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試し読み

「特命指揮官 郷間彩香」「ハクタカ」ドラマ原作が人気の著者最新作『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』試し読み #2

産業医として電機設備製造大手と契約している渋谷雅治は、営業部社員が自殺したことを受け再発防止のために実態調査を頼まれる。実はその死の裏には、会社がひた隠しにする重大な秘密があった――。

「特命指揮官 郷間彩香」「ハクタカ」などのドラマ原作が人気の「このミス」大賞受賞作家、梶永正史さんの最新作『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』は、産業医が探偵として活躍する新感覚のミステリ×企業小説です。これまで警察小説を数多く執筆されてきた梶永さんの新境地にして会心作。冒頭部分を公開いたします!

『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』試し読み #2

 そしてドアノブに手を掛けようとしたところにノックが鳴り、遠慮がちにドアが開いてつつしおが顔を覗かせた。くりっとした奥二重の丸目を向けて様子をうかがっている。紫外線が降り注ぐ真夏でも日焼けすることのない色白の肌は、北海道出身だからかもしれない。
「先生、お取り込み中、すいません。そろそろお時間ですけど」
 渋谷は小手をひねって腕時計に目をやった。
「はい、すぐ行きます。では志村さん、またなにかありましたらお気軽にお越しください。彼と一緒でも構いませんので」
 話は終わったのか、と安心したような友紀は、ドアを大きく開いて退出する志村に道をつくった。
 ふたたびドアが閉ると、軽く曲げた人差し指を薄い唇に当てて、友紀がクスクスと笑った。
「先生、ボランティアお疲れ様です」
 渋谷は産業医としての報酬は得ているが、そこにカウンセリングの対価は入っていない。
「困ったひとを見過ごせないというか、まぁ、基本的に好きなんでしょうね。精神科医になる前から聞き上手って言われていましたから」
「そういうひといますよね。他人ひとの相談ばかりきいて自分は幸薄い人──おっと」
「ちょっと、『おっと』ってなんですか」
 渋谷は愉快そうに笑った。
 いつものやりとりだ。
 友紀は総務部内に設置されているEHS(環境・安全衛生)と呼ばれるチームの一員であり、産業医である渋谷の実質的なカウンターパートとなっている。いや、面倒見役といったほうがいいだろうか。
 渋谷とは十歳以上の年齢差があったが、気遣いという壁をつくるようなことをせずに接してくれているのが心地かった。
 おそらく彼女にとっても渋谷は、〝委託契約を結んでいるざま〟というよりも、小さい頃から接してきたしんせきさんくらいのポジションかもしれない。
 実際、創業から百年近い歴史を持ち、所々に大理石があしらわれた八階建ての社屋が醸すやや堅苦しい雰囲気のなか、治外法権的なこの部屋に用事もないのに訪ねてくることがよくある。
 学校の保健室ではない、と言ったこともあったが、懲りるという機能は持ち合わせていないようだ。
てんしんらんまん』と『自分勝手』は紙一重で、それは他者の認識に左右されるが、友紀の場合は、いまのところ前者だ。
「そういえば、例の彼氏はどうなったんです」
 友紀は小首を傾げ斜めに天井を見上げながら、つい先日のことなのに、そんなこともあったっけ、という顔をした。それから大げさに手を左右に振る。
「ああ、もう、ないない。ないです。若気の至りってやつですよ」
 交際していた人物に関して悩んでいることを知り、先日、相談に乗ったことがあった。どうやら振り切れたようだ。
 渋谷はノートパソコンの上にシステム手帳を重ね、立ち上がった。
「若気の至りは二十代前半までに終わらせておいてください。じゃ、いきましょうか」
 ちょっとぉ、セクハラ! と笑う友紀と並んで廊下を進む。
「今日の会議は、『いえやす』です」
 この会社の会議室には様々な名前がつけられているが、家康は『歴史上の人物』シリーズの中では一番大きな部屋だ。ひとつ下の階、三階の角にある。
 衛生委員会では、毎月、各部署の担当者が集まり、就業環境や残業時間、懸念事項などに関する報告をしあうことになっている。
 また、産業医として渋谷は定期的に社内巡回をしており、事故などを未然に防ぐための進言をするとともに、毎回トピックを選んで講話の時間を設けている。
「昨日いただいたプレゼン資料に変更などありませんか」
 今回は季節的に熱中症の症状とその防止、紫外線による健康被害について三十分ほど話す予定にしていた。参加者はそれぞれの部署に持ち帰り、展開することになる。
「だいじょうブイです」
 Vサインを友紀に向けた。
「なんか、渋谷先生って、いちいち古いですよね」
「あじゃパー」
「そういうのですよ、もう死語ですよ」
「言葉は歴史です、歴史は死にません」
「そうやってすぐくつをこねる。先生って、友達なんかから、偏屈で付き合いづらいとか言われません?」
「いえ、はじめて言われましたよ」
 前から歩いてきた社員の会釈に会釈を返し、階段を下りる。
「ほんと、なんか、ちょいワルオヤジっていうか。アラフォーのくせにロン毛だし、しかもなんですか今日のアロハシャツ。ふつうの会社では絶対にお勤めできないでしょ」
「アロハじゃありません。これはバティックシャツ。インドネシア伝統の柄です」
「バリ島にでも行ったんですか」
「ううん、うえ。アメ横ね。家から近いので」
 友紀は渋谷に聞かせるようにため息をついてみせた。
「ときどきハラハラするんです。会議には重役が参加することもあるじゃないですか。そんなときに派手なシャツを着ている渋谷先生を苦々しい目で見ている人がいるのに気づいています?」
「これってインドネシアでの正装で、政治家もこれ着ているんですよ。なにしろ通気性がいい。高温多湿の日本においてネクタイを締めるなんてのは愚の骨頂」
「こらこら。ほとんどの社員を愚の骨頂扱いしないでください」
「でもね、創業から一世紀を迎えようとしている節目で、古い文化を現代に合わせて変えていくんだというなべくら専務の熱い思いに打たれたからこそ、ここで力になろうと思ったわけですから」
 ここに常駐することになった経緯をなんどか聞かされている友紀は、はいはい、と言って『家康』のノブに手をかけた。


 衛生委員会には、各部署から選出された委員が二十名ほど集まる。一般社員から部長クラスまでさまざまなメンバーで構成されているが、役員クラスで参加しているのは鍋倉だけだ。
 十年ほど前にこの会社を襲った身売りの危機を、当時、営業部長だった鍋倉が大型受注を決めて乗り切り、社長の信頼を得たという。
 かつては厳しく部下と接し、鼓舞することで営業部を率いてきたと聞いており、いまでも歴戦の勇者を思わせるような光の揺らめきを、黒縁眼鏡の奥に見ることがある。
 役員となったいまは、信楽しがらきやきのたぬきのようなふうぼうもあって気難しさは感じないが、現場の空気を感じられなければ改革はできないと、こうして会議に参加してくれる。
 渋谷がMEIと契約するときに会社側の代表として面談をしたのが鍋倉だった。
 ──あなたと契約することのメリットはなんですか。
 鍋倉は開口一番にそう言ったが、その時の目は、まさに鋭利な刃物のようだった。
 ──社員のためになにをしてくれるのですか。
 続けてそう聞かれ、『先手を打つ産業医』であることを求められた。
 なにかが起こってから対処するのではなく、なにも起こらない体制をつくる。そのためなら古い企業文化はふつしよくして構わない。
 鍋倉は口角泡を飛ばす勢いで理想を語った。
 実は、そのときの渋谷は、産業医という職業に対して多くを求めていなかった。
 精神科医という仕事の目標を見失っていて、大学の恩師に紹介されただけだった。
 特にMEIのような歴史のある会社は変化を嫌う傾向があり、産業医を置くのは法律で決まっているから、というところもある。どうせ、会社の枠組みの中で提案できることだけだろうと渋谷は思っていた。
 それだけに鍋倉の熱意はうれしかった。
 社員たちから寄せられる悩みごと相談にも、精神科医としての経験を生かすことについて背中を押してくれたのも鍋倉だった。
 ──先生は、社員にとっての『転ばぬ先のつえ』になってください、と。
 衛生委員会は定刻にはじまり、友紀の司会により進行した。
「おいおい、残業時間が延びてきているんじゃないか。特に物流管理部」
 正面のスクリーンに映し出されたデータをボールペンで指差しながら鍋倉が言った。
「全体的に長時間勤務の傾向があるし、八十時間を超えた者が二名もいるじゃないか」
 鍋倉は担当部長に理由を問いただし、責められている方も残業が悪であることを認識しているからこそ恐縮している。
 最近までサービス残業上等の文化が根強く残っていた会社だったことを考えると、かなりの意識改善ではあった。
「え、えっとですね、今月は運送会社の契約切り替えがありまして、送り状の作成システムの変更がはいった関係で──」
 担当部長が細い体をくねりながら渋谷に助けを求めるような視線を向けた。
 月の残業時間が八十時間を超えると産業医との面談が必要になり、その責任者からもヒアリングをすることになっている。この部長からもすでに話を聞いていた。
「私のほうからご報告申し上げます。いまご説明があった通り、今月は突発的な事情により残業が発生しておりました。八十時間を超えた二名とも面談をいたしましたが、残業を生じさせていた業務内容は継続を要するものではなく、今月限りであることから、今後は平常値に戻ることが期待されます。また健康状態についても問題はなく、夏季休暇もしっかり取得する予定であることを確認いたしました。むしろモチベーションは高いように見受けられました」
「そうですか、わかりました。それでは引き続きケアのほうをよろしくお願いします」
 次いで、各部署毎の有給休暇消化率、オフィス巡視報告と続いた。
 特に問題はなく、危険を生じさせるような、懸念や兆候は見あたらなかった。
 あえて言えば、社員が共用している冷蔵庫の運用ルールに関して注意喚起があったことくらいだろう。
 食料品や飲料を冷蔵庫に入れるときは氏名と日付をマジックペンで書きこむことになっている。取り違えや食中毒を防止するための措置で、友紀らEHSのメンバーは毎日チェックし、二日以上経過しているものについては廃棄するのだが、記入されていないケースが散見されているということだった。
 これについてはパトロール回数を増やし〝記入がないものは発見次第、廃棄します〟と息巻いた友紀の宣言で解決した。
 最後に渋谷の講話の時間になった。
「熱中症は決して侮ることはできません。熱中症についてはニュースや情報番組でもさかんにとりあげられているのにもかかわらず、毎年のように死者を出しているのはその理解と認識が──」
 渋谷が用意していたスライドを切り替えた時だった。出し抜けに会議室のドアが開いた。
 青い顔をのぞかせた中堅と思われる男性社員は室内を見渡し、鍋倉の姿を確認すると駆け寄って腰を折り、耳打ちをした。
 その鍋倉は、同様に血色を失いながらゆっくりと立ち上がった。
「申し訳ないが、今日はこれで失礼する」
 そしてドアのところで立ち止まると振り返った。
「いや、今日の会議はここまでにしましょう。渋谷先生、ちょっと外によろしいですか」
「あ、はい。それでは……」
 渋谷はバトンリレーをするように、友紀にうなずいて見せる。そして手早く荷物をまとめて鍋倉の後を追った。
 ただならぬ雰囲気をまとっておおまたで歩く鍋倉は、渋谷が並んだのを確認して、絞り出すように言った。
「たったいま、うちの営業部社員が自殺したとの連絡がはいりました。電車に飛び込んだそうです」
 えっ、自殺?!
 予想だにしていなかった事態に戸惑い、渋谷は声が出せなかった。
 肩越しにも同じように息をむ気配がした。振り返るとそこには追いかけてきた友紀がいて、冷たい北風が吹き抜けたかのように制服の襟元のあたりをギュッとつかんでいた。
「長田という営業部の社員なのですが、なにか相談は受けていませんでしたか? 最近、悩んでいたとか」
 渋谷は記憶を探るが、やがて頭を左右に振る。
「いえ、長田さんという方とお話ししたことはありません。衛生委員会でも、営業部からはそのような話は出ていなかったかと」
 確認するように友紀を見るが、無言で渋谷に同意をしているのが見て取れた。
「あいつ……ひとしれず悩んでいたのかもしれんな」
「鍋倉さんは、その方をご存じだったのですか?」
 十歩ほど無言で進んだあと、鍋倉は言った。
「私がまだ営業部長だったころの部下だ。あいつの結婚も取り持った。奥さんも元うちの社員でね。まだ小さなお嬢ちゃんもいた。それなのに、なぜ……」
 息苦しい空気とともに役員室に入った。中には副社長のいいづか、営業本部長の、長田の直属の上司にあたる営業部長のともが神妙な面持ちを浮かべていた。さらに、総務や人事の担当者が駆け込んでくる。
 役員室は『家康』ほど広くはないが、重厚な本革ソファーが向い合わせに配置されている。そこに職責の上位にいるものからソファーに座り、渋谷ら数人は壁際にたたずんだ。
 まず友井が経緯を説明した。
「亡くなったのは営業部渉外課の長田洋二課長です。神奈川県の相鉄本線のさがみ野駅で、特急電車に飛びこんだようでして……」
 病院に搬送されたものの死亡が確認され、長田の妻と会社に対して神奈川県警から連絡が行き、さきほど長田の死亡を確認した妻からも連絡があったようだった。
 事務的にふるまっていたが、その声は震えていた。
「部下思いの優しい男でして、相談に乗って終電を逃した部下を家に泊めたこともあったそうで、その際も温かい理想的な家庭だったと」
 鍋倉が身を乗り出す。
「ご遺族へのフォローアップのほうは?」
「とり急ぎ、営業部員数名を向わせました。このあと私も向います」
「わかった。しかし、どうして……。特に悩んでいるような様子はなかったというし、渋谷先生のところにも相談はなかったと。ですよね」
 鍋倉が渋谷を振り返った。しかし渋谷はどうしても返事ができなかった。のどまで言葉は出ているのだが、それとは違う感情がこみ上げて、ふたをしているようだった。
「先生、大丈夫ですか」
 友紀が心配そうに覗き込んだ渋谷の額には脂汗が浮いていた。
「すいません、大丈夫です」
 言葉と裏腹に、グラグラと揺れる自分の体が崩れ落ちないようにするためには壁に寄りかかっていなければならなかった。さらに、気分は秒刻みで悪くなっていく。
「ちょっと、失礼します」
 ついにこらえきれなくなり、渋谷は逃げるように部屋を飛び出すとトイレに駆け込んだ。そして吐いた。
 すべてを吐き尽してもなお、からだはえずくことをやめなかった。

(続く)

作品紹介



産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート
著者 梶永 正史
定価: 792円(本体720円+税)

史上初!? 産業医の名探偵。人の先に、会社も診る!
産業医として電機設備製造大手と契約していた渋谷雅治は、営業部社員が自殺したことを受け再発防止のために実態調査を頼まれる。関係部署を回り、その社員について情報を集めていく渋谷。すると当初感じていた自殺者の人物像が変わっていき、原因がわからなかったその死が、ひとつの真実を導き出していく。やがて背後にリコールすべき重大案件が隠されていることがわかり……。彼はなぜ死んだのか? 産業医探偵が謎に迫る!
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000171/
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