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試し読み

本読みさん大注目! いま読むべき作家・奥田亜希子の 純度100%の恋愛小説『求めよ、さらば』試し読み

 初めてコンドームなしのセックスに及んだのは、三年前、私が三十一歳になった誕生日の夜だった。私は母親になった自分をあまり想像したことのない人間で、周囲が我が子につけたい名前や通わせたい習いごとの話で盛り上がるのを、いつも不思議な気持ちで聞いていた。誠太は私に増して子どもを持つことに関心がなくて、でも、二人ともほしくないわけではなかったから、三十五歳までには一人目がいたほうがいいよね、という、綿あめみたいな覚悟で始めた子作りだった。
 けれども、一年が経っても子どもはできなかった。
 ピピッと短い電子音が鳴り、口から婦人体温計を引き抜いた。予想どおりの数値だ。締め切り二十分前にメールでエージェントに原稿を送り、それから寝室のベッドに倒れ込んだ。今は正午過ぎ。三時間は寝たことになる。普段の睡眠とは長さも時間帯も違うけれど、測らないよりはましだろう。み跡でざらざらしている体温計の先端を、そっとケースに収めた。
 基礎体温をつけるようになったのは、なかなか妊娠しないことにあぶくのような不安を抱いたのがきっかけだった。私はもともと大雑把な性格で、決まった周期で生理が来ていたこともあり、それまでに基礎体温を測ろうと思ったことはなかった。専用の体温計を初めて手にしたときは微妙に緊張したけれど、連携させたアプリには、幸い、標準的と言われている形のグラフが描かれた。高温期と低温期が分かれていて、排卵日を推測しやすかった。
 なのに、さらに半年が経過しても、私は妊娠しなかった。
 枕に頭を乗せて、正面の壁にかけた絵を見つめる。両腕には大荷物を運んだあとのようなだるさが漂っていた。本当に赤ちゃんを抱っこしたわけではないのに、と思う。不妊治療を始めてから、赤ちゃんがいつの間にか生まれている夢を見るようになった。夢の大半は、悲劇的な展開を迎える。大泣きしていた子どもが急速に衰弱していくパターンがもっとも多い。腕の中で息を引き取ろうとする我が子を、私は半狂乱になって抱きしめるのだ。
 今日もそうだった。この夢を見たあとは、起きるのがおつくうになる。寝返りを打ち、枕もとのスマホに手を伸ばした。Instagram のアイコンをタップして、タイムラインをチェックする。このアカウントは、友人や知人をフォローしていない。企業や有名人のポストを中心に確認したのち、〈ITASE〉のページに飛んだ。やっぱり昨日も更新されていない。ITASEが過去に投稿した写真を眺めているうちに、誠太からLINEのメッセージが届いた。
〈お疲れさま。僕は朝、無事に提出できました。言い忘れたけど、オムレツを冷蔵庫に入れておいたから、よかったら食べてね〉
 私がひと眠りすることを見込んで、自分が昼休みに入るタイミングでメッセージをくれたのだろう。誠太の作るオムレツは、刻んだ赤パプリカにほうれん草、ベーコンやチーズが入っていて、色鮮やかだ。私は、えいっ、と気を吐き、ベッドから身体を引き剝がした。
 靴下のままリビングダイニングへ向かう。ベランダに通じる掃き出し窓は開いていて、網戸越しに五月の風を感じた。初夏の熱気と水分が大気中にふんだんに含まれている。ベランダの物干し竿ざおには服やタオルがつるされていた。誠太が出勤前に干してくれたらしい。我が家に家事分担の決まりはなく、そのときできる人ができることをするようになっている。誠太がプログラマとして勤めているソフトウェア開発会社は残業が多くて、締め切り前を除けば、私の負担のほうが大きいかもしれない。でも、不満はなかった。
 誠太は優しい。交際を始めた社会人一年目の四月から、十二年間ずっと。私は彼に傷つけられたことがない。口論をしたこともないのだ。激しい言い争いの末に家を飛び出した私を、誠太が追いかけてきて抱きしめる。そんなドラマチックでロマンチックな出来事とは無縁でも、彼との暮らしは安定した温かさに満ちていた。
 電子レンジでオムレツを加熱して、食パンの二つ折りで挟んだ。ノンカフェインのインスタントコーヒーで、牛乳が九割を占めるアイスオレも作る。それらをローテーブルに運び、いただきます、と手を合わせた。オムレツを焼くときに使ったバターを吸って、食パンがとろけている。オムレツももちろん美味しくて、私はあっという間に食べ終えた。
 水で葉酸サプリをえんすると、ソファに横になった。まずは食器を洗って、それから買いものに行って、と段取りは思い浮かぶのに、ついスマホのロックを解除してしまう。ITASEがアップしている画像を、また見返した。百合の花に顔を寄せて目を閉じている私、誰もいない砂浜でワンピースのすそを翻している私、落ち葉を両手ですくい、宙に舞い上げている私──。
 ITASEこと誠太の Instagram には、無数の私の写真が公開されている。
 付き合い始めて五ヶ月が経ったころ、被写体になってほしいと頼まれて、誠太の趣味がカメラだと知った。ネットにアップしたいんだけど、と相談されたのは、五年前だ。妻の写真に特化している点が当時は珍しかったのか、フォロワーは投稿するたびに増えて、何度かウェブ広告にも使われた。
 私はカメラに詳しくないけれど、誠太が色味にこだわっていることは知っている。パソコンでの加工は最小限にとどめて、カメラの設定やレンズの種類で好みの風合いになるよう調整しているらしい。彼の写真は、今、私が食べたオムレツのように色鮮やかで、しかも、透明感がある。正方形の写真が画面に敷き詰められているさまは、まるでステンドグラスみたいだ。
 いつか、このアカウントに子どもの写真が加わるときは来るのだろうか。

 特に問題は見られませんでした、と中年の男性医師は、パソコンのモニターに目を向けたまま言った。カーソルの矢印は22という数値を指していて、それがなにを表しているのか、ついさっき説明を受けたはずなのに、もう思い出せない。先日の検査では、奥さまにもご主人にも特に問題は見られませんでした、という医師の言葉だけが、耳の中をゆっくりと旋回していた。
「当クリニックとしては、こういった場合の治療のファーストステップに、タイミング法をお勧めしています」
 医師が椅子を回して私と誠太に向き直る。問題がないというのは、一般的には朗報のたぐいなのだろう。医師の口調には明るさがにじんでいた。私は落胆を押し殺し、医師の話に相槌を重ねた。タイミング法の段取りについては、身をもって知っている。今後の方針に異存もなく、超音波で卵胞の具合を調べてもらうと、誠太と共に診療室をあとにした。
 待合室には、オルゴール調の音楽が小さく流れている。淡いピンクのソファに腰を下ろした。産婦人科系のクリニックは、示し合わせたように雰囲気が似ている。それでもここは、子ども連れの来院を原則禁止としているぶん、前に通っていたところよりも空気が穏やかだ。第二子を妊娠した女性が上の子どもを連れてこないというだけで守られる心の領域が自分にあったことを、私はこのクリニックを訪れたときに初めて知ったのだった。
「問題なし、だって」
「うん」
 クリニックを出て駅前のカフェに入った。私はオレンジジュースを、誠太はアイスコーヒーを注文する。平日の午後一時、店はいていた。精液検査の結果を聞くために、誠太は丸一日有給を取っている。あのクリニックに土曜の予約を入れることは、人気アーティストのライブチケットを押さえることに近い。誠太の協力的な姿勢には、こういう面でも助けられていた。
「でも、前のクリニックよりも丁寧に説明してくれて、僕は納得できたかな」
「診断結果は変わらないのに? 私はちょっと期待外れだったかも」
 ストローでオレンジジュースを吸う。甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
「そうかな。静かで落ち着いていて、いいところだと思うけど」
「それはそうなんだけど。でも、クリニックを替えたことで、時間をロスしちゃったかもしれない」
「不安な気持ちで前のところに通い続けても、いい結果にはつながらなかったよ」
「本当にそう思う?」
「思う」
 誠太はブラックのままアイスコーヒーを飲んだ。首に浮き出たのどぼとけが上下する。体格が細くて薄くて、まっすぐに立っているはずのときでも微妙に左に傾いていて、外見を整えることに関心のない誠太は、どことなく男子中学生の趣を漂わせている。けれども、手の甲に隆起した骨や腕を走る血管は色っぽい。男の人だ、と感じる。
「だから、大丈夫だよ」
 喉仏にれていただけなのに、私が励ましの言葉を求めていると思ったらしい。誠太が目を細めて言った。微笑んでくれたのだと私には分かった。
「ありがとう」
 口に出して礼を言うと、気持ちも明るくなったような気がした。
 半年ぶんの基礎体温のグラフを印刷して、私がまず足を運んだのは、家の近所にある産婦人科だった。ずっと昔からあったクリニックらしく、コンクリートの外壁は雨染みで汚れていた。設備も古く、おじいさん先生ののんびりした考え方にも違和感を覚えて、三ヶ月で通うのをやめた。昔からこういう見切りは滅法早かった。
 隣町にある比較的大きなクリニックを訪れたのは、その二ヶ月後。生理の周期に合わせていろんな検査を受けて、タイミング法や排卵誘発剤を試した。人工授精にも二回挑んだ。でも、どれも上手くいかなかった。三回目の人工授精の話が出たくらいから、私は原因不明不妊という診断そのものに疑問を抱くようになった。夫婦どちらにも異状は見当たりません、と言われたときには確かにほっとしたのに、クリニックを替えれば分かることがきっとあると、ふたたび無断でかかりつけを変更することを思いついていた。
「ねえ、志織。このへんを散歩してみようか。運動になるし、これからしばらく通うのに、クリニック以外の場所を知らないのはもったいないよ」
「そうだね」
「駅の向こうに商店街があるみたいだよ」
そうざいを売ってたら、夕食に買って帰ろうかな」
「いいね」
「よし、今日はお酒も飲んじゃおうっと」
 ドリンクを飲み干し、席を立った。誠太があまりしやべらないこともあって、私たちが飲食店に滞在する時間は短い。それよりも、小さな話題がたくさん見つかるから、二人で散歩するほうが好きだ。連絡通路を越えて、駅の反対側に出た。美容室の軒下に白黒の猫が座っている。人慣れしているらしく、通行人に大人しく頭をでられていた。
「かわいいね」
「うん」
「誠太も触りたい?」
「僕はいいよ」
 誠太はときどきやけに猫を見つめている。飼いたいのかもしれない。でも猫は、流産を引き起こす可能性のある原虫を保持している場合がある。妊娠を目指している今は無理だ。誠太と白黒猫に手を振り、商店街のアーチをくぐった。想像よりも活気づいている。ぱっと目についた書店に入り、二人で海外文学の棚を眺めた。読書は私と誠太の共通の趣味だ。私が薦めた本は、大抵読んでくれる。今日は残念ながらめぼしいものはなく、手ぶらで書店を出たあとは、肉屋でコロッケと豚カツを、弁当屋でポテトサラダを買った。
 商店街を抜け、角を折れた先に公園があった。エメラルドグリーンの金網フェンスに囲まれて、滑り台と砂場とベンチが行儀よく収まっている。小さな子どもが遊んでいるような気がして一瞬警戒したけれど、幸い、誰もいなかった。
「あそこでコロッケを食べようよ」
 私はベンチを指差した。揚げたてだと店のおじさんに言われたのを思い出したのだ。ベンチに並んで座り、まだ温かいコロッケを頰張った。太陽はほぼ真上にあり、視界は網膜を漂白されたかのように明るい。ふと隣に顔を向けると、誠太が手でひさしを作り、公園の隅を見つめていた。
紫陽花あじさい?」
「立派だなあと思って」
 誠太の言葉どおり、そこにはこんもりと生い茂った紫陽花の木があった。私の背丈よりも高いかもしれない。ちょうど見ごろらしく、ラムネ菓子のように淡い色合いの花が、丸く寄り添い咲いていた。
「写真、撮る? 私、あの前に立とうか?」
 思わず尋ねた。誠太がわずかに目を丸くする。私から撮影を提案することは、滅多にない。写真が全世界に発信されること自体に、実はまだ慣れていなかった。でも、カメラを手にしたとき、誠太の表情には精彩が宿る。いつもは物静かな彼の、熱っぽい視線を受け止めるのが好きだった。もう少し右を向いて、とか、手は横かな、とか指示されると、誠太の愛情表現を浴びているような気持ちになる。関心をたっぷり注がれることは、愛に似ていた。
 それに、誠太専用の被写体を長年務めていれば、彼が撮りたいと思うシチュエーションはだいたい分かる。アイロンでぱりっとさせた、ベージュのシャツワンピースを着た私があの紫陽花に埋もれるように立てば、誠太らしい写真に仕上がるだろう。Instagram のコメント欄にも、賞賛の言葉が並ぶはずだ。
「でも、今日はカメラを持ってきてないから」
「そうなの?」
「家を出る段階では、散歩すると思ってなくて」
 誠太は言うけれど、彼がカメラを持たずに外出するのは珍しかった。かさばる一眼レフカメラやレンズを諦めたときにも、コンパクトカメラはかばんに入れる。それが誠太だったはずだ。過去には、コンビニで公共料金を支払った帰りに、蛍光灯の切れかかった街灯の下で写真を撮らせてほしいと言い出したこともあった。
「スマホでもいいんじゃない?」
 ネットにアップするのに便利だからと、誠太はえてスマホで撮影することもある。最近の機種は、私にはデジカメで撮ったものと区別がつかないほど性能がいい。なのに、誠太は首を短く横に振ると、
「今日はいいや」
 と、コロッケの残りにかぶりついた。
 商店街とは別の道を通り、駅に戻った。昼下がりのホームは影の色が濃い。自販機で水を購入する。四分の一ほど飲んでから、いる? とペットボトルを差し出すと、誠太は躊躇ためらいがちにそれを受け取った。いわゆる間接キスをするとき、おそらく誠太はいまだに少し緊張している。正直、あきれる気持ちもなくはないけれど、この人はいつまで私にドキドキしてくれるのだろうと考えると、こそばゆいような喜びも覚えた。
「ああ、水が美味しい。コロッケがしょっぱかったからかな」
「あれはソースをかけずに食べたほうがいいね」
「そうかも」
「年季の入った店構えだったのに、味は凝ってたよね。スパイスも入ってるみたいだった」
 誠太からペットボトルが返ってきた。私は水をもう一口飲み、
「このごろ写真を撮らないね」
 と、さりげなく切り出した。
「そうかな」
「一ヶ月くらい、インスタも更新されてないよ」
 私がITASEをフォローしていることは、当然、誠太も知っている。ほかのフォロワーに彼の妻だと気づかれないよう、あのアカウントはユーザー名やアイコンを適当なものに設定した上、閲覧専用にして鍵をかけていた。誠太は新作を撮れないときには過去の写真をアップして、更新が滞らないよう気を配っていた。フォロワーを減らさないための工夫だそうだ。誠太にも承認欲求があったのか、と話を聞いたときには驚いた。
「そういう時期なのかもしれない」
「そういう時期って?」
「写真が上手くなるための充電期間、みたいな」
「充電って……」
 カメラ屋に通ったり本を読んだりして真剣に取り組んでいた写真を、力を蓄えたいという理由だけで休むだろうか。全然ぴんとこない。カメラの手入れすらしないのは、誠太らしくないと思う。完全に休むと腕がなまっちゃうんじゃない? と尋ねたとき、電車の到着を知らせるアナウンスが流れた。電車がやってくる方向に目を向ける。巨大な鉄の塊が突風と共にホームに滑り込み、私は横髪を耳にかけ直した。
「志織、ごめんね」
「えっ」
 その瞬間、確かに謝罪の言葉が聞こえたのに、席に着いたあと、どうして謝るの? と尋ねると、誠太は、えっ、僕? 謝ってないよ、と目をしばたたいた。


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