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試し読み

累計6万部! 各界著名人も絶賛した不朽のスポーツ小説!『七帝柔道記』超ボリューム試し読み【5/8】【3月18日続編発売】

尋常じゃない血と汗と涙で大反響を呼んだ青春小説の金字塔『七帝柔道記』。その11年ぶりとなる続編『七帝柔道記Ⅱ 立てる我が部ぞ力あり』が3月18日(月)に発売されます! これを記念して、『七帝柔道記』の超ボリューム試し読みを実施!
15人の団体戦、一本勝ちのみ、場外なし、参ったなし、締めは落ちるまで、関節技は折れるまで。旧七帝国大学のみで戦われる、寝技中心の異形の柔道「七帝柔道」。
その壮絶な世界に飛び込んだ主人公の青春を描いた本作は、柔道の話でありながら誰もが共感する普遍的な人間ドラマとして、各界で大絶賛されました。
とにかく面白過ぎて、読み始めたら徹夜必至! 至高の青春小説を是非お楽しみください!
< 続編『七帝柔道記Ⅱ 立てる我が部ぞ力あり』の試し読みはこちらから!




『七帝柔道記』超ボリューム試し読み【5/8】


第3章 寝技の洗礼とクラスの女の子たち

   

 次の日、練習が始まる三十分ほど前に道場へ行くと、新入生が二人来ていた。
 私より早く入学式の前日に入部した二人だった。道場の隅であいさつしあった。一人は工藤ゆう、一人は松井たかしといった。工藤はくしりよう高校出身で水産系、松井は滋賀県の虎姫高校出身で理3系だった。
 工藤は柔道初心者で体の線が細く、これで本当に柔道ができるのだろうかというほどきやしやだった。顔の造作がピノキオのようだった。ピノキオに見えるのは頭をつるつるにっていることにもよった。
 聞くと「けいてきの新歓でやられちゃってさ」と照れくさそうに言った。バンカラで有名な北大恵迪りようでは、新入生は二週間のうちに何十もある各部屋をひとつずつ挨拶回りし、そのたびにどんぶり一杯の酒を飲まされるという。つまり一晩に何升も空けることが二週間続くのだという。
 私は昨日から壁の紙に書かれた飛雄馬という名前が気になっていたので本人にたしかめると、案の定、漫画『巨人の星』のほし飛雄馬からそのままとった名前だった。父親が高校の野球部の監督だという。馬鹿馬鹿しいにもほどがあると思ったが、まだ会ったばかりなので黙っていた。
 松井隆は身長は私と同じくらいだが、ごろりとした丸い体格で厚みがあった。おっとりとして優しい男だった。虎姫高校柔道部時代に斉藤トラさんの二期後輩でトラさんが現役合格、松井が一浪なので三期開いたらしい。
「君らも着替えろ」
 斉藤トラさんが誘いに来た。
 私と松井は高校時代のどうを持ってきていた。初心者の飛雄馬は先輩から道衣を借りた。三人で道場脇でしやべりながら着替えた。
 着替えた先輩たちが部室からひとりずつ出てくる。そして道場の壁にそれぞれもたれこみ、黙って体のあちこちにテーピングテープやら包帯やらを巻きだした。
 その作業が終わっても誰もが黙ったまま練習が始まるのを待っていた。何も話さず、青い顔でじっとうつむいていた。なんとなく怖くなって私たち一年目も黙った。そして居心地悪く畳の上に座って練習が始まるのを待った。息が詰まるような静かさだった。異様な空気だった。
 主将の金澤さんだけが壁の大時計を見上げていた。
 不思議に思って見ていると、時計の分針がカチリと動いて四時を指した瞬間、「整列!」と大声を上げた。部員たちがサッと立ち上がり、道場中央に走っていって一列に正座した。
「正面に礼! 神前に礼!」
 金澤さんの号令で座礼をして、また全員が立ち上がった。せいひつさのなかから揃って動きだすさまは、本当に仏教の修行者の集まりのようだった。
 すぐにアップのために道場内を何周か走った。そしてストレッチをやり、寝技用だと思われるいくつかの見たことがない補強運動をやって、金澤さんが「寝技乱取り六分八本、八分二本!」と声を上げた。七帝戦は普通の柔道より試合時間が長く、せんぽうから十三人が六分間、副将と大将が八分間の試合時間だと昨日杉田さんから聞いていた。乱取りはこの七帝の試合時間に合わせて行われているようだ。
 北大の寝技乱取りは普通の柔道部のように互いに寝たところからスタートするのではなく、たちわざで組み合った後、隙をみてどちらかがしりもちをつくように寝技に引き込んでいた。おそらく立技から寝技へ移行する技術も磨かなければならないからだと思われた。
「よし、一年目集まって」
 杉田さんが呼んで、道場の隅で私たち三人に寝技への引き込みのやり方を指導しはじめた。普通の柔道では反則になっている「寝技への引き込み」技術を最初に教えるのはさすが七帝柔道だと思った。
 杉田さんによると、戦前、もともとは柔道の総本山講道館でもこの引き込みは認められていたのだという。それが「立技で投げたあと以外は寝技に移行してはならない」という現在のルールに改められた。高専柔道の強豪校である六高や四高が、講道館のたちをいきなり寝技に引きずり込んで破る試合が続出したからだという。当時はそれほど高専柔道の寝技技術は講道館の専門家たちを上回っていた。だから講道館が引き込み禁止のルールを作り、さらに寝技がしばらく続くと寝技のこうちやくとみなして『待て』と言って立たせ、立技から再開させるルールも付加した。これによって高専柔道の寝技を完全に封じ込んだ。それが大正十三年、つまり一九二四年のことだという。それがいま普通に全日本選手権や五輪で行われている柔道──講道館柔道だ。
 しかし「あっちのルールの方がおかしいんだ」と杉田さんは言った。
「柔道は格闘技なのに『自分から寝てはいけない』なんておかしいだろ。嘉納治五郎先生っていう講道館の創始者が、高専柔道大会を主催していた当時の帝大柔道連盟に何度も『引き込み禁止にルールを改正しろ』って迫ったらしいけど、『それは改正ではなく改悪になる』って言って応じなかったんだ。だから俺たち旧帝大だけはいまだにこの自由なルールで試合をやってんだ。寝技を五秒か十秒やっただけで『待て』って言って防御に回ってる選手を審判が助けて、また立技から再開するルールが格闘技といえるか? ボクシングでダウンしたら、レフェリーが『待て』って言ってカウントを数えずにダウンした選手が立ち上がるまで待ってもう一度立った姿勢から再開なんてありえるか?」
 たしかに杉田さんが言うとおりだった。
 寝技への引き込み方は教えてくれたが、杉田さんは柔道の最も基本的なルールを言わなかったので、飛雄馬が乱取りを見ながら私と松井を質問攻めにしてきた。飛雄馬は柔道は相手を遠くへ投げれば一本だと勘違いしていて私はびっくりした。漫画『柔道一直線』や映画『姿三四郎』などでゆがんだ柔道観が流布し、柔道初心者はこんなことも知らないのだ。
なげわざは相手を遠くに投げようとしてるわけじゃないんだ。相手を背中から畳にたたきつけようとしてるんだよ」
 私が言っても飛雄馬はよくわからないようだった。
 私と松井で説明した。柔道にはたちわざわざがあって、立技では相手を背負い投げやうちまたなどの投技で投げて背中から激しく畳に叩きつけたら一本となって試合が終わること、相手が腹ばいになって畳に落ちたり横向きに落ちたり頭から落ちたりしても一本とはならないこと、一本の八〇パーセントくらいの勢いで背中から落ちると「技あり」に、五〇パーセントくらいの勢いだと「有効」というポイントになることを教えた。そして世間ではこの講道館ルールとそれをさらにスポーツ化した国際ルールしか知られていないが、私たちがこれからやる七帝ルールでは一本勝ち以外は認められていないことを教えた。
 飛雄馬は寝技の抑え込みについても相手の上に乗りさえすれば成立すると誤解していた。
「違うんだよ」
 また私と松井でんで含めるように説明した。
 寝技では相手の背中を畳につけて三十秒間おさむか、絞め技か関節技で相手に「参った」させると一本になること、柔道での一本勝ちは寝技でのこの三つの場合と先ほど言った立技で背中から相手を叩きつける、この合計四つの場合しかないことを説明しなければならなかった。
 そして主審が「抑え込み」のコールをするのは、相手の背中全体を畳につけただけではだめで、上から攻める場合は、相手が両脚をこちらに向けて守っているその脚を越えて、つまり邪魔になっている脚をさばいて相手の頭側かサイドに回って上半身をしっかり抑えると「抑え込み」とコールされて三十秒を数えるのだと説明した。相手が下からこちらの脚を一本でもからんでいたら抑え込みにはならないので、最後はその絡まれた脚を抜いて抑え込むのが難しいのだと私と松井で実演しながら説明した。各種の抑え込み技、がためやよこほう固め、かみほう固め、くずれかみほう固め、たてほう固めなども実演して説明した。
 見ていた杉田さんが笑った。
「そんなこと教えてもおまえたちには必要ないことだ。上からの守りとカメの守りを覚えればいいんだぞ。最低でも一年は防御をやらなきゃ、どうせ攻めることなんてできないんだから。抑え込み方じゃなくて抑え込みからの逃げ方を覚えておけよ」
 松井が「一年間も攻めることができないんですか?」と心配そうに聞くと、杉田さんが「無理無理」と笑った。「やってみればわかることだ。松井と増田はちょっと乱取りに参加してみろよ。七帝ルールでやるとどんな感じになるか体験してみるのが一番早い。これがどっちが本当に強いかを決める一本勝ちのみの柔道デスマッチルールだ。下から攻めてくる寝技がどんなものか体験してみろ」と言った。
 私は三年前に名大生と乱取りしていたので言っている意味がなんとなくわかったが松井は不思議そうな顔をしていた。
 二人は三本目に乱取りに入ってみた。
 私は中量級の先輩にお願いした。組み合った瞬間、先輩は畳の上に素早く座り込むように寝た。下から襟を引きつけられた。信じられないほど力が強い。私が頭を上げようとすると、さらに引きつけられ、帯を握られて横に引っ繰り返され、横四方固めで抑えられた。ブルドーザーにかれ、キャタピラと地面の間につぶされているようなすさまじい圧力だった。あごの骨やろつこつが音をたててきしんだ。私が「痛いっ!」と声を上げると、先輩がびっくりしたように放した。
「どうしたん? どこが痛いん?」
 関西弁だった。
「いや、あちこち……」
「どこもめとらんけどな」
 先輩が首をかしげながら立ち上がった。もういちど組み合った。すぐにまた寝技に引き込まれた。今度はかなり手加減しているようだったが、簡単に引っ繰り返され、私の手首は帯で縛られて固定され、崩上四方に固められた。抑え込む圧力がとにかく強い。
「ほら。逃げれるぞ」
 先輩が言った。しかし、逃げるもなにも一センチすら動けなかった。先輩が技を解いて立ち上がった。私もはだけたどうを直しながら立ち上がったが、すでに息が上がっていた。なにしろ二年半ぶりの柔道だった。
「大丈夫か。慣れるまではゆっくりでいいんやで。もうやめときいや」
「すいません……」
 私は頭を下げて乱取りを抜けた。
 松井隆も道場の真ん中で別の先輩に横四方で抑え込まれていた。
「どうだ増田、寝技の洗礼は。強かっただろ」
 杉田さんが笑った。
「力が強くて……」
「寝技には立技と違ったパワーが必要なんだ。おまえとすえおかさんとそんなに体重違わないだろ」
「いまの人が末岡さんですか。昨日、和泉さんに聞きました。風邪ばっかり引いて体重増えてもすぐにせちゃうって。『あいつは〝風邪男〟いう名前なんじゃ』って言ってました」
「はっははは。そうそう。あの人、ぜんそく持ちなんだ。よし。じゃあ少し休んだら、今度はあの鏡の前で帯結び直してる上田さんとやってきてみな」
 二本休んで、私は上田さんのところへ乱取りをしよもうしに行った。体が細くて手脚が長く、アメンボのような体型だった。私より一〇キロくらい軽そうだ。組んだ瞬間、上田さんが寝技に引き込み、下から一気に右ひじの関節技をめてきた。
「痛い!」
 私は声を出して上田さんのふとももを叩いて参ったした。すぐに離してくれたが、私はひじを抱えて転がった。上田さんは立ち上がって何も言わずに待っていた。私がやっと起き上がると、また私の腕に飛びついて寝転がり、今度は左肘を極められた。
「痛い痛いっ」
 ももを叩くとすぐに離してくれたが、私は立ち上がれずにいた。上田さんは何事もなかったようにまた立ち上がって、道衣を直しながら左右の足を上げたり下げたりしていた。腕ひしぎ十字固めでもないし、うでがらみでもない。ひざを使って、そこをてこにしてひねられた。
 私は上田さんから離れるようにして立ち上がった。しかし、上田さんがニワトリのようにつつつと小走りで突っ込んで来て、また寝技に引っ張り込まれた。今度は両肘を曲げて関節技を取られないように注意したが、すねかかとで顔やら後頭部やらを何度もられ、それが鼻に当たって痛いと言おうとした瞬間、どうやられたのかわからないが、また左肘を逆に極められた。上田さんの太腿を何度も叩き、参ったした。肘も痛いが鼻も痛かった。鼻の奥がじんじんしびれた。
 上田さんは立ち上がってあいかわらずひようひようと道衣を直していた。あまりにとんちやくで飄々としたままなのでふうぼうまでニワトリに見えてきた。
「先輩、ちょっと待ってください……」
 座ったままそう言うと、「どうしたんだ?」と上田さんが聞いた。
「肘が痛くて……」
「痛かった?」
「痛いですよ」
「どこが?」
 私が痛がっているのが本当にわからないようだった。ちょうど乱取り相手交代の合図があった。私は両肘を抱えながら頭を下げて、杉田さんのところに戻った。
「どうだ。上田さんは関節技がうまいいだろう。いいか、自分が上から攻めるときは、相手の脚を一本越えるまで相手の帯より前に、つまり相手の上体側に手を出したらだめなんだよ。これは寝技の基本中の基本だ。絶対に関節技のじきになっちまう。ほら増田、あおけに寝てみろ」
 杉田さんは、私の上になって守り方を丁寧に教えてくれた。背筋を伸ばして相手に上半身を引っ張り込まれないようにするんだと言った。さらに自分がカメになったときの守り方も細かく教えてくれた。松井と飛雄馬も横に立って説明を聞いていた。
 杉田さんが言った。
「末岡さんも上田さんも白帯から始めたんだ」
「そうなんですか?」
 私が驚くと杉田さんは「七帝は、うちだけじゃなくて三割くらいが白帯スタートだ」と言った。
 私は八本目に四年目の斉藤トラさんに乱取りをお願いしにいってみた。
 近くで見るとやはり体が分厚く、顔から太い首回りまでびっしりとひげを生やしているさまはまさにおうそのものだった。組み合うとやはりトラさんもすぐにしりもちをつくように寝技に引き込んだ。私は杉田さんにいま教わったとおり上から守ろうとしたが、トラさんが左手で私の右の脇下をすくい、右手で私の道衣の背中を持って引きつけ、私を引っ繰り返した。その瞬間、大きな音がした。トラさんが笑いながら立ち上がった。
「おまえの道衣は弱いな」
 トラさんが言った。
 道衣を脱いでみると背中側が五〇センチほど裂けていた。凄まじい怪力だった。
「先輩の力が強いんですよ」
 私が息を弾ませながら言うと、トラさんはまた「道衣が弱いんだ」と豪快に笑った。そして「今日はもういいだろ。横で見てろ」と言った。
 私は頭を下げ、乱取りを抜けた。
「やっぱり簡単に取られるよ、だめだこれは……体力落ちてる……」
 私が膝に手を着いて呼吸を整えながら言うと飛雄馬が「取られるってなに?」と聞いてきた。「一本取られるっていう意味だよ。技をきめられるっていう意味。つまり負けること」と教えた。
 途中でスーツを着た三十歳くらいのごつい人が道場に入ってきた。先輩たちが乱取りしながらあいさつの声を上げた。
「監督さん、この三人、新入生です」
 杉田さんが言った。
「おう、そうか。もう三人入ったか」
 監督と呼ばれた人が立ち止まってうれしそうに私たちを見た。
いわまこと監督だ」
 杉田さんが紹介してくれた。私たち三人が名前を言ってそれぞれ頭を下げると「頑張れよ。期待してるからな」とおうように笑って師範室へ入っていき、道衣に着替えて出てきた。そして師範席に座って腕を組み、黙って部員たちの乱取り風景を見はじめた。
「監督は北大のOBなんですか?」
 松井が聞いた。
「そうだ。昭和五十三年卒の主将だ」
 杉田さんが言った。栃木県の出身で、高校時代は野球部のキャッチャー、江川すぐるのいた作新学院とも戦ったことがあるらしい。大学で柔道を始めて主将まで張る強豪になり、いまは司法試験を受けながら塾の講師をしているという。現役合格だというから私より十二期上で三十歳だ。
 寝技乱取りの後も「自由乱取り」「カメ取り乱取り」「速攻乱取り」など延々と乱取りばかりが続いた。一年目三人は練習の最後の上半身裸になっての腕立て伏せにも参加してみた。だが、みんな百回くらいでダウンしてしまった。杉田さん以外の二年目の先輩たちもダウンしていた。これだけの激しい乱取りを繰り返した後に何百回も腕立て伏せをこなす三年目や四年目のスタミナは驚異的だった。それにしても練習の最後にこんなに腕立て伏せをやる意味があるのだろうかと私は思った。少し練習が原始的にすぎるのではと思った。

 松井も飛雄馬も入部だけは約束していたが、練習後のミーティングは初めてだという。昨日の私と同じように挨拶させられて、最後にはやはり「好きな女性芸能人は誰だ」と聞かれた。おそらく毎年全員に聞いているのだろう。松井は答えたが、なぜか飛雄馬はうつむいて「いません……」と言った。
 練習後、一年目三人で着替えながら話していると、和泉さんが両手をポケットに突っ込んでやってきた。
「あんたら、今日なんか用事あるん?」
 昨日と同じことを聞いた。私はすでにどんな人かわかっていたが、松井と飛雄馬は明らかに和泉さんの目つきを怖がっていた。
「和泉さん、今日はほんとにいいです。僕らもゆっくり一年目と話したいんで」
 横にいた杉田さんが言うと、和泉さんはとくに文句を言うでもなく自分のロッカーの方に行って、また戻ってきた。
「じゃあ、これで食わしちゃりんさい」
 杉田さんに一万円札を差しだした。杉田さんが礼を言って受け取った。今度は末岡さんがやってきて二年目に言った。
「おまえら今日、一年目どっか連れてってやるんか」
「イレブンに行こうと思ってるんですけど」
 杉田さんが言った。
「なんだイレブンか。しけとるな。まあええや。これ使え」
 そう言ってポケットからしわくちゃの一万円札を出した。杉田さんはそれを受け取ってやはり礼を言った。しばらくすると今度は松浦さんがやってきて、やはりお金を渡した。そのあとも次々と先輩がやってきては杉田さんになにがしかの金を渡していた。
 着替え終わると、二年目の先輩三人に連れられてイレブンに行った。杉田さん以外の二年目、斉藤テツさんと後藤さんは共に軽量級の小さい人だった。
「ここはやっぱり、みんなクリぜんだ」
 メニューも見ずに杉田さんが六個頼んだ。クリームぜんざいを待っている間、飛雄馬はずっと岡田有希子の話をしていた。ずっとファンだったと言った。だから先ほど好きな芸能人の名前を聞かれて答えなかったのだ。二年目の先輩たちが元気出せよと励ました。
 クリぜんが来た。みんなで食い始めた。乱取りのとき切れた口の中の傷に染みた。
 食いながら松井が聞いた。
「いま一番強いのは誰なんですか?」
 杉田さんがしばらく考えてから言った。
「主将の金澤さんも強いけど、寝技では五年目のやまぎしさんかな。去年の副主将だ」
「どれくらい強いんですか」
 私が聞くと杉田さんが笑った。
「それはおまえ、めちゃくちゃ強いよ。七帝全体でもトップクラスだ。白帯から始めた人だけど」
「ええっ、そうなんですか」
 飛雄馬の目が輝いた。私も驚いた。
 杉田さんが言った。
「山岸さんは高校時代はレスリング部だったんだよ。さっきも言ったけど、七帝は白帯から始める人間がたくさんいるんだ。運動神経やスピードが必要な立技と違って寝技は努力すれば努力するほど伸びるからな。インターハイ出た人間を白帯組が追い抜いちゃうこともよくあるんだ。二年もしたら松井や増田より飛雄馬の方が強くなってるかもしれない。さっき紹介した監督さんだって大学で始めたんだからな」
 飛雄馬がピノキオのような顔を火照らしながら聞いていた。杉田さんが続けた。
「あと、いま強いのは斉藤トラさんと岡田さん。それから、三年目の松浦さんも強い。あの人は立技も寝技もできる。中学時代から有名選手だったんだ。松浦さんの中学柔道部の先輩に青木やすしがいたんだ。知ってるか、青木康」
「誰ですかそれ」
 私は聞いた。
「大関のおおくにだよ」
「一緒に練習してたんですか!」
「そんだけじゃない。松浦さんはとも戦ってる」
「関脇の?」
「そう。近くの中学の柔道部に同じ学年の保志がいた。松浦さんはだから大乃国とも保志とも仲がいいらしい」
「すげえ!」
 一年目三人で驚いた。
 杉田さんが続けた。
「でも、やっぱりそれでも寝たら山岸さんや金澤さんの方が強いと思う。寝技っていうのは、そういうものなんだ。三年目の末岡さんも白帯から始めたけど、うちのナンバー5くらいにつけてるんじゃないかな」
 私は聞いた。
「そういえば昨日、和泉さんに聞いたんですけど、山岸さんも今年七帝に出てくれるそうですね」
「ああ。五年目では佐々木さんも出てくれる。山岸さんと佐々木さんが出てくれないと今年はほんとうに困るんだ。あの二人がドッペってて助かったよ」
「ドッペってるってなんですか?」
「留年留年。ドイツ語だよ。山岸さんも佐々木さんも今日は来てなかったけど、体戻すためにこれから皆勤だと思うから道場来たときに教えてやるよ。佐々木さんも強いぞ」
「去年の主将ですよね。絞め技が得意な」
 私は今日、道場に来る前に『北大柔道』をほとんど読んでいた。
「よく知ってるな。あの代は気合い入った人ばっかりだった」
「いまの四年目の先輩たちはどんな人なんですか?」
「六人いるけど、みんな一癖も二癖もあるなあ。下の学年はこう言ってるよ。冷血金澤、残酷岡田、陰険ながって」
 杉田さんは悪口を言っているふうでもなく楽しそうだった。そして「金澤さんと乱取りしてみろ。体に触ると冷たい。体温が低い」と言った。
「ほんとですか」
 松井が聞くと、杉田さんが笑った。
「おまえ馬鹿か。噓だ。態度が冷たいだけだよ」
 松井が赤くなった。
「岡田さんは、あの関西弁まじりの人ですよね。ときどき『ひい』って言う」
 私が言うと、杉田さんが大笑いした。
「おまえはよく特徴見てるなあ。あの人がいまのせんかんやってんだよ」
 最上級生のことを幹部といい、主将、副主将、ウェイトトレーニングなどの指揮をとる選手監督、そして部の雑務を仕切る主務という役職があり、他の旧帝大にも同じ役職がおかれ、選手監督を略して選監と呼ぶならわしになっていることを杉田さんが教えてくれた。そして「岡田さんは口が悪いし、練習じゃ下級生を落としまくるからなあ」と笑った。
「参ったしてもダメなんですか?」
 松井が聞いた。
「だめだめ。よけいに怒って絞めてくるよ。とにかく絞めに入られたらおしまいだから守りを早く覚えろよ」
「落とすってなに?」
 飛雄馬が聞いた。「絞め技で気絶させることだよ」と私が説明したが、意味がよくわかっていないようだった。
「陰険の永田さんてどの人ですか」
 松井が聞いた。杉田さんが笑いながら言った。
「中量級で丸顔の。明日あした教えてやるよ。主務やってて部の財政を仕切ってる。理1からトップの成績で電子工学科へ移行した秀才だよ。あの人がけちってるから部の財政がもってるようなもんだ」
 イレブンを退けると、私は松井隆と二人で帰った。松井と私のアパートが目と鼻の先にあることがわかったからだ。松井は千点満点の共通一次で八百九十八点も取ったという。
「すごいな」
 私が言うと、松井は鼻の下を人差し指の背でこすりながら照れた。今日すでに何度か見た癖だった。恥ずかしがると、その癖が頻繁に出た。歩きながら浪人時代の受験勉強のことを話した。
「松井君のアパートに寄っていこうかな」
「まだ片付いてないからなあ。汚いんよ」
 帰ってもとくにやることがない私は松井の背中を押して強引についていった。戦前に建てられたのではと思われるほど古いアパートだった。二階に上がったアンモニア臭いトイレのすぐ横が松井の部屋だった。入って驚いた。狭い。
「これ何畳あるの?」
「二畳だよ。安かったんだ。家賃一万だからぜいたくは言えんよ」
「どこで寝るの?」
 部屋の真ん中にはたつがあった。
「そこだよ」
 指したところは押し入れだった。松井の身長で脚が伸びきるとはとうてい思えなかった。
 新品のテレビが生協から届いて廊下に置いてあった。段ボールから出して設置を手伝った。
「どこに置く?」
 私が聞くと松井が「とりあえずこれをテレビ台にしておくよ」と段ボールを引っ繰り返した。その上にテレビを置き、室内アンテナをつないだ。二人で炬燵に入ってしばらく話し、一緒に寒い夜の街を歩いて銭湯へ行った。裸になると松井のごろりと丸い体格がよくわかった。輪切りにしたらどこを切ってもせいえんの金太郎あめのような体格だった。そういえばのんびり優しいところも金太郎のような雰囲気だった。柔道衣で擦れた全身の傷に湯がしみて、二人でうなりながら湯船にかった。から出ると、また松井の部屋に戻ってテレビをつけた。松井が「おやどん作ろうか」と言った。
「作れるの?」
「俺の親父、コックなんよ。だから親子丼だけ習ったんだ」
 外に二人で食いに行くのも面倒なので作ってもらうことにした。炬燵に入って待っていると親子丼らしきものが出てきた。親子丼らしき味がした。食い終わってまた話した。
 松井は獣医学部志望だと言った。
「でも最近、獣医へ移行するの大変らしいよね。教養部でいい成績取らないと難しいって聞いたことがあるけど」
 私が言うと「大丈夫だよ」と松井がのんびりと言った。さすが共通一次八百九十八点は違うなと思った。
 帰り際、松井が「明日は九時半から教養部のオリエンテーションがあるから行かなきゃだめだよ」と言った。私が入学式に出ていないことを知り、少し驚いたようだった。たしかに自分はオリエンテーションの存在すら知らなかった。
「めんどうだな」と私が言うと「明日行かないと後でよけい面倒になるかもしれないよ」と松井が言った。「じゃあ行ってみるよ」と約束して夜の十二時半に自分のアパートに帰った。久しぶりの柔道で疲れていたのですぐに眠れた。

> #6へ続く

作品紹介



七帝柔道記
著者 増田 俊也
発売日:2017年02月25日

青春小説の金字塔!
○「尋常ではないスポーツバカたちの異界。大笑いしながらよんでいたのに、いつの間にか泣かされてました」(森絵都/作家)
○「熱いものがこみ上げてきて止まらなくなる。私たちの知らなかった青春がここにある」(北上次郎/文芸評論家/日刊ゲンダイ2013年3月22日付)

このミス大賞出身の小説家、増田俊也が大宅賞と新潮ドキュメント賞W受賞作「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に続いて出したこの自伝的青春小説は、
各界から絶賛され、第4回山田風太郎賞候補にもノミネートされた。

主人公は、七帝柔道という寝技だけの特異な柔道が旧帝大にあることを知り、それに憧れて2浪して遠く北海道大学柔道部に入部する。
そこにあったのは、15人の団体戦、一本勝ちのみ、場外なし、参ったなし、という壮絶な世界だった。
しかし、かつて超弩級をそろえ、圧倒的な強さを誇った北大柔道部は七帝戦で連続最下位を続けるどん底の状態だった。
そこから脱出するために「練習量が必ず結果に出る」という言葉を信じて極限の練習量をこなす。
東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学、ライバルの他の6校も、それぞれ全国各地で厳しい練習をこなし七帝戦優勝を目指している。
そこで北大は浮上することができるのか――。

偏差値だけで生きてきた頭でっかちの7大学の青年たちが、それが通じない世界に飛び込み、
今までのプライドをずたずたに破壊され、「強さ」「腕力」という新たなる世界で己の限界に挑んでいく。
個性あふれる先輩や同期たちに囲まれ、日本一広い北海道大学キャンパスで、吹雪の吹きすさぶなか、
練習だけではなく、獣医学部に進むのか文学部に進むのかなどと悩みながら、大学祭や恋愛、部の伝統行事などで、
悩み、苦しみ、笑い、悲しみ、また泣き、笑う。唯一の支えは、共に闘う仲間たちだった。そしてラストは――。

性別や年齢を超えてあらゆる人間が共有し共感できる青春そのものが、北の果て札幌を舞台に描かれる。

詳細ページ:https://www.kadokawa.co.jp/product/321601000167/
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