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試し読み

史上初!? 産業医が主人公のミステリ×企業小説『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』試し読み #1

産業医として電機設備製造大手と契約している渋谷雅治は、営業部社員が自殺したことを受け再発防止のために実態調査を頼まれる。実はその死の裏には、会社がひた隠しにする重大な秘密があった――。

「特命指揮官 郷間彩香」「ハクタカ」などのドラマ原作が人気の「このミス」大賞受賞作家、梶永正史さんの最新作『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』は、産業医が探偵として活躍する新感覚のミステリ×企業小説です。これまで警察小説を数多く執筆されてきた梶永さんの新境地にして会心作。冒頭部分を公開いたします!

『産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート』試し読み #1

 プロローグ

 すこし前まで強い雨を降らせていた雨雲は東の空へ飛び去り、こうてんを夕陽に譲っていた。
 ほこりが洗い流されたように、街も、空気も澄んでいた。西日がプラットホームを斜めから照らし、目に映るもの全てをオレンジ色に輝かせていた。
 ふたたび姿を現した太陽によって、それまで抑え込まれていた夏の熱気がよみがえり、鳴りを潜めていた蟬たちも活動を再開した。
 夏らしい、夕方の光景だった。
 神奈川県のほぼ中央に位置する市。海老名駅とよこはま駅を結ぶそうてつ本線、さがみ野駅のホームで、おさようは電車を待っていた。電光掲示板には、この駅を通過する特急に続いて、横浜駅行きの急行電車が間も無く到着すると表示が出ている。
 ──急行は早く着いてしまうじゃないか。いっそのこと、その次の各駅停車に乗ろうか。
 長田は反対側の下り線のホームを見やった。こちら側よりも多くのひとが時間を気にしながら電車を待っている。一時間ほど前に発生した人身事故の影響により電車が大幅に遅れていたからだ。
 いつやって来るかわからない電車を待つ彼らの表情はいらちと不満の色で満ちており、駅員にやり場のない感情をぶちまけるひともいた。
 しかし長田はそれをうらやましい、と思った。上り線のダイヤも乱れてはいたが、もっと思い切り遅れてくれたら会社に戻らなくて済むのに、と。運行ダイヤのじゆばくを解かれた電車にすらしつしてしまいそうだった。
 それだけ、自由になりたかったのだ。
 長田はネクタイを緩め、すこし前かがみになって汗ばんだ背中に空気を送り込んだ。手にした缶コーヒーに目を落とすと、まだ半分ほど中身が残っている。普段、飲むことがない無糖ブラックだった。
 それを口につけようとしたが、思いとどまって反対の手でスマートフォンを取り出す。ついさっきまで通話をしていた相手の名前が表示されていた。
 通話を終えるまでずいぶんと長い時間が過ぎていたことに気づく。その間、いったい何本の電車を見送ったかわからない。何時にこの駅に来たのか記憶もあいまいだった。
 電話の相手からは、一方的に怒鳴られ、さげすまれ、人格まで否定されたような気がした。その本人と、このあと顔を合わせなければならないと思うと気が重かった。
 いっそのこと、すべてを投げ出して反対側の電車に乗ってみたらどうか。目的地を定めず、電車を乗り継いだらどこに辿たどり着けるのだろう。
 海……だったらいいな、と思った。
 リタイヤして愛媛に移住した両親をいちど訪ねたことがあったが、いだうちの海の輝きがまだ脳裏に刻まれている。
 どこか、遠くへ。誰も知らないところで一日を過ごせたらどんなに幸せだろうか。
 しかし、妄想の世界に身を置いてもなにも解決しないということに、やがて思考は帰着する。
 妻と十歳になる娘の顔が頭をよぎった。
 社内結婚だった。相手はシングルマザーで、年齢は五つ上。娘は彼女の連れ子で、はじめてあったときはまだ二歳だった。
 子連れのとし女。付き合い始めた当時、彼女への周囲の反応は様々だった。しかし抵抗はなかった。むしろ不安のほうが大きかった。
 長田が最後に女性と付き合ってからすでに十年ほど経っていたということもあるかもしれないが、あまり自分の感情を表に出すような性格ではないし、営業のくせに口下手で、まったく目立たない人間だというのは自覚していたからだ。
 いろいろと気を遣う恋愛ということにたいして、あきらめというか、べつに一生独身でも困らないと思っていた。気軽だし、孫の顔がみたいという親のプレッシャー以外に不自由は感じなかった。
 しかし彼女の幼い娘とはじめて会ったとき、天使かと思った。すぐに懐いてもくれた。ひとなみに家族を持つことの幸せを感じてみたいとも思った。
 結婚後、会社の飲み会で酒が回ったやからのなかには、『長田は行き遅れの余り物を押し付けられた』とする者もいたというが、気にならなかった。そのタイミングでしか出会えなかっただけであり、すでに自分は幸せだったからだ。
 そして彼女たちにも、同じように幸せだと感じてほしいと思っている。
 駅からの帰り道、国道をまたぐ歩道橋の上から見える三十五年ローンで購入した中古マンションの一室にともあかりを見るたびに、そう思う。
 自分も妻もあかけた性格ではないが、人生を楽しむという感覚を味わうことができていた。
 だから、頑張らねば。いまの幸せを守らなければ。
 なかばやけくそで人生で一番長いためいきをついてみた。するとどうしたことか、気分が軽くなり、なにもかもが小さな問題であるように思えてきた。
 アナウンスが流れた。
 横浜行きの電車が来る。さて、いくか。
 スマートフォンをかばんの奥に押し込み、長田は立ち上がった。
 一歩踏み出したが、ビニール傘を置き忘れていることに気付いて引き返し、それから駆け足で電車に向った。
 どこか晴れやかな気分だった。空を飛べそうでもあった。
 ほんとうに、ふわりと体が浮く。そして──。
 長田がホームに入ってきた特急電車に激突したとき、運転席側の窓ガラスに食い込むような感覚があった。ひょっとしたら運転手と目が合ったかもしれない。
 身体中がしびれるような感覚のなか、なぜか飲みかけの缶コーヒーをベンチに置きっぱなしにしていたのを思い出した。
 それが最期だった。

    1

 しぶまさはるは椅子をくるりと回して、デスクを挟んで座る男に向き直った。
 男はむらまさと名乗った。東京駅口に本社を構える電機設備製造大手、電子工業合同会社──世間ではMEIと呼称されることが多い会社の、購買部に籍を置く中間管理職だった。
 会うのはお互い今日が初めてで、渋谷とのカウンセリングを予約し、ドアをノックしてきたのが三十分ほど前のことだった。
 部下との関係について悩みがあるとのことで、その相談にのっていた。
「なるほど」
 渋谷は柔らかい笑みをつくってみせながら志村の様子を観察した。
 軽く汗をかき、せわしなく両手をんでいる。どうやら緊張しているようだ。こうやって精神科医のカウンセリングを受けたことがないのだろう。
 さらに、ちょっとした恐れの感情も見て取れた。この話のてんまつがどうなるのかがわからずに不安なのだ。
「どうかリラックスしてください、同じ会社の仲間じゃないですか」
「と言われましても、先生は精神科医でもいらっしゃるじゃないですか。恥ずかしながらいままでの人生で精神科医の方と関わったことがなくて」
「そんなの恥ずかしがることではないですよ」
 リラックスさせるために、快活に笑ってみせた。
 渋谷はMEIと契約している産業医だった。
 産業医とは、労働安全衛生法により定められている労働者の健康管理や作業環境において専門的な助言を行う医師のことで、労働者数が五十名を超える場合は産業医を一名選任することが義務付けられている。
 さらに、八重洲本社に一千人以上の従業員を抱えるMEIのような企業であれば専属の産業医を置くことが求められ、渋谷は一年ほど前からその契約を結んでいる。
 産業医になるためには医師である必要があるが、そのバックグラウンドは様々で内科医もいれば眼科医もいる。
 渋谷の場合は、産業医に転身し、MEIに来る前まで十五年ほど精神科医として大学病院に勤めていた。
 その経歴を聞きつけた悩み多きビジネスマンたちと接するうちに、本来の産業医のはんちゆうを超えて相談に乗るようになった。
 はじめのうちは社内のカフェや廊下、通勤時の駅のホームで居合わせた時などに声をかけられることが多かった。内容もさほどシリアスなものではなかった。
 精神科やクリニックに行くのは気がひけるが、それが社内の廊下やカフェでよく見かける人物であれば、ちょっと話を聞いてもらおうという気にもなるのだろう。その気持は良く分かるので渋谷も快く対応した。
 しかし、それが徐々に公共の場や他の社員の前でははばかられるような繊細な相談を持ち込まれるようになり、立ち話ではすまなくなってきた。
 本来は産業医としての職務に集中し、その本分を全うすべきなのだが、頼られると無下にはできない性分の渋谷は『できることができない』というジレンマにも陥っていた。
 そんなとき、社内環境改善に熱心な役員からのサポートもあり、まずは産業医としての業務を優先し、渋谷の負担にならない範囲でこうしたカウンセリングを行うようになったのだった。
「本当は有能なやつなんですが──」
 志村は額に垂れ下がった髪を、ところどころのぞく地肌を埋めるように頭頂部に向ってなでつけた。
「ここ最近はさいなミスが重なって、本人もそれを気にしているのか精神的に追い詰められているようで、休みがちになっているんです。このままいくと……その」
「〝MI〟ですか?」
「あ、はぁ、まぁそうです」
 志村はまた頭をさげた。渋谷はさっきから頭頂部しか見ていないような気になった。
 MIというのは社内用語で Mental Illness──つまり精神的な病により休職している社員のことを示す。この場合、社員は通常の傷病休暇とは別に特別休暇を取得することができ、医師の診断書が必要になるが、おおむね三カ月間は有給休暇扱いになる。
 現場社員にとってはありがたい制度ではあるが、管理者にとっては若干意味合いが違ってくる。部下の中からMIを出してしまうと、その管理に問題はなかったのかと疑われることになりかねないのだ。
 特にやっかいなのが労働組合だ。ストレスの原因は上司の理不尽な対応にあったのではないかと突き上げてくる。その追及が激しくなれば幹部からもにらまれ、状況によって査定に響くこともある。
 パワハラ、セクハラなどのハラスメント問題に厳しく対応しているという企業姿勢は良いのだが、上司が部下に対してれ物に触るような付き合い方しかできなくなると、それはそれで正しい姿とは思えない。
 また、精神的な負担というのは必ずしも上司や同僚との人間関係からくるものだけとは限らず、自分自身との向き合い方に起因していることも多々ある。
 こういった精神のメカニズムは理解しづらいものだし、周囲とどう付き合っていけばいいのかわからないと、そのしわ寄せが、まさに志村のような人物に集まってくるのだ。
 渋谷はそうした社内規定に口を出す権限は有していない。あくまでも作業環境上の安全問題に対処するだけだ。
 渋谷は窓の外に目をやった。
 ここは本社屋の四階に設けられた会議室が集まるエリアの一角で、渋谷はそのうちのひとつをオフィスとしてあてがわれていた。
 この部屋は眺望があるわけではなかったが、ルーフバルコニーを利用してつくられた庭があり、真夏の太陽が緑をまぶしく反射させてささやかな安らぎを提供してくれていた。
「私が小学生だったころ、野球大会っていうのがあったんですよ」
 渋谷は背もたれに体を預け、音圧を感じさせない柔らかい口調で言った。志村がひょいっと顔を上げる。
「上級生から下級生まで、住んでいる地区ごとに分けてチームをつくりまして、対抗戦を行うんです。でも私は運動が得意ではありませんで、父親とキャッチボールをした記憶もありません。ま、要するに下手くそだったわけです」
「はぁ」
 志村の困惑に理解を示すように渋谷は微笑んでみせた。
「そんなわけでチームでは、私はお荷物扱いでしたよ。でも上級生のなかに熱心な子がひとりいましてね、私をなんとかしようと頑張ってくれるわけですよ。そしてある言葉をさかんに口にしていました。『ボールを怖がるな』です。どうやら私はボールをキャッチするときに目をつぶったり腰が引けたりして、それがエラーの原因になっていたようなんです」
 志村はなんのことかと思いながらも『いまのところなんとか大丈夫です』と示すように、渋谷の語り口調にうなずいていた。
「ボールを怖がるな、と言われて私のなかになにが起こったかわかりますか?」
「えっと、たとえば、もっと積極的にボールに向っていくようになったとか?」
 渋谷は満足そうに笑った。
「そうだったらよかったんですが、私の場合は逆でした。怖がるな、と言われてはじめて、怖がっているということを意識してしまったんです。暗示にかかったようなものです」
「それまではボールを怖がっていなかったのに、ということですか?」
「その通りです。もちろん、その上級生は親切でそう言ってくれたのだし、私自身もそのときはなぜボールが怖いのかもわかっていません。ですが、コロコロと転がってくるボールですら泣きながらけてしまうようになっていたんですよ」
 渋谷はやや体をひねって、机の上に置いてあったマグカップを口元に付けた。すっかり冷たくなったコーヒーは、唇を湿らすくらいの量しか残っていなかった。
「人間というのはほんとうに不思議な生き物です。意識するなと言われると余計に意識してしまうことがあります」
 志村は得心したようだった。
「私は……その上級生のような振る舞いをしてしまっていたということなんでしょうか……。今日はミスをするなよ、納期に間に合わせろよ、などアドバイスをしたつもりだったのですが……」
「そうですね、こう考えてみてください。脳には〝つじつま合わせ〟の機能があると」
「辻褄?」
「ええ。心当たりのないことでも、言われたことに対して脳の中では無意識に自身の経験と結びつけて考えようとするのです。たとえば『ミスするなよ』と言われたら、いつのミスのことだろう? この前のあれかな? それともあっちのことかな……と、たとえミスをしていなくてもミスを探してしまうんです。これは、過去のネガティブな記憶に意識を縛り付けるようなものです。前を向くことができなければつまずいてばかりで不安になってしまいます」
「なるほど……ではどうすればいいのでしょうか」
 志村はまるで神に赦しをうような面持ちになっていた。
「こうなってほしいと思う姿の彼を想像しながら話してみてください」
「といいますと……」
「たとえば、朝、彼の肩をたたいて『最近は頑張ってるね』なんて声をかけたとします。すると、本人に思い当たる節がなかったとしても脳は辻褄を合わせようとします。『え、なんのことだろう? あのことかな、このことかな』という具合に。すると、たとえわずかであっても成功体験に目を向けるようになり、いまやっている未来のことに対して成功イメージを結びつけることが出来るのです」
 志村は合点したのか、なんどもうなずいた。
「私は、心配するあまり、彼のポテンシャルを信用していなかったのかもしれませんね」
 渋谷は柔らかく口角を上げてみせると、ゆっくりとした口調で言った。
「ボールが怖いと思い込んだ少年が、やがてボールをキャッチできるようになったとき、脳内では成功体験が恐怖や不安を上回り、これまでのことがなんだったのかというくらいに普通にできるようになりました」
 りようひざを手のひらでぱちんとたたくと、まるでそこにボタンがあったかのように志村はすっと立ち上がった。
 はやく戻ってさっそく実践したい、そんな様子で頭を下げた。
「ありがとうございました」

(続く)

作品紹介



産業医・渋谷雅治の事件カルテ シークレットノート
著者 梶永 正史
定価: 792円(本体720円+税)

史上初!? 産業医の名探偵。人の先に、会社も診る!
産業医として電機設備製造大手と契約していた渋谷雅治は、営業部社員が自殺したことを受け再発防止のために実態調査を頼まれる。関係部署を回り、その社員について情報を集めていく渋谷。すると当初感じていた自殺者の人物像が変わっていき、原因がわからなかったその死が、ひとつの真実を導き出していく。やがて背後にリコールすべき重大案件が隠されていることがわかり……。彼はなぜ死んだのか? 産業医探偵が謎に迫る!
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