鬼恋綺譚 流浪の鬼と宿命の姫
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圧倒的・純和風幻想譚! 生き血を吸う鬼と人の終わりなき戦いと恋『鬼恋綺譚』試し読み③
「鬼」がはびこる世界で、二人は出逢った。許されない想いをめぐる、圧倒的和風ファンタジー開幕! 刊行を記念し、3日間にわたって特別に試し読みを配信します。
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◆ ◆ ◆
その日から、菊と元信の修行生活が始まった。
互いに互いのことは何一つ知らないに等しい。それでも二人はひとたび会えば半日近くをともに過ごした。元信はとても熱心に厳しく菊を教えたし、菊も必死に稽古に
菊の扱う刀は大刀ではなく、手にずっと慣れ親しんだ短刀だ。少女の細腕で無理に大刀を覚えるよりも、菊の長所である身軽さを
稽古をつける元信のほうが驚くほど、菊の
元信もとても良い師だった。聞けば菊と同い年だというが、まるで頼れる兄のように菊は感じた。ひとたび刀を握ればとにかく厳しく、そうでない時は菊がうろたえてしまうほど優しいのだ。獲物を狙う
元信はまた、菊が知らないことを沢山知っていた。刀の扱い方は言うに及ばず、山の安全な歩き方、水場の見つけ方、獣の捕らえ方に肉の
そんな元信に、菊は次第に
だが彼女はその想いを自覚することをひどく恐れた。生きるか死ぬかの毎日、まして自分は領民を護るべき領主だ。こんな浮ついた感情にうつつを抜かすわけにはいかない。菊は己にきつくそう言い聞かせた。だが毎日元信に会って刀を教わらねばならない。こちらを
「そうだ。そこですぐに脇を締めて重心を低く落とすんだ。軸足の力を緩めるな」
刀を交えながら元信が言う。その力は
まっすぐに菊を見つめる深い夜の湖のような
「気が散じてるぜ、お菊。もし俺が真剣を使っていたらお前は死んじまっていたところだ」
はい、と菊は慌てて起き上がる。その拍子に手首が痛んだが気にせずに短刀を構えた。元信との稽古を始める前に比べて、痛みに対する耐性や痛みをごまかす方法まで鍛えられたようで、菊は今や少々の傷や
「すまない。今一度手合わせ願います、元信様」
「その意気だ。来い」
元信が刀を構える。菊は地面を強く
(──今度こそ元信様に
菊は己のその思考に
(何を考えているのだ、私は。そんなことは刀の鍛錬には何の関係もないはずなのに)
菊は奥歯を食い縛った。とにかく今は目の前の刀だけに集中しなければ。だがそうしようとするあまり、傍の
「毒虫がいた。刺されてねぇか?」
はい、と言いかけて、菊は気づく。元信が放った枝の先に見えたもの。その大きな百足は、おぞましく
元信の左手、その親指の腹が
「お前様はいつも私に怪我を隠す」
元信はばつが悪そうに笑った。菊はさらに元信を睨む。
「笑い事ではありません。なぜ言ってはくださらないのです。私だって、私だってお前様に──」
──助けられてばかりなのじゃなく、力になりたいのに。
そう言いかけて菊は思わず口を
元信は笑った。屈託のないようでどこか寂しげな陰を帯びた、ひどく複雑な笑みだった。
「俺はお前の前では強がっていたいんだよ、お菊」
「何故です。いくら師のお立場といえど──いいえ、今はそのようなことはどうでもいい」
菊はかぶりを振り、着物の合わせから小さな
「手当てもさせてはくださらないのですか?」
知らず
しばしの沈黙の後、菊は口を開いた。
「……ありがとう。助けてくださって」
言葉にした途端、涙がこみ上げてきて慌てて口を引き結んだ。
修行を始めたての頃は、倒れ込むたびに元信が助け起こしてくれるのが、まるで赤子のように扱われているようで
元信はじっと菊を見つめている。顔を上げることのできない菊に、だが彼は視線を外す気配はない。
「──何も、自分一人で何もかもできるようになる必要はねぇよ」
菊は
視線が交わった。
「俺にだって毒虫に刺された後の応急処置ぐらいなら、できる。だが
「え……」
「ありがとう」
元信が微笑んだ。そしてすぐに、再び菊から視線を外した。
心臓が痛いほど収縮した。その痛みの逃がし方がわからず、菊は咄嗟に元信の手を一瞬、強く握った。
元信が何かを言いかけた。だが菊は気づかないふりをして手当てに戻る。だから結局、それがきちんとした言葉になることはなかった。
「──姫様、お茶が入りましたよ」
菊の傍仕えの使用人、
「ありがとう、お光。一緒に頂きましょう」
はい、と光は穏やかに微笑んだ。
「いい月夜でございますね」
ええ、と答える菊はどこか上の空だった。そのきめの細かい頰や手の甲に小さな
──朝も早くから外出しては夕刻に生傷だらけで帰ってくる菊に、最初こそ使用人たちは肝の冷える思いをさせられた。何があったと問うても剣を学んでいたと答えるだけで、誰にとも、どこでとも言わないのだ。それでも使用人たちは、自分たちが菊を止めねばならない立場であるとわかっていながらも、どうしてもそうすることができなかった。
菊は幼少の頃から、領主たりえる人間になりたいとずっと願っていた。そしてそのための努力を惜しまず生きてきた。そのことはずっと菊の傍にいた使用人たちが一番よく知っている。すべては領民、つまり自分たちのためにしてくれていることなのだと思えば、彼女を止めることなどできるはずもないのだ。
菊は茶碗を手にしたが、口をつけることなくぼんやりと両手で包んでいるだけだ。そして無意識にだろう、寂しげに
「姫様。何事か、お心に
菊ははっと我に返った。光は身を乗り出して訴える。
「もしそうならば、この光に何でも
「な──なんでもありません。本当になんでもないのです」
菊は
「心配をかけて悪いことをした。私はただ、自分の剣技があまりにも
それが咄嗟の噓であることなどすぐにわかった。それでも菊の心を
光はしばらく黙って菊の顔を見つめていたが、やがて頭を下げ、自分の茶碗だけを持って部屋から出ていった。
残された菊は一人、茶碗を握り締めたまま
胸の奥が酷く痛む。家族同然の光の優しさにさえ
(打ち明けられるはずがない……だって、私は)
涙が
こうしている今も、頭の中に浮かんでは心を弾ませていく存在がある。いつでも何をしていても頭から離れず、胸の奥を
毒虫から自分を
否、ずっと目を背けていただけで、本当は最初から知っていたのだ。
あの痛いほどの心臓の鼓動も、──その後彼の手を強く握った己の手も、この想いを知っていた。
「私は、元信様を──」
──愛してしまっている。
菊は震える声で
そしてその絶望は、苦悩の中でなお沸き上がり続ける、元信への想いの強さに他ならなかったのだ。
苦悩の
菊の何物にも屈しない強い光を持った
しかし元信は、菊のそれとはまるで異なる
──元信は、菊が小寺の領主であることに気づいていたのである。
昼間の
元信の野営場所は、修行場所から一
元信は
思わず元信が項垂れたとき、背後からふんわりと
「気配を殺して現れんなよ、
「あらぁ? 冷たい反応だこと」
背後の女はくすくすと笑ってするりと腕を解いた。元信が振り返ると、着崩した着物に緩いまとめ髪の、どこか
「久々に会った友に対してその態度は
白妙は元信にしなだれかかるようにして身体をすり寄せてきた。白檀の香りが強く漂ってきて元信はげんなりと嘆息する。
「俺の目下の悩みはな、誰かの香がきつすぎることだ」
「あらそ。でも『あのひと』はこの香りが好きなのよ。だからあんたが我慢なさいな」
白妙は
「差し入れ。あんたの好きなお団子よ、
包みを元信に軽く投げて
「……ありがとな」
「いーえ。優しいこの大親友様に感謝なさいな」
「ああ。本当に感謝してるんだぜ、白妙。お前の手引きがなきゃ、今頃俺は──」
「それは言いっこなしよ、元信。あんたとあたしの仲じゃないの」
白妙は笑った。いちいち意味ありげな言いようだが、彼女はかつて元信に対し、面と向かって「好みじゃない」と言い放った
彼女はやおら笑みを収めて視線を落とした。
「それに、今日あたしはあんたに、酷い
元信は
「……すぐに戻ってこい、ですって。『あのひと』が」
元信の肩が震えた。指に力が入り、手の中の包みが押し
「……
言って白妙は元信の手を自分の手で包み込み、慰めるように彼の肩に頰をすり寄せた。
「あんたの望みを
「わかってる」
元信は吐き棄てた。白妙はそんな彼の背中を軽く
「先に戻って待ってるわ」
白妙が背を向ける。そして顔だけで振り返り、告げた。
「──『青山』で」
次の瞬間、風が鋭く
後には木々のざわめきと、濃厚な白檀の香りだけが残った。
(この続きは本書でお楽しみください)
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