6月22日は東京都議会議員選挙の投開票日。
くらし、環境、AI技術……複雑化する社会で自分の1票がどんな意味を持つのか、自問自答しながら投票に行く方も多いはずです。
ヨーロッパを震撼させた「軍事独裁者」ナポレオン・ボナパルト、実は彼は横暴な専横者ではなく、「民意」に配慮し「選挙」を重視した「大衆にやさしい」君主でした。
民主主義の原型であるフランス革命の中から、「共和国の皇帝」はなぜ生まれたのか?
この男は革命の破壊者か、はたまた守護者だったのか?
是非、本編でお楽しみください。
藤原翔太『ポピュリスト・ナポレオン』試し読み
※漢数字をすべてアラビア数字に直しています。
はじめに――ナポレオンは「独裁者」だったのか?
ナポレオン体制は「軍事独裁」か?
かつて、著名なフランス革命史家のジョルジュ・ルフェーヴルは、将軍ナポレオン・ボナパルト(以下、ナポレオン)が軍事クーデタにより権力の座に就いた事実をもって、「彼〔ナポレオン〕の権力は、その起源からして軍事独裁(dictature militaire)であり、したがって絶対的なものであった」と喝破した。その際、ルフェーヴルは「軍事独裁」の意味を明確に定義してはいなかったが、その後、多くの歴史家たちはルフェーヴルに倣って、そしておそらく深く考えることもなしに、ナポレオンが「軍人」であるという理由から、ナポレオン体制を「軍事独裁」と呼んできた。
しかし、ナポレオン体制を「軍事独裁」と規定することは、果たして実態を正確に表していると言えるのだろうか。まず、「その起源からして軍事独裁であった」という点から検討してみよう。
1799年11月、ブリュメール18日のクーデタにおいて、軍人ナポレオンが担ったのは、パリ管区師団司令官としてサン゠クルー城に移転された議会(五百人会と元老会)を警護し、議会手続による総裁政府転覆を側面から支えることであった。ところが、議会ではクーデタの首謀者たち(ブリュメール派)の思惑通りには事が進まなかった。事態を打開しようと、ナポレオンは精鋭兵士を引き連れて、独断で議会に乗り込んだが、この行為に対して議員たちは憤慨し、「独裁者を倒せ!」との怒号が飛び交った。ナポレオンに詰め寄る議員もおり、ナポレオンが議場の外に連れ出されるや否や、彼を「法の保護の外に置く」との動議が出される始末であった。
ここで機転を利かせたのが、当の議会の議長で、ナポレオンの弟のリュシアン・ボナパルトである。彼はすぐさま議長権限を用いて休会を宣言し、動議の審議入りを阻止すると、議場を飛び出して軍隊の前に現れた。「短剣を隠し持つ一部の議員」によってナポレオンが法の保護の外に置かれようとしていると熱弁し、議員たちを議場から排除するように訴えたのである。
実は、リュシアンが現れる直前に、ナポレオンもまた議会への突入を命じていたのだが、その時、軍隊は動かなかった。議会議長のリュシアンの命令を受けて、ようやく突入を決行したのである。つまりブリュメール18日において、軍事的栄光に照らされたカリスマ将軍は自由自在に軍隊を操れたわけではなく、いわば議会の権威に従って軍事クーデタが実行に移されたことになる。要するに、軍隊はクーデタの主役ではなかったのだ。この事実だけをみても、ブリュメール18日のクーデタを、「軍人であるナポレオンが、自らを支持する軍隊を率いて政権を転覆し、権力の座に就いた事件」として
国政の重要ポストに軍人は半分以下
次に、「軍事独裁」という言葉の意味に注目してみよう。この言葉が一般に想起させるのは、「軍隊が国政の実権を握り、支配する政治体制」である。しかし、その意味において、ナポレオン体制は「軍事独裁」と同一視できるものではなかった。確かに、ナポレオンは政権を握った後も、軍隊の最高指揮官として前線に立ち続けた。とはいえ、彼はあくまで文民の政治指導者として国内を統治したのであるし、国政の重要ポストから軍人を入念に遠ざけていた側面もまた認められる。
たとえば、国政の中枢をみても、1800年から1815年にかけて任命された大臣32人のうち軍人は12人(38%、陸軍大臣や海軍大臣は軍人から任命)、元老院議員は184人中41人(22%)、議会の両院にあたる立法院と護民院に至っては10%にも達していない。地方行政の中心人物である県知事の場合でも、せいぜい53人(18%)を数えるにすぎなかった。したがって、いずれの国政の重要ポストにおいても、軍人が半数以上を占めることはなかったのである。
そのうえ、ナポレオンは自身と競合する将軍たちを外交官のポストに就けることによって、国政の中枢から遠ざけてもいた。例を挙げると、マクドナルドはオランダへ、グヴィオン゠サン゠シールはスペインへ、ネイはスイスへ、ランヌはポルトガルへ、一時期ではあるが派遣されている。この事実は、ナポレオンが占領地の支配において軍人の知識を重視していたことを示す一方、将軍たちの個人的な権力の増大を抑止しようとする意図もまた
それゆえ、軍人たちの中には、ナポレオンが彼らを
こうした不満に対処すべく、ナポレオンは1802年にレジョン・ドヌール勲章を創設し、戦場で活躍した軍人たちを中心に顕彰を始めた。さらに1808年に帝政貴族を創設した際にも、授爵した貴族の3分の2以上は軍人であった。しかし、これも詳細にみてみると、爵位が高くなるにつれて軍人の割合は相当低くなっており、男爵でさえ、その7割は文民によって占められていた。
このようにナポレオン体制では、軍人が国政を牛耳ることはなかったし、彼らが最上位の地位を独占することもなかった。換言すれば、ナポレオン体制は「軍部支配体制」ではなかったのである。
確かに、フランス革命史家のジャン゠ポール・ベルトーが明らかにしたように、ナポレオン時代のフランス社会では、民衆が軍歌を好んで歌い、大人も子どもも戦争ゲームに興じ、皿や
権力を握る二つの転機
以上の理由から筆者は、ナポレオン体制が政治体制としてはその性格上、「軍事独裁」であったとは考えていない。では、「軍事独裁」から「軍事」を取って、「独裁」としたらどうだろうか。仮にナポレオンの「独裁」が成立したとしたら、それはいつ頃のことで、何がそれを可能にしたのか。
ブリュメール18日のクーデタ後、1799年憲法(共和暦8年憲法)が制定されると、ナポレオンは第一統領に就任した。しかし、国家の最高権力を手にしたとしても、ナポレオンの権力はまだ絶対的なものではなかった。クーデタの本来の「主役」であったブリュメール派が国政において影響力を振るい続けており、総裁政府期から続く国内外の危機――対外的には、周辺国によって革命戦争で獲得した領土を奪い返され、国内では反革命運動が相次いで生じていた――も解消しておらず、体制はまだ盤石ではなかった。
最初の転機は1800年5月、第2次イタリア遠征において、マレンゴでオーストリアに勝利したことでもたらされる。これにより対外的な危機が終息し、同時並行で進められたローマ教皇庁とのコンコルダ(政教条約)の締結によって、国内ではカトリック信徒が反革命運動に参加する根拠を失うこととなった。残された交戦国のイギリスは、反革命運動による体制崩壊が難しいと判断して、和平交渉に入り、1802年3月、アミアンの和約に調印した。
国内外の危機を退けたナポレオンは、次第に「独裁者」としての顔を見せ始める。たとえば、コンコルダの調印後、ナポレオンは護民院の改選に干渉し、反ナポレオン派議員(反コンコルダ議員を含む)を議会から排除している。さらに対英戦争が再開し、ナポレオン暗殺未遂事件が起きると、彼は強権を発動して、国外にいる王族のアンギャン公を事件の首謀者として
第二の転機は1805年末にもたらされたアウステルリッツの勝利である。オーストリア・ロシア軍を破り、ヨーロッパ大陸の支配を盤石にすると、1807年には議会の一つである護民院を廃止し、専制支配を強めていった。
このように、政治体制の変化に注目してみると、ナポレオンが議会を完全ではなくともかなりの程度まで無力化し、専制支配を強めていったことがわかる。とりわけ、アウステルリッツの勝利以降、ナポレオンの政治体制が「独裁」と呼び得る性質を備えていったことは否定できない。そのうえ、ナポレオンの専制支配が、軍事的勝利を背景に段階的に強化されていったことも明らかだ。ナポレオンの権力は軍事的勝利を重ねることで、次第に(当初からではない)独裁的になっていったのである。
不可視化された「独裁」
以上を踏まえると、ナポレオン体制とは、「その性格上、軍事独裁とは言えないが、軍事的勝利を追い風にして、次第に独裁化していった政治体制」とまとめることができるだろう。したがって、ナポレオンの「独裁」を可能にした要因の一つに彼の「軍事的栄光」を挙げることは至極当然であり、ナポレオンの「独裁」を考えるうえでも避けては通れない。それでも、ナポレオンの「独裁」が必ずしも軍事的に行われたわけではない、という点はここで改めて強調しておきたい。
前述の通り、ナポレオン体制では文民統治が基本であった。そのうえ、国内の統治においても、軍隊が積極的に用いられたわけではなかった。そもそも帝政下には、フランス国内で軍隊による鎮圧を要する大規模な反乱(révolte)はほとんど生じていない。比較的よくみられたのが憲兵隊と民衆の対立で、時に100人規模を超える「
ナポレオンの「独裁」が軍事的に行われたものでないとすれば、何がそれを可能にしたのだろうか。その点で、先に触れたアンギャン公の拉致・処刑事件は、われわれに重要な示唆を与えてくれる。現代からみれば、まさに「独裁者」の所業として非難されるべきこの事件を、実は当時の国民の多くは好意的に受け止めていた。確かに、フランス国内では一部の知識人が反発し、議会やジャーナリズムへの強まる圧力に抗して、ナポレオンの専制支配を批判してもいた。それでも社会全体に目を向ければ、大半の国民はナポレオンを「独裁者」とは認識していなかったのである。
なぜ、彼らの目には、ナポレオンは「独裁者」として映らなかったのか。彼らはナポレオンの支配をどのように受け止めていたのか。本書では、ナポレオン体制を「軍事独裁」として捉える枠組みは取らない。通俗的に広まっている「軍人゠独裁者」というナポレオン像から離れ、改めて「政治家」としてのナポレオンに注目することで、これらの問題にアプローチしたい。ナポレオンは一体いかなる戦略を用いて、フランス国民に「独裁」を受け入れさせることができたのか。政治家ナポレオンの統治戦略を分析し、フランス国民の目から「独裁」を不可視化した彼独自の政治支配の仕組みを明らかにするのが、本書の目的である。
(気になる続きは本書でお楽しみください)
作品紹介
書 名:ポピュリスト・ナポレオン 「見えざる独裁者」の統治戦略
著 者:藤原 翔太
発売日:2025年05月10日
独裁者こそ選挙を好んだ――「共和国の皇帝」の全く新しい実像を描く
【「軍人=独裁者」像を破る】
「軍事独裁」の象徴として語られ、現在も権威主義者に影響を与え続けるナポレオン・ボナパルト。彼が侵略戦争で得た人気と、クーデタで手にした地位を支えたのは、革命に倦んだ民衆の「本音」を掬い取る〈選挙〉と〈調整〉の戦略だった! パリから遠く離れたコルシカの議員一族に生まれ、地元の選挙戦と占領地統治で磨いた政治力を駆使し、男は革命期のエリートの思惑を超えて、「共和国の皇帝」へとのぼりつめる……。第24回大佛次郎論壇賞を受賞した気鋭のフランス史家が「見えざる独裁」のメカニズムを描く。
◆ブリュメール18日、ナポレオンの議会突入命令は一度無視されていた
◆大臣のポストに軍人は半数以下
◆革命が激化するほど低下した投票率はナポレオン時代に10ポイント以上回復した
◆県知事の評価項目は能力より住民からの評判
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