カドブンで好評をいただいている、ミステリー『虜囚の犬』。
7月9日の書籍発売にあたり、公開期間が終了した物語冒頭を「もう一度読みたい!」、「ためし読みしてみたい」という声にお応えして、集中再掲載を実施します!
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(応募要項は記事末尾をご覧ください)
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4
ホームルームが終わって、海斗は中学校を出た。
日暮れにはまだ遠い五月の空は、どこまでも透きとおるような薄青を広げていた。近くの中華料理屋から、
海斗は両手を制服のポケットに突っこみ、一人で帰途をたどっていた。片耳に
夜は楽しくなった。でも学校は、相変わらずつまらないままだった。
海斗は校内に友達がいない。最近さぼりがちな塾でもそうだ。無口で団体行動が苦手な海斗は、生徒だけでなく教師にも持てあまされていた。
成績が上位のせいか、中学生になってからは、あからさまないじめはなくなった。
ただし遠巻きにされるようになった。
何度クラス替えしようと、「二人組をつくれ」、「五人で班になれ」と教師がかける号令で、輪から
「だんまりでキモいやつ」
「なに考えてるかわからない」
「笑ってるとこも、しゃべってるとこも見たことない」
クラスメイトの評価は、いつだってこうだ。
──幼稚園までは、おれだってまわりに溶けこめていたんだけどな。
言いわけのように、海斗は胸中でつぶやく。母さんが生きてた頃は、普通の子供だった。毎日遊ぶ友達だっていたんだ、と。
実母が入院したのは、海斗が五歳の秋だ。病院のベッドで息を引きとったのが、六歳の春。
葬儀、初七日、納骨式と四十九日を経て、〝父の後妻〟がやって来たのは、実母の死から八箇月後だった。
半年ほど、彼女は父の前では猫をかぶっていた。しかし越してきた当初から、海斗に対しては当たりがきつかった。
最初のうちは話しかけても無視する、睨む、舌打ち程度だった。
しかしみる間に、海斗のぶんだけ食事を用意しない、洗濯物を
とりわけ海斗がいやだったのは、彼が話すたび後妻が嘲笑ってきたことだ。
「しゃべりかたがおかしい」
「訛ってる」
「みっともない。こんな子を連れて歩いたら、あたしのほうが笑われる」
自然と海斗は無口になった。しゃべろうとしても、うまく言葉が出てこなくなった。意識すればするほど、舌がもつれて喉がつかえた。
そんな海斗を見て、後妻は顔をゆがめ、いやらしく口真似してみせた。
「『ぼくはぁ、ぼくはぁ』だってさ。ほら、もういっぺん言ってみなよ。さっきのキモい宇宙語をさ。『ぼくはぁ、ぼくはぁ……』って。ほら、早く」
海斗の発声と仕草を大げさにカリカチュアライズする後妻の顔は、暗い喜びと汗で光っていた。
「言ってみな。馬鹿みたいな顔して、さっきみたいに言ってみなよ」
「みんなあんたを笑ってるよ。あそこの子はおかしい、恥ずかしい子だって。みんな陰で笑ってる。知らないのはあんただけ」
「あたしを意地悪だって思ってる? 違うね、教育してやってんのよ。ほら、あの『ぼくはぁ、ぼくはぁ』をやってみな。うまくできたら、今日はテーブルでご飯を食べさせてあげる」
父は、おそらく気づいていたと思う。
しかし面と向かって後妻を
なにに対する「ごめん」なんだろう。海斗は思った。
あんな女を家に連れこんだことか。虐待を見て見ぬふりしていることか。それとも母が入院中から、あの女と付き合っていたことか。
訊きたかったが、訊けなかった。海斗は無言で、すこしも辛くないカレーをがつがつと胃に詰めこんだ。
どこまでが後妻の
最初は言葉が出てこない程度だった。その沈黙が、次第に長くなっていった。
話しかけられても詰まる。数分黙りこくる。その間はしゃべらないどころか、石のように動けなくなる。
その様子に、さすがの父も危機感を抱いたらしい。海斗は小児心療内科に連れていかれた。診断結果は「器質障害なし」。純粋に精神的なもので、激しいストレスが原因だろうと言われた。
しかし父は、ストレスの源を海斗から遠ざけることはなかった。後妻は國広家に居座りつづけた。
代わりに家庭から消えたのは、父自身だった。
父の帰宅時間はどんどん遅くなった。家で食事する回数が激減した。土日はやれ接待ゴルフだ、休日出勤だと外出ばかりだった。
逃げる父への不満を、後妻は海斗にぶつけた。
海斗は学校で「だんまり野郎」といじめられ、家では後妻に小突かれて
ある朝、海斗の糸はぶつりと切れた。
彼はランドセルを背負って、いつもの時間に家を出た。しかし学校へは向かわず、通学路をそれて駅に向かった。
財布には、お年玉を
海斗は電車に乗った。二千円で行けるぎりぎりいっぱいの駅で降り、残りの二万六千円を懐に四日間放浪した。
警察に保護されたのは、五日目の夜だ。彼は「帰りたくない」とごねた。なぜかそのときは、言葉がすんなりと喉を通った。
「帰りたくない。父も、父の後妻もぼくを嫌いだ。このまま死んだほうがいい。おまわりさん、ぼくに苦しくない死にかたを教えてください」
ただちに彼は病院へ搬送され、栄養点滴を受けた。大きな
病室を訪れた父は、しばしの間、絶句した。
やがて海斗の手を握り、ベッドの横にひざまずいて泣いた。
父の泣き声を聞きながら、海斗は眉ひとつ動かさなかった。後妻は来なかったんだなと、そのことだけに
児童相談所と民生委員の指導のもと、後妻の虐待は
しかし海斗本人は、指導は関係ないと思っている。彼が中学生になって、後妻より体格がまさったせいだと確信していた。その証拠にいまだ無視はつづいているし、海斗が家にいるだけで、彼女はいやな顔をする。なにひとつ解決などしていない。
歩きつづける海斗のポケットで、スマートフォンが鳴った。
未尋からのLINEだった。
──八時にマックな。いつもの席で。
海斗の頰がほころんだ。
未尋と知り合ってからというもの、彼の世界は一変していた。味気ない灰いろの風景が、いまは細部まであざやかに色づいて見えた。
歯医者の看板を左折する。
電柱を二本通り過ぎ、右へ曲がれば、三軒目の青い屋根が海斗の家だ。
与えられている合鍵で、玄関を開ける。
後妻の靴が三和土にあるのを視認する。
ただいまは言わなかった。向こうだって聞きたくはないだろう。無言で靴を脱ぎ、無言でキッチンに入り、冷蔵庫から缶コーヒーを一本抜いた。
彼が小学生の頃、この冷蔵庫には後付けの鍵が取りつけられていたものだ。飢えた海斗が勝手に開けないようにと、後妻が付けた鍵であった。ただし家出事件で児童相談所の指導が入って以降ははずされ、いまはいつ開けようが文句一つ言われない。
海斗は階段をのぼり、自室へ向かった。
ドアを開ける。学習机とベッドだけの、がらんとした部屋がそこにあった。
海斗は貴重品を自室に置かないようにしていた。実母の写真も形見も、かつて後妻にあらかた捨てられてしまったからだ。
いま彼は市立体育館のコインロッカーに、通帳や印鑑、民生委員の名刺、非常用の現金、実母の
仏壇から位牌が消えたことに、父も後妻もいまだ気づいていない様子だ。
現に仏壇は
海斗は床にスクールバッグを置いた。
溜まっていた洗濯物を抱え、階下へ降りる。洗濯機は全自動のドラム式で、洗濯から乾燥まで約一時間半である。セットを終え、ふたたび自室へと引き上げた。
ベッドに座り、海斗はスマートフォンを取り出した。
未尋にLINEのメッセージを送る。一分と経たず返事があり、画面に吹き出しとスタンプが並んでいく。思わず頰が緩んだ。
誰にも見せない笑顔で、海斗は親友にメッセージを打ちつづけた。
(つづく)
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