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【話題作再掲】父を殺し、母と婚姻した息子。精神科医が考察した、殺人犯のパーソナリティ。怒濤のどんでん返しミステリー!櫛木理宇『虜囚の犬』#8

カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「7月9日の書籍刊行まで待てない!」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
※作品の感想をツイートしていただいた方に、サイン本のプレゼント企画実施中。
(応募要項は記事末尾をご覧ください)

 ◆ ◆ ◆

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 そうして白石はいま、づか市の『メンタルクリニックはや』にいる。

 ひさしぶりに締めたネクタイのせいで、喉もとが窮屈だ。体形を保っておいてよかった、と白石はひそかにあんした。身に合わないスーツでは、「着慣れていないな」とすぐに見破られてしまう。

 院長の早瀬医師は、六十代後半とおぼしい。七年前よりいくらか瘦せ、いくらか白髪が増えたようだ。彼は縁なしの眼鏡をずりあげて、

「担当の少年が成人になっても、調査官のお仕事は終わらないんですね。このたびのことは、わたくしどもにとっても悔やまれます。まことにご苦労さまです」

 と生真面目に言った。

 白石の良心がずくりとうずく。しかし押し殺して、

「検察は、あらゆる材料を欲しがりますから」

 と答えた。

 この返答だけなら、すくなくともうそではない。無表情を装って言葉を継いだ。

「治郎くんの試験観察を終える際、こちらでの診療の継続を条件にしたかと記憶しております。あれ以後の彼について、おうかがいしてよろしいでしょうか」

「それが……」

 目に見えて、早瀬医師の顔が曇る。

「あまり、ご期待に添える情報はないかと」

「通院はつづかなかったのですか?」

 白石の問いに、医師は眉根を寄せた。

「一箇月ほどは、約束どおり毎週通ってくれました。しかし二箇月目から、二週に一回になり、一月に一回になり……。かすのはプレッシャーになるかと、様子見していたのがまずかったようです。気づけば、彼は高校を辞めて引きこもっていた」

 ため息をついて、

「お父さんの葬儀には、わたしも参列しましたよ。治郎くんに『なにかあったら、いつでもクリニックに来てくれ』と声をかけたんですがね。うつむいたまま、一言も応えてくれませんでした」

「お父さんは──伊知郎さんは、いつ亡くなられたんです」

「四年前ですかね。不幸な事故でした。松の枝ぶりを見ようとしたらしく、脚立から落ちて庭石に頭をぶつけたんです。お抱えの庭師が、早朝に来て発見しました。すでに伊知郎さんはこんすい状態で、異常ないびきをかいていたそうです。救急車で搬送されたものの、意識が回復しないまま亡くなりました」

 頭蓋内出血か脳挫傷かな、と白石は思った。四年前ということは、死亡時の年齢は七十七歳か。

 ──ということは、当時の治郎くんは二十歳だ。

 すでに成人していた彼は、父親の死をどう受けとめたのだろう。

「こういう訊きかたは、よくないでしょうが」

 白石はためらいがちに問うた。

「伊知郎さんは、その……亡くなるまで、お変わりなかったですか。つまり、治郎くんとの関係は」

「大きな変化はなかったようですね」

 早瀬医師は答えた。

「まあ、あの人のことはしかたがない。伊知郎さんはすでに七十を過ぎて、人格が形成されきっていました。それにわたしどもの患者は、あくまで治郎くんです。彼のほうから、父親との距離を変えてほしかった。勝手を承知で言えば、彼は十八を過ぎた時点で家を出るべきだった、と思っています」

「当時も薩摩家の親子関係について、先生と何度かお話ししましたね」

 白石はしんみりと言った。

 早瀬医師と白石の意見は一致していた。薩摩治郎の無気力さや自尊心の低さは、親からの過度の抑圧によるものだ。物理的にも精神的にも離れるべきだ、と。

 伊知郎は幼いときから治郎を支配してきた。頭から押さえつけ、自我の芽を徹底的に摘みとってきた。

「ライウスコンプレックスだったのかもしれません」

 早瀬医師は言った。

 ライウスとは、ギリシア悲劇の主人公エディプス王の実父である。

 テーバイの王ライウスは「なんじの息子は父である汝を殺し、母をめとるだろう」との神託を受け、わが子を恐れて山に捨ててしまう。しかし息子エディプスは羊飼いに助けられて生き延び、やがて神託どおり父を殺し、母と婚姻することとなる。

 有名なエディプスコンプレックスは『父と同一化を望みながら対抗する』という、男児のアンビヴァレントな心理を指す。

 それに対し、ライウスコンプレックスは『いずれ自分を追い抜き、越えていく息子への恐れと反感』である。息子に権力を奪われまいと、支配力を強めることで息子の成長を阻むのだ。

「気持ちはわからなくもないんですよ。わたしにも、息子がいますからね」

 早瀬医師は慨嘆した。

「息子の成長はうれしい。しかし同時に自分の老いを気づかされて寂しい。そんな心理は、わたしにもあります。しかし伊知郎さんは……きっと、我が強すぎたんでしょうな」

「資産家の生まれで、甘やかされて育ったそうですから」

 白石はうなずいた。

 早瀬ははずした眼鏡を拭いて、

「あの人は、祖父母に育てられたんですよ。いわゆる『年寄りっ子は三文安い』ってやつですな。わいがられるばかりで、ほとんど叱られないからわがまま放題に育ってしまった。わたしは伊知郎さんより十五歳下で、一世代違うんですが、それでも悪評はよく耳にしましたねえ」

 と言ってから、「いや、すみません。故人の悪口はいけませんな」とかぶりを振る。

「では治郎くんの話に戻しましょう」

 白石は言った。

「この七年、彼はまれにコンビニやレンタルショップへ行くほかは、引きこもり同然の生活を送っていたそうですね。ほとんど外界とは交わらず過ごしてきた」

「ええ」

 早瀬医師は同意した。

「てっきり鬱状態にあるのだと思っていました。過去の症状から見て、社会不安障害やパニック障害も併発しているかもしれないと」

「しかし鬱状態にある人間は、普通はあんな殺人を犯しません」

「ですね」

 医師は顔をしかめた。

「失礼ですが、殺人でなく心中ならば驚きませんでした。心中は、一種の拡大自殺です。鬱症状は往々にして自殺願望を引き起こしますからね。しかし複数の女性を監禁し、さらに殺害したとなると──」

 言葉を切る。

 不可解だと言いたいのだろう。白石も同意だった。

「それはそうと、あの伊知郎さんが、よく息子の退学を許しましたね」

「いや、伊知郎さんが辞めさせたんだそうですよ」

「へえ」白石は驚いた。

 薩摩伊知郎は見栄っ張りだ。一人息子が高校を中退したなんて、『世間体が悪い』と激怒したに違いないと思っていた。

 早瀬医師が腕組みして、

「あの人はほら、衝動で動くかたでしたから。ある日『薩摩家から縄付きを出したなんて一族の恥だ。二度と表を出歩くな。学校も辞めさせる』と怒鳴りちらしたそうです。まあこれも、彼のライウスコンプレックスから出た言動かもしれませんね。伊知郎さんは、治郎くんを孤独にさせておくのが好きだった」

「子供の頃からそうだったとお聞きしました。治郎くんが学校のともだちを家に呼んだり、遊びに行くのを許さなかったとか」

 白石はあいづちを打った。

 小学生の息子から友達を遠ざけたことを、薩摩伊知郎は恥じるどころか誇らしげに語ったものだ。ガキの好きなようにさせるなんて、馬鹿のやることだ。やつらはまだ右も左もわかってやしないんだから、親が導いてやるのは当然だ──と。

「目を盗んで、志津さんが遊ばせてやっていましたがね」と早瀬医師。

「とはいえ限度がありました。白石さんは、治郎くんから〝仲良しグループ〟の話を聞かされましたか?」

「いえ」

「彼にも小学校の五、六年生までは、人並みに仲のいい〝仲良しグループ〟たちがいたんですよ。その頃は伊知郎さんが海釣りにはまって、朝から晩まで家を留守にしていましたしね。でも飽きて家にいるようになってからは……あの調子で、息子の友人関係を引き裂いてしまった」

「引き裂いた、ですか」

 白石は言った。

〝仲良しグループ〟とやらの話は初耳だ。だが当然かもしれない。治郎はろくにものを言わなかった。七年前の白石は、早瀬医師と親子関係のいびつさばかり話し合っていた。
「伊知郎さんは、子供全般が嫌いでした」

 医師は机を指で叩いた。

「とくに男児を忌み嫌っていましたね。たとえば薩摩家の塀から、松の枝が突き出ていたとしましょう。その枝を外から男の子が見上げていただけで、伊知郎さんは真っ赤になって怒鳴るんですよ。白石さんもご存じでしょう。ほら、例の『馬鹿ガキがっ、糞ガキっ!』です」

 と苦笑した。

 白石も同じく苦い笑みを返す。

 あの屋敷に通っていた間、何度も聞かされたフレーズだ。なにかと言えば『この馬鹿がっ! 馬鹿ガキ!』、『くそアマ!』だった。

 息子を『馬鹿ガキ』と怒鳴り、妻を『糞アマ』と罵りつづけた伊知郎の目には、自分以外のすべてが愚鈍に見えていたのだろうか。

「馬鹿だガキだと罵倒されながら、遊んでやる義理は子供たちにはないですからね」

 白石は言った。

「嫌気がさした友人たちは、治郎くんから離れていった。……彼はその件で、父親を恨んだでしょうか」

「一気に無気力化したのは間違いないですね。しかし去っていった子供たちを責めることはできません。伊知郎さんは暴君でした。犬ころでも追い立てるかのように、彼らを家から叩き出した」

 瞬間、白石はぎくりとした。

 ──犬。

 脳内で少年の声がする。

 ぼくは犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ。犬だ……。

「そういえば、あの頃の治郎くんが言っていましたよ。『ぼくは犬だ』と」

「ああ、わたしも何度か聞きました」

 早瀬医師は首肯した。

「自分の無力さをあらわす言葉として使っていたようですね。『犬だからなにもできない』だの、『犬はおりで死んでいくしかない』といったふうに」

「檻で……」

 白石は言葉を失った。

 早瀬医師が、はっと口をつぐむ。監禁事件との相似に思いあたったのだろう。犬。檻。死。無力感。そして監禁──。

 ノックの音がした。

 扉が薄く開く。

「先生、そろそろ午後の診察です」

 顔を覗かせたのは、年かさの看護師だった。早瀬医師が片手を挙げ、「ああ、いま行く」と応える。

「すみません。長々とお時間を取らせてしまって」

 白石は頭を深ぶかと下げた。「いやいや」と早瀬医師が手を振る。

 医師は数秒の沈黙ののち、

「彼の名誉のためにというか……最後に一つだけ。治郎くん自身は、けして動物嫌いじゃありませんでしたよ」

 と付けくわえた。

「ほんの一時期ですがね、アニマルセラピーで、猫と触れ合わせたことがあるんです。猫を抱いた彼は、じつにいい顔で笑っていました。ああいった診療を長くつづけていたなら、彼の未来は変わっていたかもしれませんな」

(つづく)

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