へ精神状態の移行をうながすのだろう。高校生たちの生活空間は、彼にインスピレーションを与え、作品世界を豊かにする助けになったはずである。
 さらにO氏は教えてくれた。
「他にやった工夫といえば、夜中に高校に忍び込んだことくらいでしょうか」
「そうですか。小説の執筆のためなら、仕方ないですかね」
 執筆という崇高な目的のためには、まあ、許されるだろう。私はそう自分に言い聞かせる。
「日暮れ頃、双眼鏡で校舎を観察していたら、一階の窓が一ヶ所、開きっぱなしになっていたんです。閉め忘れでしょう。夜中にも確認したら、まだ開いているではないですか。僕は、創作の神によって誘われているのだと思いました」
 その晩、O氏は自宅を出て、暗闇に身をひそませながら、高校の敷地へ侵入した。ブロック塀と金網を乗り越え、彼はいつも眺めていた場所へと降り立ったのだ。自分の小説の世界に入り込んだも同然だった。執筆する際、いつも参考にしていた場所なのだから。
 校舎の外壁に手を添えて、その感触をひとしきり味わい、彼は開いている窓から校舎内に入った。
「その高校は夜中になると警備員がいるんです。でも、見回りをする時間や、そのルートは、すべて頭の中に入っていました。夜中に校舎で殺人事件が起きるという内容の小説を書いたとき、夜通しその校舎を観察しましたからね」
 廊下の匂いを嗅ぎながら、彼は校舎内を歩いた。
 小説の登場人物たちが、いつも歩いていた場所だった。
 教室に入り、並んでいる机を見た。窓から差し込むかすかな月明かりが、一つ一つの天板を淡く光らせていた。彼はそこに手をのせ、指の腹で撫でた。
 小説の登場人物が、いつも日常を送っていた場所だ。仲間とともに笑ったり、悩んだりしながら、学園で起こった事件の謎解きをする場所に彼はいた。
 自分が小説に書いていた世界が、そこにあった。
「すべてが美しかった。床に落ちていた、だれのかわからないヘアピン。黒板を雑に消したせいで、うすくのこっている数式。胸が締め付けられるような、切ない感情に襲われて、恥ずかしいことに僕は泣いてしまったんです。強烈な体験でした。あまりにも素晴らしかったので、当直の警備員に見つからないように職員室を訪ねて、校舎の裏口の鍵を拝借することにしたんです」
「……どうしてです?」
「合鍵を作るためですよ。自宅に粘土がありましたから、その鍵の型をとって、その晩のうちに戻しておきました。僕はそれから数日間かけてブランクキーをやすりで削り、合鍵を自作することに成功したんです。夜中にいつでも好きなときに校舎へ入れるようになったら、執筆はさらにはかどるようになりました」
 O氏は、ノートパソコンを携えて、夜な夜な高校へ忍び込んだという。教室の場面を書くときは教室で、階段の踊り場の場面を書くときは階段の踊り場で、音楽室の場面を書くときは音楽室で執筆をしていたそうだ。警備員の来る時間が近づけば暗闇の中で息をひそませてやりすごし、夜が明ける前には自宅へ戻ったという。悪いことをしているという意識は彼になかった。すべては小説のためである。
 彼は、自分を取り巻く環境に、小説内世界を構築することで、書くことのできる作家なのだ。不器用だが、生み出される作品には真実が宿っていた。彼が平凡な倫理観しか持ち得なかったら、あれほどの空気感を醸し出す小説は生まれなかっただろう。

(試し読み#2につづく)

作品紹介



小説家と夜の境界
著者 山白 朝子
発売日:2023年06月22日

幸福な作家など存在しない――山白朝子による業界密告小説。
私の職業は小説家である。ベストセラーとは無縁だが、一応、生活はできている。そして出版業界に長年関わっていると、様々な小説家に出会う。そして彼らは、奇人変人であることが多く、またトラブルに巻き込まれる者も多い。そして私は幸福な作家というものにも出会ったことがない──。
そんな「私」が告発する、世にも不思議な小説家の世界。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000335/
amazonページはこちら


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