鬼恋綺譚 流浪の鬼と宿命の姫

鬼に喰われて死んだ赤ん坊。残された家族を救うため、秘術を持つ薬師・文梧が立ち上がる!『鬼恋綺譚』試し読み②
「鬼」がはびこる世界で、二人は出逢った。許されない想いをめぐる、圧倒的和風ファンタジー開幕! 刊行を記念し、3日間にわたって特別に試し読みを配信します。
>>試し読み第1回へ
◆ ◆ ◆
小寺則職の長男である六代目小寺の急逝から十余年。
七代目当主、菊は、快活な少女だった。鬼の目を逃れた隠れ家生活を強いられているにも
そんな菊が間もなく十七歳になる春のことだった。
菊は生まれた時から常に青山の鬼に追われ続けていた。菊だけではない。小寺領の出身者は誰であろうと例外なくその標的となり得て、匂いを嗅ぎつけられれば襲われてしまう。菊は平和な時代を知らない。誰かに追われずに暮らせる安穏とした生活を知らなかった。
──どうか皆生き延びて。小寺の領主である私が皆を
菊は痛む胸と一緒に、懐に隠し持った短刀を強く握り締めた。短刀の扱い方を誰に習ったわけでもないが、護身のために持ち歩いているのだ。顔を上げたその時、
その時──菊の背後から下草を踏み分けるような音がした。
菊は初め、使用人の誰かが心配して後を
やがて彼女は前方に仔狸が
ぐるる、と背後にいるものが
その一瞬後、菊は自分の身体が虚空へ投げ出されるのを感じた。
背筋が冷えた。後ずさろうとするが腰が立たない。同じく動けないでいる仔狸を抱き締めたまま、菊はただ熊を見上げているしかない。菊の頭よりも大きな
熊がとうとう急勾配に肢を踏み出した。土煙を上げながら崖を滑り降りてくる。そして勾配の半ばほどに差し掛かるや、熊は後肢に力を込めた。来る、と菊が悟った時には、熊は彼女目掛けて飛び掛かってきていた。
その瞬間、菊は何も考えられなかった。生きることも死ぬことも念頭に浮かばず、ただ目の前の受け入れ
だから──その人影が目の前に飛び込んでくるのを、彼女はただ見ていた。
その人影は菊と熊との間を遮り、そして幾ばくの
少年だった。菊と同じ年頃の少年が血に
「怪我はねぇか」
自分が問われているのだ、とわかっていても菊には答えられなかった。恐怖があまりに急激に襲ってきて、そして急激に去っていったために、頭も身体も事態に追いつかず声を出すことができなかったのだ。少年はわずかに
「どこか痛むのか」
違う、と答えたいがやはり唇が震えるだけで声が出ない。少年は菊のほうに近づいてきた。熊を一撃で倒すほどの剣技を持っているとは到底思えないような、体格も顔つきもごく普通の少年だ。少年は菊の傍らに
「怖がらないでくれ。何もしねぇよ」
少年はそう言うとすぐに手を引っ込めた。そのよく陽に
「奴の爪が
菊は喉を震わせた。出ない声の代わりに、眼の奥が熱くなって涙が
「ああもう、泣くんじゃねぇよ。
少年の手つきは限りなく優しい。それが余計に菊には
「怖かったか? それともやっぱりどこか痛むのか」
菊はただ
──自分がもっと強かったなら。
「……まない……すまない……」
ようやく絞り出した声も、やはり震えてしまってうまく言葉にはならなかった。
冷静になってよく見ると、少年の身体には腕の他にも傷跡が沢山あった。それらはどうやら昨日今日に付いたものではなかった。既に
しばらく泣いたお
「お助けくださり、ありがとうございました。お蔭様で命永らえました」
少年は面食らったようだった。
「そんな丁寧に礼を言われるようなことをした覚えはねぇよ。顔を上げてくれ、そんなことされても困っちまう」
菊は少し躊躇いながらも顔を上げる。少年は当惑しきった顔で菊を見下ろしている。
とても
視線を外したのは少年のほうが先だった。やおら菊の手を取り、土を払ってくれる。ごつごつと骨っぽい手だった。手のひらの指の付け根には、刀を扱う者特有の
──この手が自分を救ってくれたのだ。
「どうした?」
再び押し黙り
「……私は悔しい。自分の身すら護れず、お前様に怪我までさせてしまって」
「だから大したことねぇって。変に気に病むんじゃねぇよ」
「ではせめて、お前様の傷の手当てをさせてはくださいませんか。良い薬があります」
菊は帯に挟んでいた厚い帳面を取り出してみせた。ぱらぱらと頁を
「こりゃあすげぇな。あんた、
「母の実家が
言って菊は腕と脚に力をこめた。だが意に反して手足は痙攣するばかりで、
「危なっかしい娘だな。悲鳴ぐらい上げたらどうなんだ」
言葉に反してその声はひどく優しかった。それでますます菊の胸は痛んだ。
「……申し訳ありません」
「別に謝ることねぇけどよ。まだ無理して動かないほうがいい」
「ですが、傷が痛むのでしょう? 私のせいで……」
「違う。俺が勝手にやったことだ。それに薬が必要なほど大げさな傷でもねぇしな」
少年は
「こんなものでも、ないよりはいいでしょう?」
菊は控えめに微笑んでみせた。少年は、あんたなぁ、としばし視線を右往左往させていたが、やがて深々と嘆息した。そして菊に背を向けて屈む。
「乗れ」
え、と菊は目を
「崖の上まで送ってやるから。足が動くようになっても登れねぇだろ、その細腕じゃ」
もう一度、今度は身体ごと促される。菊は迷いながらもおずおずと少年の肩にしがみ付いた。特別力があるようには見えないのに、少年は菊を背負ったまま軽々と立ち上がった。
「あんた、この辺の村の娘か? うちはどこだ?」
家まで送ると言わんばかりの口ぶりだった。菊は二つの意味で躊躇した。
巨熊から助けてもらった上に怪我までさせてしまったのに、薬を作ることもできず、その上その相手に背負われて家まで帰るのではあまりにも申し訳ないし情けない。
それに──この少年が青山衆でないという証拠は、どこにもない。
菊は思わず黙り込んだ。その様子から何かを感じ取ったのか、少年は軽い口ぶりで言う。
「なら、やっぱり
少年は少しも気分を害した様子がなかった。菊は思わず少年の首に、控えめに、だがきつく抱きついた。この少年の厚意を、素直に受け取ることすらできない身の上の自分。それが何より憤ろしく、哀しい。
「……あんた」
至近距離から少年の少し怒ったような声が聞こえた。
「どうにも良くねぇなぁ。世間知らずっつーか、妙に隙があるっつーか」
「……? どういうことです?」
「胸があたってる」
菊は慌てて
「そんだけ動けりゃ一人でも大丈夫だな。相変わらず悲鳴の一つも出ねぇけど」
「っ、からかったのですか!?」
「
菊は
「怒らないでくれ。悪かったよ。そうだ、まだ名乗ってなかったな。俺は
「……菊。私は、菊」
菊は
「お菊か。あんたに似合いの良い名だな」
「……ありがとう。元信様はこの辺りにお住まいですか?」
「このところこの山で寝泊りしてるのは間違いねぇな」
元信はそう言って菊の質問を
──ひょっとするとこの少年もまた、菊と同じように、何らかの事情を抱えているのだろうか。
その不確かな想像は、しかし菊にある決断をさせるのに十分だった。
「──元信様。一つ、頼まれてはくださらないでしょうか」
「ん? 何だ?」
元信は顔だけで振り返る。菊は元信の肩に添えた両手にわずかに力をこめた。
「私に、刀を教えて頂きたいのです」
何、と元信は立ち止まる。菊は押し殺した声で続ける。
「私は一人では何もできない
菊が今日まで生き延びてこられたのは、いざとなったら
「お願い。お願いします。私は強くなりたいのです」
菊は元信の背中に向かって頭を下げた。元信は困惑した様子である。
「俺は別に構わねぇが……。だがあんた、そんなことを言うのは何か事情があってのことなんだろう? 俺みたいな得体の知れない野郎が相手で怖くねぇのか?」
菊は
元信は深く嘆息した。そして観念したように
「俺は大抵いつもこの山にいる。この辺りで剣術の修行をしてる。そのついでにあんたの剣技を見てやるよ。ただし俺の
菊は神妙な面持ちで頷いた。元信は、あ、と思い出したように付け足す。
「それと、一つ条件がある」
「何です? 何でも言ってください、私にできることなら」
勢い込んで菊が言う。すると元信は少しはにかんだように笑った。
「さっきあんたが言ってた傷薬、今度会ったときに作ってくれよ」
菊は思わず顔を
「──喜んで、元信様」
(つづく)
▼沙川りさ『鬼恋綺譚 流浪の鬼と宿命の姫』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/321911000248/