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試し読み

王城の中庭には、いるはずのない子どもがいた。【日向理恵子『ネバーブルーの伝説』試し読み#8】

少年たちは旅に出る。
消えることのない幻のインクで、
世界の真実を書き残すために。

「火狩りの王」シリーズの日向理恵子が綴る、ペンとインクの冒険ファンタジー『ネバーブルーの伝説』。
本書は写本士見習いの少年が任務で初めて他国を訪れ、世界の秘密へと近づいていく物語。圧倒的なスケールと文学的なモチーフで構築された冒険ファンタジーの試し読みを大ボリュームで公開いたします。
胸が高鳴る冒険の世界へ――まずは試し読みからお楽しみください!



日向理恵子『ネバーブルーの伝説』試し読み#8

 細い声が、僕に話しかけた。
〈みんないない。誰も、いなくなってしまった〉
 まるで、鳥が鳴いているみたいだった。それほど自然で、きれいな声だった。
〈お前は誰だ? どこから来た?〉
 樹の上の子どもが問う。おびえた猫みたいに背中をまるくこわばらせている。その周りに、きらきらと金の鈴がるされていた。赤い糸で結わえられ、星か雨つぶみたいにさまざまな高さで吊るされたそれは、やっぱり何かのお祝いの飾りのようだった。金の鈴と赤い糸、文字を書かれた白い紙の飾りのただ中で、子どもは警戒しきって、気配をとがらせている。
〈お、下りておいでよ。そんなところにいたら、危ないよ〉
〈誰だ?〉
 不思議だ。おかしい。会話が成立している。ノートもペンも使わずに、はじめて会った相手と。
〈僕は……写本士だよ。アスタリット星国の国立図書館から来た。ここにある本を救出するために──〉
 伝えきる前に、枝が騒いだ。空気がとがるのを、全身の皮膚が感じる。
〈書庫へ入ってはだめだ〉
 相手の声が、危うげに揺らいだ。命令するというより、懇願の響きだった。うつろを抱いた巨樹の、枝という枝がざわめく。風もないのに揺らぐ枝が、吊るされたおびただしい鈴を震わせた。樹の上の子どもがとっさに耳をふさぎ、幹に頭を押しつけて体を縮めた。
 このときになって、僕はやっと恐怖を感じた。状況の異様さが、ようやく神経をかき乱しはじめた。
〈だめ。書庫へ入るな。……あれが、起きてしまう〉
 樹の上の誰かは、はっきりと怯えていた。枝葉を透かしてこぼれ込んでいた陽光が、青黒くかげっていることに僕は気がつく。細い悲鳴が、廊下の向こうから聞こえた。
 何が起きたのか理解できないままに、心臓だけが拍動で恐怖を訴えた。浅くなる呼吸に、防塵マフラーが邪魔だった。
 樹が鎮まる。同時に鈴が鳴りやみ、ふいに重力すら消えたかのような、無音が訪れた。
 静けさの中を、ととと、と軽やかな足音が鳴る。廊下をのぞける窓の向こう。誰かが走ってくるのが見えた。黒くて顔はわからない。ただ、兵士でないのは確かだった。もっと細身で小柄だ。そして背中に、長く伸ばした三つ編みが揺れている。
 樹の上の誰かは、完全に気配を消している。そうやって生き延びる小動物みたいに、巧みに。だから、真下に突っ立っている僕の存在が、とてつもなく邪魔なはずだった。
 中庭へ下りる階段の上に、影が立つ。それは真っ黒で、濡れていた。まるで頭のてっぺんから黒いインクをかぶったみたいだ。その黒に染まりきらない、細い二本の三つ編みは灰色だった。たった四段の階段を下りて、さまようような足取りで中庭へ入ってきた真っ黒な影──それはまちがいなく、アスユリだった。
 何かまずいことが起きたにちがいない。アスユリに、何かあったんだ。怪我をしているのか、足取りが不自然だ。僕は自分がここにいることを知らせようと、身を乗り出しかけた。だけど片方の手は、空洞のある巨樹から決して離れようとしなかった。
 怖がっている。樹の上の子どもが、アスユリのことを。
 玉砂利を踏んで近づいてくる足音は、いびつなリズムを刻んでいた。ひざをまったく曲げないで、片足を引きずってくるみたいな。
 一瞬だけ──僕はちらと、樹の上の誰かを見上げてしまう。そのわずかな視線の動きが、アスユリの形をした影にこちらの存在を知らせた。影がこちらを見る。
 地面をる音。砂利がかみ合ってきしみ、はじける。つぎの瞬間には、黒く濡れた顔が、息がかかる距離に迫っていた。
 目も口もなかった。ただ人の輪郭をした真っ黒なものが目の前にあって、それがこっちを向いてるんだということだけがわかった。
 アスユリ、と呼ぼうとした。さっき僕は、樹の上にいる子どもと会話をすることができたんだ。なのに喉がぴたりとふさがって、声が出ない。いつものかすれた音さえ出なかった。アスユリの顔の真ん中、やや下あたりがくぼんだ。真っ暗な穴。口を開けたんだとわかった。
 叫び声が、ばくりと開いた黒い口から噴出した。アスユリの声じゃなかった。獣がたけっているみたいだ。言葉も知性も、そこにはなかった。
 黒い影はどうもうに叫びながら上を向き、やがてけたたましい笑い声を上げた。影が動き、伸びてきた手が僕の腕をつかんだ。気づくと僕は、植え込みに背中から突っ込んでいた。投げ飛ばされたのだと気づくがすぐに起き上がることができず、天地の感覚をとらえそこなう視界に、巨樹の幹を伝い上る黒いすがたが映った。
 しゃんしゃんと、鈴が鳴る。何かをことほぐような音色が中庭にあふれ、真っ黒な人影が樹をい上ってゆく。
 大気がうねり、空が暗くなる。サイレンが響く。軍の警報だ。
 鳥の断末魔のような長い音が、樹の上で響いた。あの子どもが、人間とは思えない声で叫んでいるのだ。仲間に危険を知らせようと、必死で悲鳴を上げている。だけどあの子がこの国の人間であるなら、危険を知らせるべき仲間は、もうここにはいないんだ。
 黒い影はアスユリの三つ編みを背後に引き連れて、あっというまに枝の上へ到達した。
 鈴が騒ぐ。無数の音の連なりが、血管の中まで入り込んでくる。庭の枝葉が鈴の音におののいて、その震えが体に伝染する。
 僕は走った。どうやって起き上がったのかはおぼえていない。なにが起きているのかわからない、でも樹の上に登って、あの子を助けないと──
 ちょうど僕が、巨樹の幹にしがみついたときだった。羽虫の群れみたいな影が、空を黒くしていった。につしよくのように辺りが暗く沈む。
 恐怖が体をつらぬいた。手足が動かない。目がとらえる危機に、意識が追いつかない。
「コボル、何やってるんだ!」
 ずっと後ろで誰かがどなる。足音。悲鳴。エンジン音。さっきまで満ちていた鈴の音が静まり、現実味のある音が耳に戻ってくる。だけど、その音のすべてが小さい。
 中庭から見える空を、真っ黒な砂嵐が覆ってゆく。本物を見たことがなくても、わかった。塵禍だ。あれが。でも、どうしていま? 塵禍が短期間に同じ場所を襲うことはないはずなのに。もしその危険があるなら、国軍が立ち入っているはずがない、そのはずなのに──
 頭上から破滅が降ってくる。アスユリそっくりの黒い影が、枝の上に両手両足で立つ。僕は完全に、なすすべがなかった。
〈逃げて〉
 慌てた声が、こちらへ響く。だけど僕は、動けなかった。同じ声が二重になって、同時にこう叫ぶのが伝わった。
〈助けて〉
 無我夢中だった。砂利を拾い、こんしんの力で樹の上へ投げた。枝の上の黒い影を狙った。ふたつ。三つ。四つ。当たらない。五つ目の小石を投げたのは、僕じゃなく青い制服の写本士だった。
「なんなんだよ、あれは!」
 ユキタムの投げた小石が、黒い影をかすめた。目も鼻もわからない顔が、ゆらりとこちらを向く。それが見えたかと思うと、僕は後ろざまに転倒していた。上から重いものがのしかかる。黒い影だった。枝の上から飛び降りて、邪魔をする僕に襲いかかったんだ。
 叫び声がして、いくつもの手が伸びてくる。書庫から中庭へ出てきた写本士たちが、僕から黒い影を引きはがそうとする。
 膝がみぞおちにめり込み、冷たい手が喉を絞めつけた。暗かった視界に、赤い色が滲んでゆく。黒くて冷たい影の肩から、やっぱり二本の三つ編みが垂れていて、丁寧に編まれたその髪は、アスユリの灰色のままだった。
「アスユリ、やめて!」
 ノラユが泣きわめく。必死の思いでつかんだ相手の手首は、こちらの手が痺れるほどに冷え切っていた。
 そのとき、空が千々に砕けた。鮮烈な光とごうおん。雷が僕の目と耳を麻痺させ、直後にすさまじい雨が、衝撃とともに全身を打ち据えた。中庭を襲う雨は、まるで滝だった。
 気道をふさがれ、腹部に体重をかけられて、僕は完全に抵抗するすべを失った。

 ◆

 大地の中央に、巨人が立ち上がった。
 石と土を母胎とし、地中から生まれた巨人である。
 目路の限り、まわりに生きた獣はおらず、そよぐ草さえなかった。ただ頭上に星々がひしめくばかりであった。
 巨人は手を伸ばし、星のひとつを取った。空からつかみ取っても、星はあかあかと輝きつづけていた。
 巨人は手すさびに、星を北へ向けて投げた。遠く飛び、やがて地面にぶつかると、星ははぜて明るく燃えた。大変温かな炎であった。
 その炎を気に入った巨人はまた星を取り、投げた。北東へ、東へ、西へ、南西へ。それぞれに炎が生まれた。海へ投げた星だけは、水に飲まれて燃え立たなかった。
 火の手を上げる五つの土地が、巨人の周りに生まれた。その明るいかがり火を目印として、巨人は星の落ちた地を巡り歩くことにした。火のもとに、自分の仲間となる者が集っているかもしれぬと考えた。
 最初の土地へ行った。北の土地である。巨人の投げた星の火で目をぎらつかせた犬たちが、無数に群れておぞましいにおいを放っていた。悪臭を嫌って、巨人は犬の群れに背を向けつぎの地へ向かった。
 北東へと、巨人は星の火をめざした。たどり着いたそこでは、巨人の投げた星に翼を打たれたおおわしが横たわり、ゆっくりと燃えていた。大鷲はすでに動かなかった。巨人はまたつぎの地をめざした。
 東の地では、しのつく雨が絶えることなく降っており、巨人が到達すると同時に星の火は消えた。雨はますます激しくなり、巨人は自分の手すら見えないほどであった。
 からがら雨雲の下から逃れると、巨人はつぎの地へ向かった。西の地には炎に耐えるため甲羅に隠れた大亀がおり、決して巨人のために顔を出そうとはしなかった。南西の地では海の波が、少しずつ炎を削り去ろうとしているところであった。
 巨人は疲れた足を引きずり、大地の中央へ戻った。
 どこにも、巨人を歓迎する者はいなかった。なぜ周りの地に仲間がいないのかといぶかった。
 巨人の体は、まだ東の地の雨でぬれており、ひどい寒さがかれを悩ませた。
 体が乾くのを待ちつづけるうち、巨人のあしもとから草木が芽を吹いた。茎を絡め、根を張り、植物は巨人の体から滋養を吸い取って生長した。
 やがて植物にいましめられ、巨人はその場から、二度と動くことができなくなった。
 草木に満たされ、葉陰と果実を求める鳥や獣を憩わせながら、巨人はいまもそこに立っているのである。

(つづく)

作品紹介



ネバーブルーの伝説
著者 日向 理恵子
発売日:2023年07月21日

「火狩りの王」シリーズの著者が綴る、ペンとインクの冒険ファンタジー!
「書物に仕えることが僕たちの仕事だ。書き残そう。二度とまちがえないように」

アスタリット星国で写本士見習いとして働く15歳のコボル。
写本士の仕事は、数年に一度起きる災害“塵禍”や戦争で滅びた他国から本を救出して正確に書き写し、文化をつないでいくことだ。
コボルは塵禍に見舞われた隣国・メイトロン龍国へ、仲間たちと初の任務に赴く。
龍の伝説が残るメイトロン龍国を調査するうち、アスタリット星国が隠していた真実を知ってしまったコボルたちは、孤独な戦いへと身を投じることになるが――。

圧倒的なスケールと文学的モチーフで構築される
胸が高鳴る冒険ファンタジー、開幕!

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/322212001339/
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