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試し読み

営業部員はなぜ死んだのか? 産業医探偵が企業の闇に迫る『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』試し読み#3

産業医として電機設備製造大手と契約している渋谷雅治は、営業部社員が自殺したことを受け再発防止のために実態調査を頼まれる。実はその死の裏には、会社がひた隠しにする重大な秘密があった――。

「特命指揮官 郷間彩香」「ハクタカ」などのドラマ原作が人気の「このミス」大賞受賞作家、梶永正史さんの最新作『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』は、産業医が探偵として活躍する新感覚のミステリ×企業小説です。これまで警察小説を数多く執筆されてきた梶永さんの新境地にして会心作。冒頭部分を公開いたします!

『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』試し読み #3

 ──先生はひと殺しです。
 渋谷は口を開く。しかし言葉が出ない。謝罪も弁明もできず、『ひと殺し』という言葉が何度もなんども襲う。両手で耳をふさいでもその突き刺さるような声を遮ることはできず、とうがいに飛び込んでは反響した。
 ついに崩れ落ちた体は、しかし硬い地面にたたきつけられることなく、永遠に落下していく。
 突然周囲が光に満たされ、閉じたまぶたを通しても、光が眼底に突き刺さった。
 渋谷は蛍光灯に目をしばたたかせながら、上半身を起こした。その汗ばんだ背中を、ソファーチェアのリクライニングが遅れて追従する。
「すいません、ノックはしたんですけど」
 友紀が探るような顔で渋谷を覗き込んだ。
「あ、いえ。こちらこそすいませんでした」
 トイレで吐いたあと、壁伝いに出てきた渋谷を友紀が待っていて、状況は伝えるから自室で休んでいるように言われたのだ。
 戻ってきたときにはまだ明るかった空はすっかり暗くなっていて、窓ガラスにはほつれ髪だらけの落ち武者のような自分の姿が映っていた。
「気分はどうですか? それとこれ」
 友紀は薄水色のはんそでのシャツを差し出してきた。左胸に社名、両肩には社章がしゆうしてあった。
 見れば自分のシャツは胸のあたりに大きな染みがあった。さっき吐いた時に汚してしまったのだろう。
「上にジャケットを羽織れば社名とか見えないんで」
「ありがとう」
 渋谷は着ているシャツを脱ぐとデスクの下に投げ捨てた。
「レディーの前で脱ぎますかね、普通」
 友紀のこういった性格には助けられる。
 シャツを着替え、髪を整えると気分はかなり回復した。
「だいぶ楽になりましたよ、ありがとう」
「先生から短時間に二回も礼を言われた。レアだ。きっと雪が降る」
 友紀がおおに言い、渋谷は笑みを浮かべてチェアに座り直した。デスクを挟んで友紀も腰をおろす。
「それで今後は?」
明日あした、社長が出張先から戻られるので、朝一番で臨時役員会が開かれることになっています。葬儀等はご自宅マンション近くの斎場で執り行われるそうで、営業部社員を中心に受付等の手伝いをすることになっています」
「そうですか……。それで長田さんは、なにか悩まれていたことはあったのでしょうか」
「まだわかっていません。営業部長の話でも、特に長時間残業が続いていたわけでもないということでしたし」
 友紀が視線を下げた。耳にかけていたつやがかった黒髪がはらりと落ちて頰を隠す。
「それで、明日の役員会で先生からお話をいただきたいと」
「というと?」
「労災……についてだそうです」
「その疑いがあるんですか?」
「いえいえ。そういうわけではないのですが、もしご遺族が労災の申請をされた場合、会社としてどういったことに備えればいいのかと」
「その場合は労基署による監査が入ると思いますが、手続き等については弁護士さんのほうが詳しいと思いますよ」
「ええ、でも、もし長田さんが精神的な負担を感じてしまうようなことが社内で起こっていて、それが原因になったとしたら……助言が欲しいと」
「つまり、長田さんは会社からなにかしらの圧力をかけられていたということですか」
「いえ、ほんとにまだなにもわからないんです。ただ、どんなことが精神的な負担になり得るのかを知らないと、社内調査でも見逃しがでるかもしれませんし」
「たしかにそうですね。わかりました」
 友紀は、よろしくお願いします、と言ってからドアに向ったが、そこで申し訳なさそうに聞いてきた。
「先生、なにかあったんですか?」
 役員室から飛び出し、トイレでおうしたことを聞いている。
「いえ、どうか心配しないでください。驚かせてすいませんでした。正直、自分でも驚きましたけど」
「本当に大丈夫なんですか」
「ええ、そりゃあ、もう」
 渋谷はボディビルダーのようなジェスチャーをしてみせて、心配顔の友紀から苦笑ながらも笑みを引き出した。
「わかりました。でも、ほんとになにかあったら言ってくださいね。相談に乗りますから」
「え、筒塩さんが? 僕の?」
「なんですかその目は。私だと不満でも?」
「いえいえ。その時はお願いします」
 渋谷は表情をなごませながら友紀の後ろ姿を見送った。

    2

 役員会議室の隣の控室に、渋谷と友紀はいた。重厚な造りの扉は、話を外に漏らさないことを誇示するかのようで、人の気配すら感じさせなかった。
 ただ、今朝早く帰京した社長が参加していることから、その緊張感だけは冷気のようにい出してきていた。
 二十分ほど待っただろうか。ドアが開き、鍋倉が手招きをした。
 居並ぶ役員たちのほとんどに面識はなかったが、正面に険しい顔で座っているのが社長のはまもとだ。古希を迎える来春の株主総会で退任を発表する予定になっていると聞いていたが、きやしやな体つきであっても野武士のような険しさを持つひとだった。
 そのほかに鍋倉を含んで十二名の役員がテーブルを挟むようにして座っている。ただ、渋谷たちに割り振られた椅子はなかったので、ドアを開けて入ったところに友紀と並んで立った。
「先生、体調はどうですか」
 鍋倉が、渋谷に声をかけてきた。
「昨日は大変失礼いたしました。もう大丈夫です」
 そうですか、と鍋倉は微笑むと、こんどは友紀に視線を移した。
「葬儀のほうはどうなっていますか」
「警察の調査の結果、事件性はないということでご遺体はすでにご遺族のもとに戻られています。今夜六時からかしわ市内の斎場で通夜となっております。営業部員を中心に受付等の手伝いをすることになっており、数名が今朝から直行しています」
 浜本が斜め後ろに上半身をねじり、控えていた秘書を呼び寄せた。なにやら言葉を交したあとに、友紀に向き直った。
「場所はどこだったかね」
「はい、千葉県柏市にある、長田さんのご自宅近くの『メモリアル華』という斎場です」
 秘書が浜本に耳打ちをしながらタブレット端末を操作して見せた。
「そうか。残念だが今日はどうしても外せない用件が入っている。鍋倉さん、代理として行ってもらえませんか」
「はい、もとより参列するつもりでおりました」
 すまんな、と声をかけ、鍋倉に先を促した。
「それで先生、朝早くから来ていただいたのは、専門家の意見をお聞きしたかったからです」
「労災の件についてだと、伺っておりますが」
「ええ、これまで生産工場で怪我人を出したことはありましたが、在職者の自殺となると記憶にありません。怪我なら原因は目で見てわかるが、精神的なことに起因する労災というのはどんなことなのかと、ご教授いただきたいのです」
 鍋倉がうなずくのを見て、渋谷は話し始めた。
「一般的に労災かどうかの判断は、労働者災害補償保険法に照らし合わせることになりますが、おっしゃる通り、心身的な障害は、事故などと比べて判断が難しいといえます。ただ、しかるべき基準がありまして、労基署によってこれが審査され、その程度によって補償の範囲が決まります──」
「その調査はいつはじまるんですか?」
 鍋倉の向いに座っていたそうしんのゴマ塩頭の男が渋谷を遮った。押しの強い声だった。
 飯塚副社長は、どこか近寄りがたいオーラの持ち主でこれまで直接話したことはない。
「労基署に対し、被害を受けた本人またはご遺族からの申請を受理した後に調査がはじまります」
「ということは、長田さんの遺族が申し立てをしなければ調査はないんですね?」
 その言い方に、渋谷は嫌な気分になった。ひとひとりが亡くなったのに、やっかいごとから逃れようとしているように感じられたからだ。
「基本的には、その通りです」
「基本的とは? 具体的にお願いします」
 またことじりかぶせてきた。
「たとえば内部告発やタレコミなどです。同僚や取引先などからの情報により、調査に動くこともあります」
 飯塚〝ゴマ塩〟副社長は渋谷をにらんだが、視線をらさない渋谷に苦虫を何匹かかみつぶしたような顔になった。
 他の役員が言った。
「しかし、自殺したのは、結局は自分の意思だろう?」
 会社がとやかくいわれる筋合いはないとでも言いたげな態度に渋谷は腹がたった。
 実際、労災によって自殺者を出した企業の中には、イメージダウンを恐れて証拠隠滅に走るケースもある。
「まず明らかにしなければならないのは精神障害の発病の有無です。もし発病がなかった場合、それは〝覚悟の自殺〟となり、業務上とはなりません。精神障害を発症しており、それが外因性、つまり業務上のものであった場合、それを立証する必要があります」
「どうやって立証するんだ?」
「まずは通院歴があったかどうかです。他にも上司や同僚、取引先、そしてご遺族からお話を聞くことになります」
 ふたたび飯塚が割り込む。
「話を聞く? つまりは調査する者の主観によるということですか?」
「いえ、ICD─10という診断ガイドラインがあり、それを満たす事実があったのかを確認します」
 ガイドラインには、『抑うつ気分・興味と喜びの喪失・易疲労感』と『集中力と注意力の減退・自己評価と自信の低下・罪責感と無価値感・将来に対する希望のない悲観的見方・自傷あるいは自殺の観念や行為・睡眠障害・食欲不振』のふたつのグループがあり、それぞれで二項目に当てはまれば軽度のうつ病とされ、前者のうち二つと、後者のうち三ないし四つが当てはまれば中等うつ病と判定される。
「しかしだね、いまは存在しないひとのことを聞き回って判断するということは、そこに先入観や勘違いが入り込む余地があるんじゃないのか?」
「調査を行う審査官もそのあたりは心得ています。誘導尋問等にはなりませんし、あくまでも総合的に判定を行います。また精神科等への通院歴があれば精神科医も協力します」
 渋谷はふと思った。ひょっとして精神科医の判断が必要になることがわかっていて、それならば半分身内のような自分に協力させようとしているのではないか。
 初期の精神病はサイレントキラーとも言われる。周りのひとはともかく、本人ですらそれに気づけていないケースがあるからだ。
 人生が好転するなどして自然治癒することもあるが、そういうひとは『あの頃は心配性だったのかな』とか『いやぁつらかったけどなんとかなるもんだな』のように語ることがある。しかし巡り合わせによっては重篤化していた可能性もあるのだ。
 それに対して、辛いという感情を認識しながらも無理をして放置した結果、社会復帰が難しくなるケースや、その辛さから逃れるために衝動的に自ら命を絶つひともいる。
 早く相談してくれていればと思うこともあるが、世間体を気にし、精神科や心療内科を受診することに抵抗感を持つひとはいまだに多い。
「では先生、われわれとしてはどのような準備をしておけばいいんですか」
「準備というのは、なにに対してのでしょうか」
 やはり、会社は労災と認定されないように予防線を張ろうとしているのかもしれない。
 渋谷は思わず身構えた。そして、やや強い口調になってしまうのを止められなかった。
「なにもされなくて結構です。労基署の調査員から求められるものを都度ご用意ください。ちなみに労基署は業務停止、悪質な場合は逮捕する強い権限を持っています。資料の提出やヒアリングは強制だと思ってください」
 鍋倉が苦笑を浮かべながら渋谷をなだめた。
「まあまあ、話はもうひとつあるんです。なにも我々は今回のような痛ましい事故から逃げるために先生をお呼びしたわけではありません。こういったことを繰り返さないために再発防止会議の設置を提案しました。先生にはその調査をお願いすることで、決議がとれたところなのです」
 鍋倉は立ち上がると、渋谷に向って歩きながら、この場にいる者に対して、やや芝居がかったように大きなジェスチャーをしてみせた。
「事故の原因が目に見えるものであればわかりやすいが、精神的なことになると、なにがどう影響するのかわからないこともある。私がたいしたことがないと思っていたことも当人にとっては一大事かもしれないし、さいな言葉がナイフのように人を傷つけることもあるかもしれない。そこで専門家としての目がほしいのです」
 最後は両手で渋谷を差し示した。
「私に、ですか?」
「このお願いが産業医としての職責から逸脱していることはわかっていますが、先生はもともと精神科医をされていた。その見地を貸していただきたいのです。待遇についても見直しをします。社員たちはだれであっても大切な財産です。私は目に見えない危険から彼らの将来を守りたいんですよ」
 やや大げさなところはあったが、言いたいことは伝わった。そうであれば協力したいとも思う。
「それで、私はなにをすればよろしいのでしょうか」
「長田君の場合、いまのところ著しい残業や上司からの圧力もなかったと聞いています。ならばなにが原因だったのか。それはまだ人知れず社内に存在しているのか、いや仮に完全にプライベートの問題だったとしても、会社としてサポートできることはなかったのか。先生の目で見てご意見をおっしゃってほしいのです──筒塩君」
「は、はいっ」
 斜め後ろにいた友紀が一歩前に出る。
「君には先生が社内を巡回するのをサポートしてほしい。少なくとも向こう一カ月は、全社員に対し、先生からヒアリングを求められた際は特別な理由がない限り協力するように通達を出しておく」
「かしこまりました。あの……対象は全社員ですか?」
「ああ。必要に応じて、どの部署をいつ訪ねて行ってもいい」
 なにが精神的な負担になり得るのか、その芽を摘めと言っているのだ。企業姿勢としては素晴らしい試みだと思った。
 しかし、と渋谷は気づく。温度差だ。
 鍋倉は熱く語っているが、その熱はこの場にいる者全員に行き届いているわけではなさそうだった。終始冷めた印象を受ける者がいる。
 特に飯塚だ。
 この会議を改めてかんしてみると、強い発言力を持っているのは鍋倉と飯塚の二人で、それぞれに同調する者がいる。
 上から見た様子を図にすると、ちょうど天気図のようになるのだろう。会議テーブルの真ん中あたりが、寒気団と暖気団がぶつかる前線だ。
 もし鍋倉と飯塚が対立しているのなら、飯塚のグループが渋谷に対して冷たく接するのも理解できる。たとえ、それが正しいことであったとしてもだ。
 それでは、と渋谷は前置きをした。
「さっそく調査に入らせていただきます。長田さんの身になにが起こったのかを突き止めますので、どうぞご協力お願いします」
 退室する際、飯塚をちらりと見やったが、警戒するような、すくなくとも友好的な要素が皆無の目でにらんでいた。

(続く)

作品紹介



産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート
著者 梶永 正史
定価: 792円(本体720円+税)

史上初!? 産業医の名探偵。人の先に、会社も診る!
産業医として電機設備製造大手と契約していた渋谷雅治は、営業部社員が自殺したことを受け再発防止のために実態調査を頼まれる。関係部署を回り、その社員について情報を集めていく渋谷。すると当初感じていた自殺者の人物像が変わっていき、原因がわからなかったその死が、ひとつの真実を導き出していく。やがて背後にリコールすべき重大案件が隠されていることがわかり……。彼はなぜ死んだのか? 産業医探偵が謎に迫る!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000171/
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