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試し読み

鬼と人の戦いと恋。第5回角川文庫キャラクター小説大賞〈優秀賞〉受賞作!『鬼恋綺譚』試し読み①

「鬼」がはびこる世界で、二人は出逢った。許されない想いをめぐる、圧倒的和風ファンタジー開幕! 刊行を記念し、3日間にわたって特別に試し読みを配信します。

 ◆ ◆ ◆

 地獄のように暗かった。
 少女はその暗闇の中を走っていた。
 霧雨がびっしりとそのきやしやな身体にまとわりついている。両の眼はもう随分と前から役には立っていない。闇と靄とに阻まれてほとんど何も見えないのだ。両腕を身体の前に伸ばし、指先に木の幹やかんぼくの枝が触れる感覚だけを頼りに、走るというよりはまろぶようにして前に進んでいる。
 一歩進むたびに灌木の根や地面のぬかるみに足をからめ捕られそうになる。枝葉は容赦なく頰をき切っていく。両脚は疲労のあまり枯れ木に変じたかのようにきしんでいる。どこもかしこも冷えきって、既に痛みは遠のいていた。それなのに心臓だけは、まるで破裂する瞬間を待っているかのように熱く燃えている。のどの奥に大量の綿を詰め込まれたように苦しかった。頭がもうろうとしていた。それでも少女は立ち止まらなかった。
(──さま……姫さま──)
 少女は口の中だけでうわ言のようにそう繰り返していた。もう二昼夜もこうして走り続けている。筋肉などほとんどついていない幼い身体は、とうにその限界を超えている。少女は今や気力だけで前に進んでいるのだ。
 しかしその気力もついに尽きる時が来た。ももを持ち上げる力を失い、それでもなお前に進もうとしたその瞬間、つまさきが絡み合った灌木の浮き上がった部分に引っ掛かったのだ。踏鞴たたらを踏み、あ、と思った時にはその小さな身体は虚空に投げ出されていた。
 悲鳴を上げる間もなかった。少女の身体はものすごい勢いできゆうこうばいを転落し始めた。必死に手を伸ばす。その指先にやっと灌木の根が触れた。だが雨にれたそれはひどく滑ってつかむことができない。瞬間、背中に強い衝撃を受けた。呼吸が詰まる。一瞬遅れて酷い痛みが背中から全身に広がる。こうばいに突き出た大きな岩に背骨を打ち付けてしまったのだ。
 少女は岩の上で身体を二つに折り曲げてあえいだ。あまりの痛みに声も出なかった。切り立った勾配ははるか下まで奈落のように続いている。これ以上の転落を免れたのは不幸中の幸いだった。だが岩肌の冷たさは、既に尽きようとしていた少女の体力をさらに容赦なく奪っていく。着物も髪も霧雨でぐっしょりと濡れそぼち、ほとんど飲まず食わずで走り続けた身体は搔き傷と打撲だらけで、ひんの獣のようにぐったりとして動かない。
 それでも、少女の眼は力を失ってはいなかった。闇の中、彼女はしかと前を見据えていた。
(待っていてください。必ずあたしが、この竜胆りんどうが姫さまを助けるから)
 少女は──竜胆は岩肌に爪を立てて、意識を失うまいと必死にあらがった。勾配の遥か上のほうからかすかに声が聞こえる。幾人かの男の声だ。血眼になって自分を捜している。あれに見つかったら終わりだ。あれは人の形をしているが、人ではないのだから。
 この夜闇の霧の中、がけの半ばにこうして息を潜めていればそう簡単に見つかりはしないだろう。だが頭ではそうわかっていても、恐怖はいやおうなく這い上がってくる。岩肌を摑んでいる指先は、爪が半ばほどまでがれて血が流れている。気の遠くなりそうな時間だった。恐怖と緊張、寒さと疲労に四方から押しつぶされて竜胆は意識を失いかけていた。それでも男たちが崖の上から去るのを自分の耳で確かめないまま気絶してしまうのが恐ろしくて、必死に両の眼に力をこめ意識を繫ぎ止め続けた。
 だが抵抗も空しく意識は混濁し、辺りは夜闇のはずなのに視界が白んでいく。
 その白い闇の中に、美しい女の姿がぼんやりと見えた気がした。
 背筋を伸ばしてたたずむその姿。こちらを慈しむしなやかな手、何があっても強さを失わぬひとみ、そして、優しくもりんとした微笑み。
(──姫さま──きくひめさま──)

 ──意識を失った竜胆の身体は、そのまま急勾配を転がり落ちた。奈落の谷底にほんのわずか水音が響き、しかしその音も間もなく濃い闇と霧雨に覆い隠される。
 夜闇に静寂が戻った。まるで、初めから何事もなかったかのように。
 まるで、──暗く深い井戸の底のように。

 小さな湾に臨む、そびえ立つしゆんぽうに三方を囲まれたその小さなくにてらりようという。
 波が高くごつごつとした大岩が無数に突き出た海。切り立った崖と険しい森が交互に連なる山岳。一年を通して日照時間が少なく、夏でも寒冷な気候の土地だ。潮風も強く吹くので農作には向かないが、その代わりに豊かな海産物がれる。だからこの地の領民はほとんどが漁師だった。また荒い海で舟を操る技術にもけていたため、他の領に小さな舟一そうで赴いては、魚や海藻の加工したものなどを売ったり、あるいは舟をぐこと自体を商売にしたりして生計を立てていた。
 時の小寺領主は五代目、名をのりもとという。
 彼は己の赤子の頃から変わらないたけだけしい海の景観を愛し、雄々しい山岳の景観を愛していた。則職は領のおさでありながら漁師でもあった。領を治める傍ら、暇を見つけては男衆を率いてふんどし一丁で舟に乗り、おかで待つ女子どものために網いっぱいの魚や昆布を獲って帰った。
 舟の外でも則職はとても領民から近しい存在だった。いつも領民のことを気に掛け、町を散策しては、大人も子どもも女も男も構わず声を掛けた。民家の屋根が抜けたの、橋が落ちたのと聞けばすぐさま飛んでいって町のとびたちに交じる。泣いている子どもがいれば抱き上げてあやし、脚の固まった老婆がいれば背負って散歩に連れて行く。時には陽だまりで微睡まどろむ猫の相手もした。領の中を己の目で見て耳で聞くから、土地の整備もよく行き届いた。
 則職の住まいは、領主の邸宅としては質素すぎるほどに小さな屋敷だった。先代の頃にはもっと大きな屋敷だったのだが、自分には似つかわしくないと言って改築してしまったのだ。そして則職は、日照時間の少ない領内が少しでも明るくなればと、屋敷の壁や屋根を自らの手で真っ白に塗った。領民は「港町なのにかもめじゃなく間抜けなしらさぎが迷い込んだようだ」と軽口をたたきながらも、則職の心根に喜び、彼を慕った。
 冷たい風の吹く夏も、凍りつく冬も、則職と領民は手に手を取り合い支え合って暮らしていた。決して大きくはない領だけれども、町には活気があふれ、そこにはいつも笑顔が満ちていた。それは一見、とても美しく豊かな領の姿のようだった。
 だが、やがて小寺領の領民は散り散りになった。互いに行き先すらも告げないままに小寺領を去り、誰一人残らず何処かへ身を潜めてしまったのだ。
 それは領を揺るがす大きな異変が起こったからだった。
 ──則職が急死したのである。

 小寺則職の死のてんまつの始まりがどこにあったのか、領民の中に知る者はない。
 彼らが知り得たのは、己の領主がどこかの誰かからひどく恨まれていたらしいということと──そのどこかの誰かが則職を殺すために、手勢を引き連れ、大挙して領へ押し寄せてきたということだけだ。
 罪なき領民のうち、領主をまもろうと先陣を切って戦った若い男たちから順に死んでいった。則職が敵の大将に討たれたとの知らせは、それからほどなくして領中に広がった。生き残った者たちはうのていで、取るものも取りえず領から逃げ出した。そして誰一人戻ってこなかった。則職という偉大な指導者を失ったことで、領民の統率を取る者が誰もいなくなったのが理由のひとつではあった。だが、さらに大きな理由がもうひとつ。
 それは──小寺領を襲った連中が、だったからだった。
 否、姿形は確かに人に間違いなかった。しかし逃げ惑う領民たちが揃って口にしたのは、「鬼だ」「恐ろしく力の強い鬼たちが襲ってきた」という、半ば絵空事のような話だったのである。
 勇敢な小寺の若者たちは、まさか相手が鬼だなどとは思いもよらずに立ち向かった。それほどまでに彼らの見た目は何の変哲もない、ただの武装した男たちだったのだ。だが、その何の変哲もない男たちは、まるで小枝でも扱うかのように小寺の若者たちの身体を片手で軽々と持ち上げた。そして造作もなくその手足を、あるいはくびの骨をぽきりと折った。ある者は紙を裂くように、胴から二つに千切られた。またある者は全身の骨を粉々に砕かれた。特別屈強にも見えない男たちの手で、それらは行なわれた。その残虐さは見せしめのようにも思えた。逃げ延びた領民は──あるいは死んだ領民は──知る由もなかったが、中でも則職の死体は一際念入りに、残酷に、破壊されていた。
 ──そう、ただ善良に生きてきた領民は知る由もなかったのだ。なぜ則職が、そして彼が愛していた領民がこんな目に遭わねばならなかったのか。
 冷たい風の吹く夏も、凍りつく冬も、則職と領民は手に手を取り合い支え合って暮らしていた。そしてそれは領民にとっても真実であり、領はとても美しく豊かだった。
 だが余人の目にはそうではなかったのだ。
 小寺領よりも遥か南東に位置するあおやまりよう。土地柄、米がよく育つことが幸いし、領は豊かだったという。その領民の数は小寺領民の三倍とも五倍とも言われる。小寺領と隣接していたわけではないが、海産物と米との取引もかつては盛んに行なわれていた。
 小寺領を急襲し則職らを襲った鬼たちの大将は、その青山領の領主だったのである。
 時の領主の名はあおやまてつざん。彼は則職に強い恨みを持っていた。則職を討ち、則職が大事にしていた小寺領をじゆうりんすることで、その恨みを晴らしたのだ。
 青山による小寺領襲撃の数日前に邸宅に盗人ぬすつとが入り、則職が軽い怪我を負う騒ぎがあったが、恐らくそれは青山の斥候の仕業だったのだろう。狂気に取りかれたようにさつりくを楽しむ鬼たちの中で、しかし鉄山だけは、「きよ、きよ」とうめいて泣きながら則職の手足を砕いた。逃げる手段を失った則職の、必死のいのちいなどまるで聞こえないふうで、遠くを見るでもなく見つめながら、どこか処刑人のように彼を殺したのだった。そしてその時の鉄山のそうぼうは──まるで人ならざる者である己を証明するかのように、白目と黒目の色が反転していたという。
 小寺の民の遺体がその後どうなったのか、知る者はない。鬼に殺された者は、小寺領の総数からすればほんの一部だったけれども、そのほとんどが腕力と指導力の両方を持つ者たちだった。後に六代目小寺領主となる則職の長男だけが幸運にも逃げ延びてはいたが、彼は生まれつき肺が弱く、気が優しすぎる性分で戦には向かなかった。領民を統率できる、指導者たり得る者はもはやおらず、小寺領は事実上、滅んだも同然だった。
 小寺の湾岸からは人々の姿が消えた。強い潮風にあおられて、無人の町は急激に寂れていった。四方を豊かだが厳しい自然に囲まれたこの地には、海からも山からも訪れる者は一人もなかった。
 一方の青山領も、時を同じくして滅びの道を辿たどった。青山の地にもともと鬼が人のふりをして住み着いていたのか、それとも人が突如鬼へと変じてしまったのか、当の青山領民以外に知るすべはない。だがいずれにせよ、青山領は鬼が棲まう地とされ、他領の人々は忌むようになった。
 ──もう、三十二年も昔の話である。

 その後、則職の死から十二年ほども経過した頃、則職の長男である六代目小寺と妻との間に娘が生まれた。その頃、六代目小寺夫妻はわずかばかりの使用人とともに、小寺領からはるか南へ下った場所にある小さな他領の片隅に隠れ住んでいた。この十二年の間に、ともに小寺領から逃げてきた仲間の多くを失った。青山の鬼たちは、まるで匂いを追う獣のように小寺の領民を追いかけてきて、時折気まぐれのように殺したり、さらっていったりするのだった。各地に散ったであろう他の小寺領民も、果たしてどれだけ生き残っていることか。
 そして──これこそが致命的な問題だ──、鬼に追われる小寺の人々の逃走は実に困難を極めた。どれだけ青山領からできるだけ離れよう、できるだけ遠くへ逃げようと思っても、それがのだ。六代目小寺とその一行も、本当ならばもっと遥か遠くへ、北でも南でもとにかく果てへと逃げる算段を立てていた。だがそれができない。「ここまで来れば大丈夫だろう」と思うほど遠くへ移動してきたはずなのに、いつの間にか元来た道を戻ってしまっているのだ。まるで見えない壁に阻まれているかのように、あるいは何か大きな力によっていつの間にかくるりと向きを変えられてしまっているかのように、何度試しても遠くへ逃げることができないのである。それどころか、逃げているつもりが知らぬ間に青山領のほど近くまで歩いていき、むざむざと鬼に攫われてしまう者すら出てくる始末だった。鬼が施した何らかのじゆとらわれているのだ、と誰ともなく言い出した。理由がわかったところで解決策などなく、絶望が深まっただけだった。失意の底で自害する者が出始めたのもこの頃だった。
 そんな中、六代目小寺夫妻は懸命に生き続けた。領主が生きるとは領民が生きることと同義である。夫妻は身分を隠して自ら村里に下り、せめて自分たちの周囲にいる領民の分だけでもと食い扶持ぶちを稼いだ。里の者に身元を怪しまれたら、さりげなく姿を消し、また別の村里に移動する。それを繰り返す。働ける気力の残っている領民も夫妻に続く。刀を取って戦うことはできなくとも、六代目小寺もまた、間違いなく領民を護る領主であった。
 しかしその六代目小寺夫妻もやがてとんした。青山の鬼の仕業ではなく、金銭狙いの暴漢に襲われての、あまりにあつない最期だった。のこされた使用人たちは亡き主人の幼い忘れ形見を連れ、さらに他領から他領へと渡り歩いてその片隅に潜み続けた。
 その時、則職の死からは十七年が経過していた。幼くして七代目小寺領主の名を戴いた娘は、この時わずか五歳だった。
 ──名を、菊という。

(つづく)



沙川りさ『鬼恋綺譚 流浪の鬼と宿命の姫』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321911000248/


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