カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「7月9日の書籍刊行まで待てない!」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
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(応募要項は記事末尾をご覧ください)
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>>前話を読む
5
粛々と
風呂あがりに見上げた時計は午後八時を指していた。
冷めて味の
「マカロニチーズとポトフは温めて食べるように」
とメモに書きつけてから、すこし考え、「
自分のためのビールを一本抜いて、白石は自室にこもった。
デスクトップパソコンをスリープから起こす。スパムに交じって、メールが一件届いていた。和井田からだ。件名は『補足』で、
「
*『ストレス性難聴で、離れのことはわからなかった』。難聴は医師の診断あり。
*『女性を連れこんでいるのは気づいていた。息子が怒って暴れるのが怖くて、詮索できなかった。女性はその都度帰っていると思っていた』、『食事を三度三度作って、離れに届ける以外は許されなかった』
*『敷地が広いので、近所から騒音の苦情はなかった。悪臭への苦情のほうが多かった。残飯を腐らせたんだろうと思っていた。中に入らせてもらえなかったから、掃除できなくて困った』
*なぜ治郎がビジホに行ったか、誰と会う約束だったか。『知らない』
*志津は死んだ亭主にも、息子にも殴られていた様子。近隣の証言あり。本人は『そういうこともあった』とひかえめに認める程度。
*無気力であきらめきった顔つき。
メールはここで終わっていた。じつに和井田らしい、実用一点張りのメールである。
白石はビールのプルトップを開けた。
──世帯主は志津さんだった……。そうか、彼の父親は亡くなったのか。
缶を
治郎の父である薩摩
白石が報告書に記した評価は、「尊大。独善的。支配的。息子をコントロールしようとする。反抗を許さない。自我や欲求を押さえつける。高圧的な態度と物言いが目立つ」。
ちなみにこの態度は息子に対してだけではない。彼を知る人間はみな、
「初対面から威圧してくる、偉そうな人」
「傍若無人。無礼。人を人とも思わない」
「怒鳴って言うことを聞かせようとする、クレーマー気質の
と口を
白石はマウスを操り、テキストエディタを立ちあげた。
あの日の記憶が、津波のように押し寄せてくる。七年前に、はじめて薩摩家を訪問した日の記憶であった。
ぐるりと敷地を取り囲む赤土の油土塀。
玄関で白石を出迎えた、青白い志津の顔。
〝無気力であきらめきった顔つき。典型的
通された客間の上座には、すでに薩摩伊知郎が座っていた。そしてその隣には、白紙のごとく無表情な治郎がいた──。
白石は、キーボードを
* *
「こいつは、わたしが五十七歳のときにできた子なんだ」
薩摩伊知郎の第一声はそれであった。誇らしげに彼は言い、治郎の髪を乱暴に
親しみのこもった仕草というより、示威行為に見えた。わたしがなにをしようとこいつは文句を言わないんだ、従順なんだと見せつけるような態度だった。
当時、治郎は十七歳だった。
かたや父の伊知郎は七十四歳。
「いまの女房とは、三十二歳離れとる。三番目の女房さ。女と畳は新しいのに限ると言うが、新しいだけじゃ駄目だ。やはりガキを産める、まともな腹をした女でないとな。はははは」
伊知郎は座椅子にそっくりかえって
通された客間は十二畳の和室だった。手入れは悪くないが、障子紙が
伊知郎は、自分のことばかり一方的に話した。白石がなんの用件で訪問したかなど、まるで頓着しなかった。
いわく、資産家の生まれであること。不動産を多く所有し、親の遺産を受け継いで不労所得で暮らしていること。
現在の妻である志津は、伊知郎がお飾り役員を務める会社の事務員だったこと。志津が妊娠したため、退職させて籍を入れたこと。先妻と先々妻との間に子はなく、五十七にしてはじめての子宝に恵まれたこと。
「むろんDNA鑑定は済ませた。わたしはそういった雑事にも手ぬかりのない男だからな。正真正銘、治郎はわたしの子だ」
「人間五十年なんぞと言うが、いまの時代、男は五十からさ。三十の坂を越えたら一気に老けこむ女とは違い、男は三十、四十が遊びざかりだからな。二十年遊んで、五十になったら年貢を納めて子孫を残す。これが人生を正しく満喫するこつだ」
うそぶく伊知郎の横で、やはり治郎は身じろぎひとつしなかった。
志津はといえば、休まず立ち働きつづけていた。家政婦がいるはずなのに、任せて座る様子もない。茶を差し出したときに、袖口から痣が
「どうぞお母さんも座ってください。お話をうかがいたいですから」
白石は声をかけた。
伊知郎が、ちらと横目で志津を見やる。
志津は急いでまぶたを伏せた。
「こいつはいいんだよ。ろくにものも言えん女だ」
嘲るように、伊知郎はふん、と鼻から息を噴いた。
そそくさと志津が客間を出ていく。治郎はやはり、身を硬くして座っているだけだ。ふたたび伊知郎の自慢話がとめどなくつづく。
「あのう、すみません」
白石はなんとか割って入り、
「親御さんの立場から、今回の事件についてはどうお考えですか」
と
伊知郎がはじめて口ごもった。
「まあ、──そうだな。
煙草の煙を噴いてつづける。
「とはいえうちの子は被害者じゃないか。こいつは主犯の悪ガキに、かなりの金を脅し取られていたんだぞ。弁護士だって『訴えれば勝てる』と言っていた。被害者であるうちの子が、どうして家裁送りになぞされたのか、まったく納得いかんね」
伊知郎は横を向き、
「ちくしょう、こうなりゃほんとうに訴えてやるかな」
と独り言のように吐き捨てた。
「このままじゃ腹がおさまらん。くそいまいましい。……ガキが。馬鹿ガキがっ」
最後の罵倒は、
治郎がびくりと肩を震わせる。
薩摩父子を、白石は冷ややかに観察した。
白石
家裁送致となる少年たちの多くが恵まれない生い立ちであるとは、知識でも経験でも知っている。二十一世紀とは思えないほど貧しい暮らしの子がいた。親から売春を強いられている子もいた。程度の差はあれど、たいていの子が両親から適切な愛情をそそがれていなかった。
この薩摩家は、非行少年の家庭にありがちな貧困とは遠い。社会的弱者でも、福祉対象者でもない。しかし目の前の薩摩父子は、白石の目に〝典型的〟と映った。
──典型的な、支配型の虐待だ。
もちろん富裕な家庭でも虐待はめずらしくない。わが子を、暴力やモラルハラスメントで押さえつける親は多い。だが薩摩伊知郎は、いままで白石が見てきたタイプとはすこし違った。
富裕層の加虐常習者は、たいてい外面を取りつくろう。失うものが大きいからだ。保身のため弁護士のアドバイスを仰ぎ、家裁調査官の前では礼儀正しく殊勝にふるまうものだ。
しかし薩摩伊知郎からは、まるで保身の念が感じとれなかった。尊大な態度は大仰で、芝居がかって映るほどだ。
なにより白石が気になったのは、伊知郎自身の情緒不安定さだった。
家庭を支配しきっているはずなのに、彼の指さきや眼球は落ち着きなくきょときょとと動く。肩や腕の動きにチックが見られる。それに先ほどの、唐突な感情の爆発。
──これは、父親の伊知郎にもカウンセリングが必要なのではないか。
自己愛性パーソナリティ障害か。それとも反社会性パーソナリティ障害か。あの
いや、いまは治郎くんが最優先だ。
ぼくはあくまで治郎くんの担当調査官なのだ。調査のうちに伊知郎の病巣を感じとったとしても、まず救うべきは治郎くん当人だ。
──ともあれ、これは時間をかけるべきケースだな。
そう判断した。
暴君の父親。発言権のない無力な母親。ひたすらに萎縮して育ったらしい、自尊心の低い一人息子。
先も思ったように、ある意味で典型的である。それだけに一朝一夕で改善する関係ではなかった。
養育環境から、さかのぼっていかねばなるまい。治郎くんの性格がいかにして形成されたか知る必要がある。少年本人が変わらなければ、主犯から引き離したところで無駄だ。また別のいじめっ子にカモにされるだけだ。
白石は平静な顔をつくり、資料をめくった。
「治郎くんは中学生の頃に、不眠と不安障害で心療内科にかかっていますね」
「眠れないことくらい、誰にでもあるだろう」
てきめんに伊知郎が渋い顔になる。
「町医者に薬を出してもらっただけだ。息子はおかしくなったわけじゃない。今回の事件とも、とくに関係ない」
「もちろんです」
白石はうなずいた。
「ぼくが言いたいのはただ、治郎くんの心の安定が一番だということです。『眠れない、不安だ』、そんな焦燥は彼を追いつめるだけですよ。治郎くんの精神状態を改善させるためにも、
精一杯、穏やかに
家裁調査官は、少年の背景調査にあたって各関係機関と協力し合える。ここが最大の利点だと白石は思っていた。
担当医はもちろん、小中学校から高校の教師、福祉職員と、すべての専門家ならびに関係者から聞き取り調査し、協力を要請できる権利を持っている。
「では本日は、このへんで」
白石は腰を浮かせた。
「忙しい中、お時間を割いてくださってありがとうございました。治郎くん、ではまた来るからね」
治郎はわずかに顎を引いた。うなずいたらしかった。
結局最後まで、一言も発しないままだった。
(つづく)
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