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試し読み

本読みさん大注目! いま読むべき作家・奥田亜希子の 純度100%の恋愛小説『求めよ、さらば』試し読み

 伊香保温泉には湯が二種類あると言われている。ひとつは、しろがねの湯。三十年ほど前にゆうしゆつが確認された、比較的新しい温泉で、メタけいさんを含み、無色透明。主に疲労回復の効果がある。もうひとつが、昔からこの地に湧いているがねの湯だ。硫酸塩泉で、鉄分を多く含有しているために、湯は空気に触れると茶褐色に変わる。
 パンフレットで読んだことを思い出しながら、手のひらで湯をすくった。口コミを見て人気の旅館を選んだからか、紅葉のピークを外れているにもかかわらず、館内はにぎわっていた。大浴場も盛況だ。幼児から年配の人まで、太いも細いもぴちぴちもしわくちゃも、のんびりと湯にかっている。浴槽で誰かが身体を動かすたび、赤茶けたもやが水中で揺らめいた。タイルの目地にもその色は染みついていて、湯気にはさびっぽい匂いが溶けていた。
 この黄金の湯は、子宝の湯とも呼ばれている。
 先日、朱羽子さんに墓参りを勧められた。先祖に思いをせることは、エネルギーを縦軸に動かすこと。そう言われて、辻原家の墓に義祖母の十三回忌以来足を運んでいないことを思い出した。私が義祖父母の暮らしていた街の名前を挙げると、朱羽子さんは、伊香保が近いじゃないですか、ついでに温泉に寄りましょうよ、と珍しく興奮したように言い立てた。伊香保温泉が子宝の湯として知られていることを、私は朱羽子さんから教わったのだった。
 温泉に入る前には旅館の周辺を散策し、同じく朱羽子さんに薦められた伊香保神社にも参拝した。子宝の御利益があることで有名だそうだ。三百六十五段の石段の先にあるその神社で、私たちはコウノトリの絵馬に〈どうか赤ちゃんが来てくれますように〉と書いた。子授け守りも買った。神社にいる間中、誠太は神妙な面持ちを浮かべていた。大学時代に一人で地方の神社に行ったこともあるくらいだから、神社仏閣に関心があるのだろう。はつもうでもしっかり手を合わせる人だったな、と彼の横顔を見ながら思った。
 のぼせる前に湯から上がり、浴衣と羽織を着て客室に戻った。迎えてくれた誠太は、すでに座椅子でくつろいでいた。部屋のテレビはクイズ番組を映している。誠太が、C、と呟いた直後に、正解を表す効果音が流れた。
「お風呂で懐かしいことを思い出しちゃった」
 私は座卓の角を挟んだ彼の斜め横に腰を下ろした。
「懐かしいこと?」
「誠太が大学四年生のときに、一人で出雲いずもたいしやに行った話」
「……どうしたの、突然」
「ううん。あれが二人で仕事以外のことを話した、最初のきっかけだったなあと思って」
 目の前にあった木鉢から、饅頭まんじゆうをふたつ手に取る。食べる? と差し出すと、誠太は首を横に振った。私はひとつを鉢に戻して、もうひとつの封を解いた。
「あ、美味しい。これ、一階で買えるかな。朱羽子さんのお土産にちょうどいいかも。和菓子が好きなんだって、朱羽子さん」
 包装の皺を伸ばして商品名を確かめようとしたとき、
「失礼いたします、ご夕食をお持ちしました」
 と廊下から声をかけられた。お願いします、と誠太が応じると、着物にたすきがけをした仲居が二人、連れ立って入ってきた。お風呂はいかがでしたか? と私たちに尋ねつつ、二人は慣れた手つきで座卓の上を整えていく。料理はどれも伝統工芸品のようにしつらえられていた。
「いただきます」
「いただきます」
 私が注文した瓶ビールを届けて仲居が部屋を出ると、食前酒の杯で誠太と乾杯した。中身は地元の酒造メーカーが造った梅酒らしい。温泉の効果か、身体はまだほわほわと熱を帯びていて、爽やかな香りと酸味にきゆうかくと味覚をこじ開けられたような心地がした。
「あー、美味しい」
「志織は──」
 声と声がぶつかった。誠太の発言を全部は聞き取れなかったけれど、質問されたことは理解できた。なに? と訊き返した私に、誠太は、
「志織は、どこまで信じてるの?」
 と、改めて問いを口にした。
「なんのこと?」
「朱羽子さんのこと」
「ああ……」
 夕食が用意される前の話題が続いているとは思わなかった。私は箸を構えて、前菜の器から茄子なすの煮浸しを口に運んだ。秋茄子は嫁に食わすな、ということわざがある。あれには、美味しいものを食べさせたくないという嫁いびりの心だけでなく、種が少ない秋茄子を食べさせることで子孫に恵まれなくなってはいけないと、嫁を気遣う意味も含まれているそうだ。いつかなにかで得た知識が、唐突によみがえった。
「そう訊かれると、なんて言ったらいいのか分からないけど……」
 朱羽子さんのことは、最初からすべて報告している。この一ヶ月は一週間に一度のペースでヒーリングセラピーを受けているけれど、反対されたことはない。なのに、急にどうしたのだろう。私はとりあえず瓶ビールをグラスに手酌した。生理は九日前に来ていて、現在、妊娠している可能性はゼロ。旅館でお酒を飲むことを楽しみにしていた。
「エネルギーは目に見えないから、ヒーリングセラピーによって本当に循環されてるかは分からないよ。そのあたりはちゃんと認識してる。朱羽子さんの力が本物かどうか、私には判断できない。でも、通い始めてから、気持ちが軽くなったの。不妊の原因にはストレスもあるって聞いたことがあるから、そういう意味では効果があるかもしれないと思ってる。クリニックの治療を受けていても、ストレスは増える一方でしょう?」
 私がクリニックに行かなくなり、一ヶ月が経っていた。排卵誘発剤を用いたタイミング法でもやっぱり妊娠は叶わなくて、通う必要性を見失っていた。原因不明としか言わない医師に、一体なにができるだろう。その点、朱羽子さんのアドバイスは具体的だ。取り入れると、人生が前進しているような実感を得られる。気持ちが楽になったことで、街で子どもを見かけても焦らなくなった。衿子から届くメッセージも穏やかな気分で読める。そういう小さなことが、本当に嬉しかった。
「志織にとって治療がストレスだったことは、僕も理解しているつもりだよ」
「うん。誠太が分かってることを、私は分かってる。朱羽子さんを全面的に信じているわけじゃないから、そこは安心してほしい」
「でも、そう思っていたはずなのに、気づいたら引き返せないところまで来ていたってこともあるから──」
「待って待って。誠太は洗脳みたいなことを心配してるの?」
「違うよ」
 誠太は即答して、かぶりを振った。
「なんていうか、僕は志織を支えきれなかったんだなと思うと、申し訳なくて……」
「なに言ってるの。誠太にはいつも感謝してるよ」
 掛け値なしの本音なのに、慌てたからか、口先で気を遣っているような声音になった。束の間、誠太が黙ったことで、テレビの音量が大きくなったように感じる。誰かがクイズに外れたらしく、ブブーッと濁点まみれの音が響いた。なんでですかーっ、と悲鳴が上がり、薄っぺらい画面の中でスタジオが沸いた。私はビールを半分ほど飲んだ。
「僕ももらっていいかな?」
 誠太が未使用のグラスを手に取った。
「注いであげる」
「ありがとう。よく冷えてるね」
 誠太は中を確かめるようにグラスを注視した。誠太はお酒に強くない。三百五十ミリリットル缶のビールを一本飲んだだけで、赤くなって寝てしまう。なのに、なぜか覚悟を決めたように息を吐くと、グラスを一気に空にした。
「ふう」
「ちょっと誠太、大丈夫?」
「これくらい平気だよ。もう一杯もらおうかな」
 骨張った手が瓶に伸びてくる。私はそれを軽く制して、彼におかわりを注いだ。ついでに自分のグラスにもビールを足す。手もとが狂ってこぼれそうになった泡を、グラスの縁に口をつけてずずっと吸った。
「志織は、僕以外の人と結婚していたら、自分にも子どもがいたかもしれないって考えたことはある?」
「えっ」
 とっさに健太朗の姿が脳裏をかすめた。衿子から健太朗が父親になったと聞かされたときに浮かべたイメージは、未練から生じたものでは決してない。ひとつの可能性を想像しただけだ。そう確信しているのに、誠太の前で健太朗を思い出したことで、微妙な後ろめたさを覚えた。
「……そうだよね。あるよね」
 誠太は目を伏せて、柔らかく口角を上げた。
「当然だと思う」
「ってことは、誠太は、私以外の人と結婚してたらなって思うことがあるの?」
「僕はないよ。僕は志織と結婚してなかったら、死ぬまで独身だった。仮定を夢想する相手がそもそもいないよ」
 どことなく含みを感じる言い方だった。もしかして、誠太は健太朗に子どもが生まれたことを知っているのだろうか。でも、誠太は Facebook に登録していなかったはずだ。健太朗と繫がっている元バイト仲間と連絡を取り合っているようにも思えなかった。
「それはずるいよ。仮定の話ならなんとでも言える。私は、誠太が私じゃない人と結婚してお父さんになってた未来も考えられると思う」
「ないよ」
「ある」
「ないって」
「あるよ」
「ないから」
「そりゃあ、ないって言ってくれるのは嬉しいけど……」
 誠太は引かなかった。いつになくかたくなだ。こんなことは初めてかもしれない。単純に可能性として、私以外の人と結ばれる未来もあったのだと理解してほしかったけれど、こんなことで気まずくなるのは嫌だった。私は意見を主張するのを諦め、刺身も美味しそうだね、とマグロの切り身に箸を伸ばした。でも、醬油を多めにつけても味がしない。メインの鴨鍋を温めている固形燃料が、息絶えるように火の勢いを弱めていく。テレビがCMに切り替わり、ファミリーカーの宣伝が始まった。男の子が、パパーっ、と無邪気に叫ぶ光景に、家族で観ていた映画にラブシーンが流れたときの気持ちを思い出した。
「志織に子どもができないのは、僕のせいだよ」
 ファミリーカーのCMが終わると、誠太は吐息混じりにこぼした。
「僕のせいなんだ」
「なに言ってるの。私たちの不妊は原因不明なんだよ。誠太が受けた検査でも、異状は見つからなかったじゃない」
「でも、僕が悪いんだよ」
「意味が分からない」
「本当にごめん」
「どうしたの? 今日の誠太、ちょっと変だよ」
 私は小さく息を吸って、笑顔を作った。
「誠太はサプリだって飲んでるし、いろいろ頑張ってくれてる。私、誠太が悪いって思ったこと、一度だってない」
「志織のためならなんでもやるって決めてたんだ。なのに、結局は僕が志織の人生を邪魔してる」
「ねえ、もしかして、妊活がプレッシャーになってた? だったら、私のほうこそごめん。自分のことばかりで、誠太に配慮が足りなかったよね」
 私の愚痴も弱音も頼みごとも、誠太は受け止めてくれる。だから、つい甘えてしまった。冷静に考えれば、生理が来たことを勤務時間にメッセージで知らせて慰めを求めたり、急に墓参りに行きたいと言い出したりする妻など、嫌気が差して当然だ。
「これからは気をつける。誠太の気持ちを置いてけぼりにはしない。だから、そんなふうに自分を責めないで。ね?」
 私は左手で誠太の右そでを握った。誠太がそこに自分の左手を重ねる。互いの結婚指輪が当たった。プラチナのシンプルなデザインで、私も誠太も常に身に着けている。すっかり自分の一部と化していて、普段は嵌めていることを忘れていた。
「志織が僕に謝ることは、この世の中にひとつもないよ」
 前にも聞いたことのある台詞だった。
「そんなの、誠太にもないよ」
「ありがとう」
 誠太は微笑むと、
「急に変な話をしてごめん。ご飯、食べよう。鍋も煮えたみたいだよ」
 と、手を離した。私は消化不良の思いを抱きながらも、そうだね、と応じた。せっかく久しぶりに旅行に来たのだ。楽しかったよね、と、いつか思い出を語り合えるような二日間にしたい。私の思いが伝わったのか、それからの誠太は明るかった。私たちはテレビにつっこみを入れては笑い、ビールを飲んだ。ビール瓶は三本が空になった。
 デザートの巨峰のシャーベットを食べ終わるころには、誠太の目は半分も開いていなかった。両肘を突いて頭を支えるような姿勢で、首が不安定に揺れている。うなじまで赤く染まっていた。私は吹き出しそうになるのをこらえて、あとは任せて休んでいいよ、と声をかけた。
「本当? 助かる」
 立ち上がった誠太はふらつきながらトイレに入り、そのまま布団が敷かれた隣の和室に吸い込まれていった。彼が歯を磨いていないのに気づいたのは、仲居が座卓の上を片づけてくれたあとのこと。私は誠太の身の回りの世話を焼いたことがほとんどない。誠太は靴下を脱ぎっぱなしで放置したり、衣替えを妻任せにしたりしない。次に目を覚ましたタイミングで歯磨きを促そうか悩むのは、新鮮な体験だった。
「ふうっ」
 一人だ、と思いながら手足を伸ばす。もう一度大浴場に行こうか迷い、けれども座椅子に深く座り直した。頭を巡るのは、やっぱり誠太の発言だった。彼が不妊は自分のせいだと言い切ったこと。時折、苦しみに堪えかねたように謝ること。誠太の考えていることが、ときどきまったくみ取れない。私に隠しごとでもあるのだろうか。ただ、浮気をしているようには思えない。彼の愛情は、私が心から信じていることのうちのひとつだった。
 座卓に置いていたスマホを手に取り、Instagram のアイコンをタップする。ITASEのアカウントを覗くたび、私にはこういう顔があったんだな、と思う。花火を振り回して、大口を開けて笑っている私、髪に寝癖をつけたまま、誠太の作ったオムレツを夢中で頰張っている私、公園で照れくさそうに一人でシーソーにまたがっている私──。
 温泉街を散策していたときのことを思い出した。伊香保神社に参拝したあと、私たちは紅葉の名所である鹿じかばしに立ち寄った。ぎりぎりライトアップの期間内だったのだ。朱色の欄干が濡れたように光る橋は、昔話から飛び出したような風格で、観光客が途切れた隙を見計らい、私は誠太に写真を撮ってもらった。このために一眼レフカメラを持ってきてほしいと頼んでいた。けれども誠太の手つきに、レンズを何種類も付け替え、構図や光の加減にこだわっていた、かつての意気込みは感じられなかった。レンズの向こうから放たれる視線はぬるく、指示も最小限だった。
 誠太はもう、愛妻家フォトグラファーでいることをやめたのだろうか。
 その瞬間、私を襲った感覚は、ひらめきよりも魔が差したに近かった。私はおもむろに立ち上がり、誠太の鞄から彼のスマホを取り出した。すり足で隣室に向かい、身体が通るぎりぎりの幅にふすまを開く。薄闇の中、誠太は口を半開きにして眠っていた。私は布団に近づき、彼の人差し指をスマホに触れさせた。画面がぱっと明るくなる。指紋認証、成功。スマホを自分の胸に押し当て、光を封じ込めつつ、もとの部屋に引き上げた。
 誠太のスマホで Instagram を起動する。紙飛行機のアイコンをタップして、ダイレクトメッセージのページに飛んだ。画面がITASE宛てのメッセージで埋め尽くされる。未読のものも多く、この数ヶ月間、誠太は開いてすらいなかったらしい。一覧ページでは最初の十数字しか読めないけれど、メッセージの大半はITASEを案ずる内容だった。一通だけ、仕事の依頼も届いていた。
 画面を下に送る。予想していたメッセージは、間もなく見つかった。時期を計算すると、誠太の写真やインタビューがウェブ媒体に掲載された直後に届いたようだ。既読のものに、私は片っ端から目を通していった。
〈仕事目当てで奥さんの顔を全世界にさらしてるの? 旦那の強欲に利用されて、奥さんかわいそ〉
〈あなたは自慢しているつもりかもしれませんが、夫婦のセックスを見せつけられているようで不快です〉
〈写真下手すぎ。基礎から学び直したほうがいいよ。あと、奥さんブスですね〉
 まぎれもないぼう中傷だった。これは私に知られたくなかったはずだと納得する。コメント欄にもごくまれに寄せられることがあり、三年くらい前までは、誠太もわりと気にしていた。でも、最近は見かけることもめっきり減って、ITASEにも平和が訪れたらしいと私は安易に喜んでいた。まさかダイレクトメッセージのほうに届いていたとは、思いもよらなかった。
 これが、誠太が Instagram から離れた理由──。
 写真やフォロワーに対する彼のしんな姿勢を知っているからこそ、怒りに目頭が痛くなる。不快に思うなら、見なければいい。どうしてわざわざ本人に、嫌な気持ちになったことを知らせようとするのだろう。真実を見抜いたような気になって、勝手に私を哀れむな。被害者意識を膨らませて、誠太に悪意をぶつけるな。私と誠太の価値観を、一方的に推し量るな。
 誠太を、傷つけるな。
 脳が煮えているようないらちを覚えながらも、メッセージを探る手を止められない。誹謗中傷を削除していないところが、生真面目な誠太らしかった。内訳としては肯定的な感想のほうが多いのに、それでも悔しくて涙が出そうになる。この半年ぶんをあらかた確認すると、その中に一通だけ、誠太が返信しているメッセージを発見した。
〈自分の人生に奥さんを利用しているんですね。こんなのは本当の愛じゃないです〉
〈そうかもしれません〉
 誠太の文面は短い。彼がなぜこのメッセージに応えようと思ったのか分からないまま、私は幾度も読み返す。

 スパイ映画のサントラを停止して、イヤホンを外した。伸びをして椅子から立ち上がり、リビングダイニングに向かう。廊下の冷えた空気が快く、仕事部屋のエアコンが強いことに気づいた。期限に余裕のない依頼が月曜午前の締め切りだと、クライアントから、自分たちは土日に休むけど、おまえはちゃんと働けよ、と命じられたような気持ちになる。必然的に、この週末は仕事部屋に閉じこもっていた。
「あー、お腹空いたー。誠太はお昼なに食べたの?」
 一息入れようとリビングダイニングを覗いた。けれども、誠太の姿は見当たらない。ソファの周りはきれいに片づいていて、そういえば掃除機の音がしていたな、と納得する。レースカーテンの隙間から見えるベランダでは、洗濯物が風に吹かれていた。
「誠太?」
 寝室を覗く。いない。トイレをノックして、洗面所や風呂場にも顔を出したけれど、やっぱり誠太の姿はなかった。リビングダイニングに戻り、額を搔く。どこに行ったのだろう。買いものだろうか。そこまで考えてようやく、出かけるね、とドア越しに話しかけられたことを思い出した。
 でも、おかしい。
 壁の時計を見遣る。今は、午後の三時十七分。声をかけられた時間をはっきりとは記憶していないけれど、誠太が家を出てから、少なくとも二時間は経っている。あのときは、昼食の買い出しかな、くらいにしか思わなかった。でも、スーパーやコンビニに行く前には、ついでにいるものはある? と私に確認するのが普段の誠太だ。その一言がなかったことにも、いってきます、ではなく、出かけるね、と言われたことにも違和感を覚えた。
〈ちょっと休憩ー。今、どこにいるの?〉
 LINEにメッセージを送る。三十秒ほど画面を見つめていたけれど、既読にならなかった。電話をかけても応答はなく、そのうち反応があるだろうと、私は胃に食べものを入れることにした。キッチンに足を向けたとき、ダイニングテーブルの上になにかがあることに気づいた。オムレツだ。誠太特製のオムレツが皿に載り、ラップをかけられている。その脇には、〈お腹が空いたら食べてください〉と書かれたメモもあった。
「わあっ」
 私は皿を手に取り、さっそく電子レンジに運ぼうとした。と同時に、白い封筒がフローリングに落ちる。皿の底に貼りついていたものが、私が動かした拍子に剝がれたらしい。私はオムレツをダイニングテーブルに戻して、封筒を拾った。〈志織へ〉という宛名を目にした途端、ばくんと心臓が跳ねた。
 のりづけされていなかった封筒は、簡単に開いた。最初に取り出した紙が離婚届で、呼吸が浅くなる。夫の欄は誠太の筆跡ですでに埋まっていた。なんで? どうして? あまりにも唐突だった。二人で群馬を旅行したのは、たった二週間前だ。震える手でもう一枚を引っ張り出す。こっちは便びんせんだった。吐き気を堪えて、文章にすばやく目を走らせた。
「はあ?」
 とんきような声が出る。何度目を通しても内容が頭に入ってこない。特に、私たちが大学四年生のときに開かれたトヨ丸の送別会に関する記述は、まったく理解できなかった。
〈あの日、僕は志織の飲みものにれ薬を盛りました──〉
「惚れ薬って……」
 声に失笑がにじむ。なにを言い出すのだろう。まず、そんなものが本当に存在しているのか。誠太はどうしてしまったのだろう。分からない。心の底から訳が分からなかった。
〈──自分は志織にひどいことをした、裏切り者だという気持ちはずっとありました。罪悪感のぶん、志織を幸せにすればいい。そんなふうに考えていました。でも、子どもができなくて苦しむ志織を見ているうちに、このままではいけないことに気づきました。志織の貴重な時間をこれ以上無駄にしたくありません。僕のことは忘れて、ほかの人と素敵な家庭を築いてください。志織は絶対にいい母親になれます。今までありがとう。誠太〉

(この続きは本書でお楽しみください)

作品紹介・あらすじ



求めよ、さらば
著者 奥田 亜希子
定価: 1,760円(本体1,600円+税)
発売日:2021年12月24日

あなたの「愛」は、本当にあなたが感じたものですか? 令和最強の恋愛小説
理想の夫だったあの人は、私を、愛してはいなかった――。
三十四歳、結婚して七年、子供なし。夫には、誰にも言えない秘密がある。

===

翻訳家として働く辻井志織は、三十四歳。五年の交際を経て、結婚をした夫の誠太は、友人から「理想の旦那」と言われ、
夫婦生活は安定した温かさに満ちていた。ただひとつ、二人の間に子どもがいないことをのぞいては。あるとき、志織は誠太のSNSに送られた衝撃的な投稿を見つける。

自分の人生に奥さんを利用しているんですね。こんなのは本当の愛じゃないです。

二週間後、夫は失踪した。残された手紙には「自分は志織にひどいことをした、裏切り者だ」と書かれていて――。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322008000195/
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