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試し読み

本読みさん大注目! いま読むべき作家・奥田亜希子の 純度100%の恋愛小説『求めよ、さらば』試し読み

あなたの「愛」は、本当にあなたが感じたものですか? 令和最強の恋愛小説『求めよ、さらば』発売!

本読みさんや書店員さんが大注目の奥田亜希子さんの最新作『求めよ、さらば』が12月24日に発売となりました。
本作はこれまでたくさんの「こじらせ」を描いてきた奥田さんが、「大人になって純度100%の恋愛は成立するのか?」という問いに真正面から挑んだ恋愛小説です。
事前にゲラを読んだ書店員さんたちからは、「気持ちがわかりすぎて、わしづかみにされた!」「読み継がれる恋愛小説」と大絶賛を受けました。
また、「読書メーター」の読みたい本ランキングで単行本部門週間1位(集計期間:2021年12月16日~22日)を獲得するなど、発売前から期待を集めていました。
今回は作品の導入である1章部分をまるごと大公開いたします。
1章ラストに起こる出来事に、主人公と一緒に立ち向かってください。



奥田亜希子『求めよ、さらば』試し読み

 1

 スパイが、街を疾走している。
 銃口から弾が放たれ、車が急ブレーキをかけて停止する。タイヤとアスファルトの擦れる音がビル街に響き渡り、人々の悲鳴とクラクションの音色は黒煙のように膨らんでいく。ひしゃげる電柱、割れるガラス。それでもスパイの男に足を止める気配はない。彼は裏切り者を捜し求めている。かつて自分が所属していたチームを壊滅に陥れた真犯人を、彼は決して許さない。
 そんな映像が頭の奥に流れているのを感じながら、私はキーボードでひたすら文字を打ち込んでいた。そういえば、私はこの映画シリーズを、一作目しか観たことがない。それも高校時代の話だから、内容はほとんど記憶になくて、タクシーが裏返しになるシーンが本当にあったかどうか、かなり疑わしい。でも、この映画のメインテーマは、締め切り直前の脳みそに効く。エナジードリンクみたいに効く。タイピング音がマシンガンの銃声のように感じられて、文章を訳すごとに敵をぶっ倒したような気持ちになる。
 コンコン、と、やけに輪郭のくっきりした音が割り込んできて、それがノックだと分かった途端、スパイの影が薄くなった。私はキーボードをたたく手を止め、ドアを振り返る。せいが隙間から顔をのぞかせていた。私がイヤホンを引き抜くと、スパイの映像は今度こそ脳裏から完全にき消えた。
「ごめん、邪魔した?」
「ううん、平気」
「これからトイレを使うから、大丈夫かなと思って」
 人よりわずかに小刻みな誠太のまばたきを見つめているうちに、あたりが明るくなっていることに気づいた。カーテンの合わせ目から白い光がこぼれている。デスクライトだけをともした部屋で仕事をしていたのに、いつの間にか朝が来ていたらしい。
「そっか、今日か」
 よく見ると、誠太はまだパジャマこそ着ているものの、髪はきれいに整えていた。ひげっている。あとはスーツに着替えるだけというタイミングで、任務を果たすことにしたのだろう。任務。一晩中、スパイ映画のサントラを聴いていた影響か、そんな単語が思い浮かんだ。
「私は大丈夫だから、気にせずに使って」
「分かった。おりは仕事を頑張って」
 こくりとあごを引き、誠太が顔を引っ込める。
「誠太」
 とっさに呼び止めた。閉まりかけていたドアがふたたび開き、ん? と誠太が私をる。その気負いのないまなしに、なぜか謝罪の言葉が口をつきそうになり、それは違うと慌てて飲み込んだ。不妊治療は、夫婦が協力して取り組むべきこと。私が謝るのはもちろん、礼を言うのもおかしい。
「……誠太も頑張って」
「ありがとう」
 誠太は少し笑ったみたいだった。
 ドアの向こうで気配が移動する。トイレは仕事部屋の斜め前、幅一メートルに満たない廊下を三歩ほど進んだ先にある。中古で購入したこのマンションを安普請だと感じたことはないけれど、誠太がトイレに入り、ドアにかぎをかける音は私にも聞こえた。中の様子を想像しそうになり、急いでイヤホンをねじ込む。私はもう三十四歳で、男性が一人で精液を出すとき、具体的にどんな行動を取っているか、おおむね理解している……つもりだ。でも、やっぱり落ち着かない。誠太は今、スマホで動画を観ているのだろうか。
「もうっ」
 前髪の生え際を搔いたら、額に貼っていた冷却シートががれた。それを見て、誠太の採精に気を取られている場合ではないとはっとする。誠太が出勤間近ということは、仕事の締め切りまで二時間を切ったのだ。サントラの音量を上げて、モニターを注視した。海外製Wi-Fiアクセスポイントの説明書を日本語に翻訳して、午前九時までに提出すること。飛び込みの案件だった。同じメーカーの商品を以前にも担当したことがあり、なんとかなるような気がして引き受けたけれど、内容が想定していたよりも複雑だった。辞書を引き引き、キーボードを打った。
 ふいに水の流れる音がした。集中していたつもりだったのに、トイレのドアが開閉する音に、私の意識はたちまち現実に引き戻される。誠太が私に声をかけてから、およそ二十分が経過していた。これが早いのか、それとも遅いのか。また立ち入ったことを考えそうになる。夫婦になって七年が経つけれど、彼の自慰については、いまだに性交とは違う種類の生々しさを覚える。私は誠太の好きなアダルト動画のジャンルを知らない。普段はいつ、どこで行われているかも知らない。誠太のオナニーのことを思うと、束の間、自分はこの人のことをなにも理解していないのかもしれない、という気持ちになった。
「ねえ、アルミホイルにくるんでくれた?」
 誠太が家を出るまで、気を散らさずにいることは難しい。私はいつたん仕事をあきらめて、向かいの寝室に顔を出した。カーテンは全開で、ダブルベッドの布団は軽く畳まれている。誠太はクローゼットの前に立ち、ちょうど上着のボタンを留めているところだった。
「包んでここに入れたよ」
 誠太は左のしたえりをめくって答えた。スーツの生地が若干透けている。早くも夏物に衣替えしたようだ。会社は私服も許可しているのに、選ぶのが面倒くさいから、と誠太はスーツで通勤していた。
「これで大丈夫かな」
「冬じゃないから、そんなに神経質にならなくても平気だと思うけど……。ごめんね、面倒かけちゃって。私が持って行く予定だったのに」
 口にしてから、ああ、謝ってしまった、と思った。通院先として新しく選んだクリニックは、誠太の会社とは反対方向にある。ネットで評判を調べて、私が一人で決めたのだ。なのに、誠太に朝から一時間も遠回りさせることになったのは、さすがに申し訳なかった。
「志織は謝らなくていいよ。僕のことなんだから、気にしないで。それよりも、仕事はどう? 終わりそう?」
「たぶんいける……っていうか、終わらせる。誠太を見送ったら、ラストスパートをかけるよ」
「そっか。頑張ってね」
 二人で玄関に移動した。誠太が靴箱に手をかけ、ビジネスシューズに足を入れる。つま先を三和土たたきに柔らかく打ちつけると、誠太は私を振り返った。
「今夜はそんなに遅くならないと思う」
「分かった。起きて待ってるね」
「無理しなくていいよ。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 目を合わせ、互いに手を振る。見送るときには、こんなふうにやり取りしている。誠太は今日もまったくの普段どおりに家を出て行った。彼は口数が少なく、感情が表に出づらくて、常に淡々としているように見える。冷静とも温和とも違う、いだ海に似た静けさをまとっている感じだ。検査に出すために自らの体液を懐に忍ばせているときでも、その態度は変わらなかった。
 先週から通い始めたクリニックは、東京都内でも有数の人気産婦人科だ。やっと予約を取れた初診の日は、どうしても誠太の都合がつかなくて、私は一人で来院し、血液検査や超音波検査、きゆうけいがんや性感染症などの検査を済ませた。その際に、精液検査の自宅採取用容器を受け取っていた。運搬中に温度が下がると精子の性能を正しく測定できなくなるため、クリニックに持ち込むときは、採ってから二時間以内に、と指導されている。また、その場合には、アルミホイルやタオルで容器を包むことを推奨されていた。
 誠太は前にも三回ほど精子の採取を経験しているけれど、いずれもクリニックの設備を利用していた。採精室と呼ばれる個室には、テレビとDVDプレイヤー、数枚のアダルトDVDが用意されているらしい。あのときも誠太は表情ひとつ変えることなく、検査の流れを説明する看護師にあいづちを打っていた。夫が精液を調べられることに難色を示したり抵抗したりするエピソードは、ネット上にあふれている。けれども私は、実際に治療を始める前から、誠太はそういうことをする人ではないと分かっていた。
 締め切りに追われて、昨日と一昨日は誠太と夕食をれなかった。今晩は二人で美味しいものを食べよう。誠太の好きな牡蠣かきフライを揚げるのもいい。牡蠣は、亜鉛を豊富に含んでいる。そのためにも早く仕事を終わらせよう。
 仕事部屋に戻り、イヤホンをめた。音楽がふたたび鼓膜を打つ。スパイがまた裏切り者を捜し始めた。


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