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試し読み

本読みさん大注目! いま読むべき作家・奥田亜希子の 純度100%の恋愛小説『求めよ、さらば』試し読み

 ドアに鍵をかけ、靴箱の上の小皿に判子を戻した。花の模様が描かれたこの陶器は、群馬の特産品だ。結婚一年目に誠太の祖母の十三回忌に参列して、香典返しにもらった。祖父のほうは、誠太が小学生のときに亡くなっている。父方の親類である二人を、誠太はとても慕っていた。幼いころには、一緒に暮らしていた時期もあるという。
 配達員から渡された段ボール箱を手に、リビングダイニングに向かった。今日の箱は少し重くて、そのことにほっとする。子宝グッズの中には、やたら小さかったり軽かったりするものがある。それらを受け取ったときには、おぼれている真っ最中に板とも呼べない木片を投げ込まれたような思いがした。
 アイロンのスイッチが切れていることを確かめて、段ボール箱のガムテープを剝がした。ついさっきまで、私は誠太のワイシャツの皺を伸ばしていた。まだ全部は終わっていないけれど、実物を目にしたい気持ちには勝てない。カッターを取りに行くのももどかしくて、手で引き裂くようにふたを開けた。
 緩衝材に埋もれるように、ポリ袋で包装されたベロア生地のきんちやくが入っていた。口を開けて、中身を手のひらに載せる。手首を囲むように天然石を繫いだブレスレットは、ひんやりと冷たい。乳白色と、桃色と、朱色と、赤褐色。どの石も澄んだ光を放っている。さっそく左手に装着した。じゃら、と音が鳴る。地面に手を引かれているような重みが快い。
 誠太が早退した日から、さらに二回、生理が来た。そのぶん時も流れて、街には秋の気配が漂っている。私はエアコンを止めて、掃き出し窓を開けた。夕方を過ぎると、冷房よりも外気のほうが涼しい。ベランダの手すり壁にひじをかける。このマンションは駅から離れているぶん、周囲に背の高い建物が少ない。五階からの眺めは悪くなかった。
 暮れなずむ空と濃い灰色の雲に、中学三年生のときに見た景色を思い出した。私は一年生のころと変わることなく、一部のクラスメイトにとっては玩具おもちやのような存在で、気まぐれに無視されたり悪口を言われたり、持ちものを隠されたり、傷つくために学校に通うような日々を送っていた。〈I am a Bitch!〉と書かれた紙を背中に貼られたこともある。でも、あの日、校舎の三階から外を眺めていただけなのに、もしかして飛び降りるの? とうれしそうな声で訊かれたのは、さすがに応えた。私が窓から半歩退くと、なんだよ、死んでくれるかと思ったのに、と彼は笑った。
 死のうと本気で思った瞬間だった。
 帰宅後、両親が仕事から帰っていないこと、妹が友だちの家に遊びに行っていることを確認して、ベランダに立った。当時の自宅はマンションの八階にあった。ここから飛び降りれば、確実に死ねるだろう。キッチンから持ってきた脚立に上がり、手すり壁に手をついた。そのときに感じた粉っぽい手触りを、今でも覚えている。視点が高くなり、同じマンションに住んでいる下級生が、真下を友だちと連れ立って歩いているのが見えた。手すり壁を越えた胸に風を感じて、冷たい手で内臓を撫でられたような心地がした。
 今、目の前に広がる夕焼けは、あの日見たものに似ている。うら寂しい雰囲気や、どこからか漂ってくるカレーの匂いも、記憶を再現したみたいだ。
 身体を冷やす前に室内に戻った。残りのワイシャツにアイロンをかけて、夕食の支度に取りかかる。今日はアボカドとトマトのサラダに、カボチャのしると鮭とアスパラのバターじよう焼きだ。あとは火を通すだけという段階まで調理して、ソファでタブレット端末をち上げた。勉強のため、英語圏の新聞と雑誌を長年定期購読しているけれど、細部まで理解するには集中力が必要で、新聞一紙を読み終わらないうちに誠太が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。早かったね」
 なんとなく出迎えたい気分で玄関に向かった。靴を脱いでいた誠太が顔を上げる。朝よりぺちゃんこにつぶれた髪と、照りの増した肌。仕事帰りの誠太は、古い油紙のような匂いがする。
「ちょうど切り上げられるタイミングがあったから。それは、新しいやつ?」
 彼は私の左手に視線を向けた。自分の身なりにはまったく構わないくせに、誠太は、私が髪型やメイクを変えるとすぐに気づく。
「うん。今日の夕方、届いたんだ」
「カラフルだね」
「そうなの。この白っぽいのがパールと水晶で、ピンクのやつが、ローズクォーツ。ローズクォーツは、女性ホルモンの分泌を手助けしてくれる石なんだって。それから、血液の循環に効果的なガーネットと、昔から子宝や安産のお守りとして有名な、ピンクコーラルだよ」
 へえ、と誠太は頷くと、靴箱のほうに首をひねった。判子を置いている小皿の隣には、毛糸で編まれた靴が並んでいる。ベビーシューズを玄関に飾ると、その家に赤ちゃんがやって来る。そんなジンクスがあると知り、ネットで購入した。実際に子どもが履くものではないから、靴は左右を合わせても片方の手のひらに収まるほどの大きさしかなかった。
 一、二ヶ月前から妊娠ジンクスを試している。手始めにスマホの待ち受けを坊主頭おじさんの画像に替えて、コウノトリのストラップをぶら下げた。それから、アロマオイルを購入し、枕カバーを取り替えて、玄関にベビーシューズを置いた。子宝草も枯らすことなく育てているし、カウンターの片隅には、地方の民芸品や外国の人形を縁起物として飾っている。
 原因を見つけて対策を練り、懸命に取り組む。それが問題を乗り越えることだと、ずっと思っていた。高校生活が中学時代の二の舞にならなかったのも、翻訳者になれたのも、私が正しく努力を積み重ねた成果だ。なのに、私たちの不妊治療は、真っ暗闇の中、手探りでゴールを探せと命じられたに等しかった。最近受けた検査も、異状なし。進むべき道が見えない。
「効くといいな」
 ブレスレットに目を落としてつぶやく。誠太は私の横をすり抜けて寝室に入ると、ネクタイを引き抜き、スーツを脱いだ。なぜか部屋の照明は点けずに、廊下から差し込む明かりで着替えている。私は彼のシルエットに向かって、
「もちろん、子どもができたとしても、本当にこれの効果だったかどうかは確かめようがないんだけど」
 と、話を続けた。
「そうだね」
「でも、少しでも可能性があるなら、試すことに意味があるよね」
 私が妊娠ジンクスを知ったのは、治療が始まった直後のことだ。そのときは、医療という科学の力を借りながら非科学的なものに頼ることに強い違和感を覚えた。でも、もうそんなことは言っていられない。非科学的なジンクスこそ、今の科学では原因を究明できない私たちの不妊をゴールに導いてくれるかもしれない。この理屈は、誰にも否定できないはずだ。
「お腹が空いたな。今日の夕食はなに?」
「メインは、鮭とアスパラのバター醬油焼きだよ」
「よかった。今日の定食、鮭のムニエルにするか生姜しようが焼きにするかで迷ったんだよね」
「生姜焼きにしたんだ。あ、鮭を焼いて味噌汁を温め直してくるね」
「僕もなにか手伝うよ」
「いいって。疲れてるでしょう? ソファでゆっくりしてて」
「仕事で疲れてるのは、志織も同じだよ」
 キッチンに向かって歩き出した私のあとを、誠太がついてくる。
 この人は、絶対にいい父親になる。世界中の誰よりも。

「あ、お姉ちゃん? 今、電話しても大丈夫?」
 どうしたの? とスマホ越しに問いかけると、はるの声が矢のような勢いで耳に飛び込んできた。私はとりあえず目の前のテキストファイルを保存して、辞書を閉じた。美遥の仕事は雑誌編集者で、時間には融通が利くみたいだけれど、それでも平日の真っ昼間にかけてきた電話が世間話で終わるとは思えなかった。
「はいはい、平気だよ」
「お姉ちゃんさ、その後、妊活のほうはどうなの?」
「どうって……」
 私は苦笑した。美遥とは五歳離れているけれど、今でも一緒にランチをしたりショッピングに行ったり、仲がいい。美遥の率直で無神経な物言いを、しょうがないな、と思えるのは、年が近くないからかもしれない。
「妊娠してないんだから、順調ではないと思うけど」
 二日前にも生理が来た。この周期は排卵誘発剤を試すことになっていて、昨日、内服薬が処方されたばかりだ。卵胞の発育具合によっては注射も打つかもしれない。今のところ、前のクリニックの治療方針をほぼなぞっている。今回上手くいかなかった場合は人工授精に切り替えましょう、と医師は言っていた。やっぱり年齢の問題があるようだ。
「だったら、ヒーリングセラピーを受けてみない?」
「ヒーリングセラピー?」
 手もとにあったノートに、〈healing〉〈therapy〉と書きつけた。どうしてわざわざふたつの単語をくっつけたのだろう。あとで辞書を引き、ヒーリングとセラピーの違いを調べてみようと思う。
「お姉ちゃんはこういうのに興味がないかもしれないけど、最近、カイニンヒーリングセラピーっていうのを始めて、評判のいい先生がいるんだよね」
 美遥は女性誌の編集者を務めている。周囲に好奇心のおうせいな人間が多く、また、彼女自身も行動的で、常に最新の情報に触れていた。
「カイニンっていうのは、ご懐妊です、の懐妊?」
「違う違う。開閉の開に妊娠の妊で、開妊。妊娠に繫がる扉を開くっていう意味の造語なんだって」
 妊娠に繫がる扉を開く、という美遥の言葉が、思いがけず胸に響いた。木製で両開きの、中世ヨーロッパの城に使われているような扉が音を立てて開き、内側から光がこぼれる様子が思い浮かんだ。
「具体的にはなにをするの? マッサージみたいなこと?」
「ううん。先生は、お客さんの身体には触らないの。先生は目と手でお客さんのエネルギーの様子を確認して、悪いものが滞っているところを流したり、足りないものを注入してくれたりするみたい」
 へえ、と私が応えると、美遥は、お姉ちゃんはあんまり興味がないかもしれないけど、と、さっきも口にした文言を繰り返した。実家に住んでいたころの私は、テレビ番組の運勢占いにも興味がなかった。パワーストーンのブレスレットを見遣り、未来は分からないな、と青春ソングのようなことを思った。
「宣伝は一切してなくて、紹介でしかお客さんをとらない先生なんだけど、とにかく効果があるみたいなんだよね。今晩、取材に行くことになったから、お姉ちゃんがあれだったら、ついでに予約を入れてあげようかと思って」
 料金と場所を尋ねると、思っていたよりも安く、行きやすい街にあった。だったらいいか、と空いている日時を伝える。これも妊娠ジンクスの一種だろうという思いと、身内の予約を入れることで、美遥の取材がよりスムーズに進んでくれたら、という計らいがあった。昔から妹には甘いのだ。
「とりあえず、一回試してみるよ」
「それがいいと思う。やってみないと、自分に合うかどうかも分からないもんね。じゃあ、無事に予約が取れたら、また連絡する」
「はーい、ありがとう」
 通話を切る。熱くなったスマホをデスクに置いた。ノートにメモしたふたつの英単語をぼんやり見つめて、私は仕事を再開した。

 さんは小柄できやしやな、年齢不詳の女性だった。と言っても若作りをしていたり不気味だったりする雰囲気はなく、表情によって、ごく自然に二十代にも四十代にも見える。陶器のようになめらかな肌と、隠そうとしていないシミや皺のバランスが、彼女に不思議なたたずまいを施しているのかもしれない。囁いているようで、耳にはっきり残る声も特徴的だった。
「あ、エネルギーの流れが内に向いちゃっていますね。エネルギー自体はたくさん湧いていて、非常にすばらしいんですけど……。辻原さん、大河を想像してみてください。豊富な水量が海に向かって一直線に流れているあいだは、すべてが順調に進みます。海の水が蒸発して雲になり、山に降り注ぐ。最高の循環です。数多あまたの命を育みます。ですが、これがひとたび逆流すると、堤防は決壊して、水は陸地に流れ出し、自然界のバランスや人々の生活を脅かすことになります。これが、辻原さんの今の状態です」
 美遥が予約を入れてくれた日時に、LINEで教えられた住所へ向かった。そこは五階建ての小さなマンションだった。昔ながらの中層団地のような造りで、エレベーターはない。階段を三階まで上がり、本当にここでいいのか迷いながら、表札も看板もない部屋のインターホンを押した。そうして中から現れたのが、黒くてゆったりしたワンピースを着た朱羽子さんだった。
 室内は自宅を兼ねているような間取りだった。施術室に割り当てられた洋間はカーテンが閉め切られ、オレンジ色の間接照明が灯っていた。目につく家具はベッドと本棚くらいで、装飾品は少ない。ただ、ピアノ演奏の音楽がかすかに流れていた。朱羽子さんは私の名前と生年月日を確認すると、直立姿勢の私の周りをゆっくりと歩いた。まるで私の全身をスキャンしているかのような、隙のない視線の運び方だった。その後、ベッドに服を着たままあおけで寝そべるよう指示を出して、彼女は今、私の身体に両手をかざしている。
「私が今から行うのは、水の流れを海の方向に戻し、壊れた堤防を再構築して、陸地に溢れた水を蒸発させることだととらえてください。大切なのは、エネルギーを循環させることです。よどんだエネルギーを含んだ子宮は、受精卵を上手くキャッチできません」
 朱羽子さんの声音は柔らかく、ひどく失礼なことを言われているはずなのに、自明の理を説かれているような気持ちになってくる。自分の身体に泥が詰まっているイメージを思い浮かべると、妙に納得した。異状は見つかりませんでした、と言われるよりもしっくりくる。淀んだエネルギー。ここに私の問題はあったのか。泥にかれた種が芽吹かないまま腐っていくイメージは、私の心をいっそ安らかにした。
「力を抜いて、リラックスしていてくださいね」
 朱羽子さんはさっきと変わらず、私の身体から二十センチほど手を浮かせている。胸の上では犬を撫で回すように手で円を描き、下腹部の上ではぴたりと止めて、動きにはなにかしらの意味があるようだ。手をかざされているところには、温かいと思えば温かい程度の感覚が広がっていた。
 瞼が徐々に重くなっていく。ぼうっとした頭で、自分が眠くなっていることに驚いた。私は家族以外の人間がそばにいるとなかなか寝つけない。私が誠太を結婚相手として最初に意識したのは、三度目のデートの帰り道、電車で彼にもたれてうとうとしたことがきっかけだった。あの日、誠太は初めて私のことを、志織、と呼んだ。上擦った声はかわいかった──。
「はい、終わりました。お疲れさまでした」
 はっとして目を開けた。よだれをすすり、口もとをこする。初対面の人に会うからと、丁寧にメイクをしてきれいな服を着てきたのに、台無しだ。朱羽子さんに目を向けると、彼女は疲れのにじんだ表情で額を拭いていた。施術時間は三十分程度だったようだ。すぐに身体を動かすと治した流れが定着しにくいので、と朱羽子さんはキッチンの前のテーブルに私を案内した。
「ルイボスティーです」
 湯気の立ったふたつのマグカップが運ばれてきた。澄んだ赤茶色の液体がなみなみと注がれている。一口飲むと、さわやかな香りが鼻を抜けた。ルイボスティーは、妊活中の飲みものとして人気がある。私も買ったことがあるけれど、口に合わなくて、戸棚にしまいっぱなしになっていた。でも朱羽子さんがれてくれたこれは、すごく美味しい。
「やはりご姉妹ですね。先日の取材の際、たかさんのエネルギーも診せていただいたんですが、エネルギーの湧き方がとても似ていらっしゃいます。お二人とも、意志が強いんですね」
「その節は妹がお世話になりました」
「高野さんは、辻原さんのことを大変心配されていました。お姉ちゃんはしっかりしているようで暴走しやすいから、と」
「またそんなことを言って。私と電話で話したときは、結構気楽な感じだったんですけど」
 朱羽子さんは目を細めると、首を小さく横に振った。
「本日の施術は、先ほどもお話ししたとおり、かなりの大工事になりました。仕上がりには充分留意したつもりですが、なにぶん急ごしらえなところもありますので、あと数回通っていただいたほうが安心かと思います」
「あのっ、先生。エネルギーを逆流させないためには、どうしたらいいんでしょうか?」
「それは、気持ちを抱えすぎないことですね」
 なるほど、と頷きながら、内心で首を傾げた。私は誠太に愚痴も弱音も吐き出している。一人で抱え込んでいる実感はない。クラスメイトの仕打ちを誰にも話せなかった中学時代に比べたら、今の私は締まりの緩い水道も同然だ。ちょっとした衝撃で水が出てくる。
 朱羽子さんは私の考えを見透かしたように、
「この場合の気持ちは、なにも負の感情だけを意味しているわけではありません。例えばなにか気がかりがあるなら、さいなことでも、解消に向けて動いたほうがいいです」
 と言った。大きな黒目とぶれのない視線に、本当に心を読まれたような気がしてどきっとする。でも、不快だとは思わなかった。
「あとは、楽しかったり嬉しかったりする気持ちも、外に向けて放出してください。非常にシンプルですが、遠出や旅行もお勧めです」
「旅行、ですか」
 そういえば、一年近く誠太と旅行していない。生活が不妊治療を中心に回り始めて、それどころではなかったのもあるけれど、誠太が写真スポットを調べて、ここに行きたいんだけど、と言わなくなったことも大きい。ITASEの Instagram が更新されなくなって、約半年。フォロワーから安否を心配するコメントも寄せられていた。誠太がカメラを休もうと思った理由がスランプなら、旅行は彼にとっても気分転換になるかもしれない。
「いいかもしれませんね、旅行」
「ぜひ旦那さんと一緒に行ってみてください」
 朱羽子さんに料金を支払い、次回の予約を入れて、いとまいをした。帰りの電車で美遥に報告と礼を兼ねたメッセージを送る。来たときよりも身体が軽かった。今日受けたのは開妊ヒーリングセラピーだから、妊娠しなければ効果があったとは言えない。でも、すっきりした気分だった。
 車窓から見上げる十月の空は、高い。平日の昼下がり、電車は閑散としている。車両には私を含めて五人しか乗っていなかった。みんな、手にスマホを持っている。それぞれに繫がりたい相手や、アクセスしたい情報があるのだろう。
 私は一秒だけ目をつむると、再度LINEを開いた。本物のドライフラワーを用いたピアスのアイコンをタップして、〈久しぶり! 体調はどう? もし落ち着いていたら、また杏奈と三人で集まろう!〉と送信する。志織は今までどおりでいいよ、と誠太は言ってくれたけれど、衿子とのトーク画面は、集まりの翌日に〈昨日はありがとう! 身体に気をつけてね。改めて妊娠おめでとう!〉〈こちらこそ、昨日はごちそうさまでした。おめでとうって言ってもらえて嬉しいよ〉とやり取りしたところで終わっていた。
 ずっと、衿子のことが気がかりだった。彼女に対するしつは、まだ完全には消えていない。でも、婚姻届を出す出さないはともかく、パートナーと住まいが離れている状況で子どもを産むのは、衿子も不安を感じているはずだ。
 スマホを鞄に入れて、また空を仰ぐ。高層ビルのあいだを三羽の鳥が滑るように横切っていった。

 その晩、衿子から〈ありがとう! 無事に安定期に入りました。ところで話したいことがあるんだけど、今、電話してもいい?〉と返信があった。猫のスタンプで了解の旨を伝えると、スマホはすぐに着信を告げた。
「もしもし、衿子?」
「志織? ごめんね、急に」
「いいよ。どうしたの?」
 誠太はまだ仕事から帰っていない。リビングダイニングには、カボチャのクリームシチューの甘い香りが漂っている。私はソファに横向きに座り、脚を伸ばした。なにかあったのかと心配する反面、友だちと電話で話すことに、高校生のころのような高揚感を覚える。当時は今のようにアプリ通話はなく、携帯電話の通話料金は高かったので、家電を使って何時間も喋っていた。
「実はね、今週末、よしたかが東京に来て、婚姻届を出すことになってるんだ」
「えっ、おめでとう。私、すごいタイミングでLINEしたんだね」
「そうだよ。びっくりしちゃった。もちろん、無事に受理されたら、志織と杏奈には報告するつもりだったんだけど」
 衿子はここで小さく息を吸って、あいつさ、女がいたんだよね、と鼻で笑うような、自嘲するような口調で吐き捨てた。
「後藤さんが? 広島に?」
「そう。それで結婚を渋ってたみたい。なんか怪しいと思って問い詰めたら浮気が発覚して、私はもう別れる心づもりでいたんだけど、由孝がその女と手を切って都内の支店に転属願を出すって言うから、今回は目をつむることにした。一応、初犯だしね」
「それは……大変だったね」
 クッションを抱きしめ、後藤さんと会ったときのことを思い出す。住宅ローンの基礎から学ぶ必要がある私と誠太に、後藤さんはてきぱき説明してくれた。笑い方が大仰でノリの軽い人だったけれど、それでも衿子のことは大事にしているものとばかり思っていた。衿子の友だちの力になれて嬉しいと、何度も口にしていたのだ。
「辻原さんみたいな完璧な旦那になることは期待できないけど、まあ、それでもいないよりはいたほうがいいよね。お腹の子の父親なんだから」
「夫婦になったり子どもが生まれたりしたら、後藤さんも変わるかもしれないよ」
「んー、あんまり期待しないようにしておく」
 言葉とは裏腹に、衿子の口ぶりは弾んでいた。結婚が決まって安堵しているのだろう。衿子は根が真面目で、たぶん、小中学生のころは優等生だったのだと思う。自由に生きるのが上手くないと知っているからこそ、ねたましくても放っておけなかった。
「由孝のことは今度詳しく喋るとして、本題は、王子だよ」
「王子って、健太朗?」
「そう。志織は王子には、本当に未練はないよね?」
「衿子も知ってるでしょう? 全然ないよ」
 私は昨日まで大好きだった恋人でも、この人とはもう無理だと思った瞬間に、相手に対する興味がきっちりゼロになる性格だ。違和感と共存することができない。別れた恋人と友だちになることはありえなかった。
「だよね。だから言うんだけど、王子も去年結婚して、このあいだ、子どもが生まれたみたい。志織は全然チェックしてないみたいだけど、寿史と圭介が Facebook で王子と繫がってるからさ。そっちから情報が回ってきた」
「へえ、そうなんだ」
 予想どおり、喜びも寂しさも感じなかった。健太朗と夫婦になっていたら、もしかして私も、と、ほんの一瞬だけ想像したけれど、これは未練とは違う。数学の問題で確率を求めるときのように、組み合わせを機械的に頭に思い浮かべたに過ぎなかった。
「まさか私が王子のところと同学年の子どもを産むことになるなんて、人生って不思議だね」
「そうだねえ」
 私たちの年齢を考えたら珍しい偶然でもないような気がしたけれど、そこに重なれない自分の現状を嚙み締めるのが辛くて、あいまいな同意を返した。実際、Facebook には出産や育児にまつわるエピソードが溢れている。そこから距離を取るために、私は Facebook のログインを避けていた。
「衿子は出産は東京でするの? それとも、名古屋に帰るの?」
「こっちで産むよ。親は帰ってきてほしいみたいだけど、ぎりぎりまで仕事したいし」
「産休とかないの?」
「自営だからねえ。取りなよって相方は言ってくれるけど、結局、仕事しちゃうような気がするな」
「もう。本当に身体に気をつけてよ。私にできることがあったら言ってね」
 近いうちにまた三人で集まることを約束して、電話は終わった。ソファの背もたれに上半身を添わせて伸びをする。澄んだ空気が肺に悠々と広がっていく感覚に、ふいに涙が出そうになった。自分が思っていた以上に、衿子のことは気がかりだったらしい。
 朱羽子さんの言うとおりだ。気持ちを抱え込むことは、体内を淀ませる。
 昨晩、誠太とセックスをした。このあたりが排卵日だろうと診断を受けていたのだ。排卵誘発剤を取り入れたタイミング法ということになるけれど、なんとなく今回も難しいような気がしている。でも、朱羽子さんの開妊ヒーリングセラピーを受けていたら、少しずついい方向に向かうかもしれない。
 歩むべき道は、見えた。

 氷のようになめらかなかげいしの表面を水はするすると流れ落ちて、白字で彫られた〈辻原家之墓〉の文字のくぼみを伝っていく。固く絞ったタオルで拭くと、墓石はいっそうのつやを取り戻した。ダウンコートを着た私の姿が、まるで鏡のように映り込んでいる。竿石の右側の面にはふたつの戒名と、それぞれの没年月日が刻まれていた。誠太の祖父は辻原家の三男で、だから本家の墓には入らず、ここには義祖父母の二人が眠っているらしい。
 冷たくなった指先を吐息で温めて、ふたたびしやくでバケツの水をすくう。それに気づいた誠太が、雑草を抜いていた手を止めて、
「代わろうか」
 と言った。
「ううん、平気。もう終わるから」
 花立てにまっていた雨水を捨て、管理事務所で購入した仏花をけた。水鉢にも柄杓で水を満たす。誠太がリュックから線香を取り出し、不器用な手つきでライターで火を点けた。線香の先端に朱色の点が生まれて、一筋の煙が立ち上る。いつ嗅いでも、夏を感じる匂いだと思う。
 並んでその場にしゃがみ、手を合わせた。駅からバスに二十分ほど揺られて辿たどり着いた民営墓地は広く、秋の彼岸を二ヶ月前に終えたからなのか、墓参者はまばらだった。砂利の隙間から雑草が生えていたり、水鉢に落ち葉が貼りついていたりする墓も多い。頰に触れる風は東京よりも強く、冷たく、今、自分が群馬にいることを実感させられた。
「ありがとう。志織が来てくれて、二人も喜んでると思う」
 管理事務所に戻り、掃除道具やライターを返却したところで、誠太が口を開いた。
「そうだといいな。雪が降る前に来られてよかったよ」
「そうだね。雪の時季にはこの墓地もだいぶ埋もれて、自分の家の墓まで辿り着けなくなるから。ひどいときは、竿石のてっぺんまで雪で覆われるよ」
「そんなに積もるんだ。すごいね」
 感心した私に誠太が頰を緩める。普段は滅多に故郷のことを口にしないけれど、やっぱり愛着があるのだろう、照れているような表情だった。私がにやにやして顔を覗き込もうとすると、誠太は慌てたように周囲を見回した。
「時刻表は……あ、あった」
 壁の一画に向かって歩き出した彼を、私も追いかける。二人でバスの時刻表を覗き込んだ。駅に戻る便がやって来るのは、当分先になりそうだ。行きは駅前の飲食店で昼食を摂って時間を調整したけれど、ここであと一時間以上過ごすのは厳しい。誠太と相談して、タクシーを呼ぶことにした。スマホからタクシー会社に電話をかけると、到着までには二十分ほどかかると言われた。
 自販機で温かい飲みものを買い、休憩室に入る。タクシーが来たときに気づけるよう、窓際の椅子に座った。私はほうじ茶のペットボトルを、誠太はコーヒーの缶を両手で包む。節電のためか、休憩室は照明が消えていて薄暗く、暖房の効きも弱かった。ほかに人がいないから、余計に寒々しく感じる。冷えるね、と言いながら、ほうじ茶で身体を温めた。
 窓の向こうに広がるりようせんを、見るともなしに目でなぞる。このあたりの紅葉は、一、二週間前が見ごろだったらしい。でも、山にかぶさる木々の葉は、まだ充分に赤っぽい。原色に黒を混ぜたようなくすみは、火の玉が落ちる寸前の線香花火を私に連想させる。わびしくて、きれいだ。
「志織」
「ん?」
 振り向くと、誠太がまっすぐに私を見つめていた。
「どうしたの?」
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「うん」
「タクシーに乗ったら、駅に行く前に、おじいちゃんとおばあちゃんの家に寄ってもいいかな」
「なんだ、そんなこと。もちろん構わないよ」
 墓参りを兼ねて群馬に旅行しようと提案したのは私だ。巡る場所も宿泊先も、すべて私が決めた。というより、誠太は私の質問にイエスで答える以外に意思表示をしなかった。ようやく彼が自分の希望を口にしてくれたことが嬉しくて、つい声が大きくなった。
「今、あの家はどうなってるの? 取り壊すとか、誰かがリフォームして使うとか、いろいろ案が出てたみたいだけど」
「店だった空間は、従兄弟いとこだいすけくんがアトリエに使ってるらしいよ」
「ああ、大助さんが」
 大助さんには、義祖母の十三回忌としゆんくんの結婚式で、二度ほど会ったことがある。会社員として働きながら絵を描いているそうで、私たちの結婚祝いには作品をプレゼントしてくれた。縦三十センチ、横四十センチくらいの油絵の抽象画だ。衝動のままにキャンバスを絵の具で塗り潰したような作品で、なにを表したものかさっぱり分からないけれど、緑を基調とした色合いが美しく、マンションの寝室に飾っていた。
「でも、手土産もなにも持ってきてない。失礼だよね。どうしよう」
「大助くんと会うつもりはないから、大丈夫。外から家を見るだけだよ」
「挨拶しないの?」
「うん。大助くんがおじいちゃんの家にいるとも限らないし」
 そう言われると、大助さん自身も結婚していて、子どもがいたような記憶があった。自分の家で家族と過ごす時間のほうが、当然長いだろう。
「誠太がそう言うなら……」
 頷くと同時に、減速したタクシーが駐車場に入ってくるのが見えた。私がペットボトルの蓋を閉める傍らで、誠太もコーヒーを飲み干し、缶をゴミ箱に捨てる。二人で後部座席に乗り、行き先を告げると、タクシーは滑らかに走り出した。
 私がまた山を眺めているうちに、タクシーは目的地に着いた。古びたシャッターの前で誠太と降車する。私がここを訪れるのは初めてだ。義祖父母はかつて電気屋を営んでいたらしく、シャッターの上には看板の跡が残っていた。車庫を挟み、向かって左側には畑が広がっていて、誠太はその端を通って建物の裏手に回った。雑草だらけの庭と、竿の通っていない物干し台が柵の隙間から見える。生活の匂いはしなかった。
「大助くんはいないみたいだね」
 誠太が背伸びをして言った。近所の人に怪しまれないかと不安になるけれど、見渡す限り、人っ子一人いない。タクシーに乗っている最中も、通行人をほとんど見かけなかった。私は都心部にしか暮らしたことがない。父親も母親も東京出身で、いわゆる田舎と縁がない。山が近いことも、家と家の距離が大きいことも、街に人影がないことも、群馬を訪れるたびに新鮮に感じた。
「あそこ」
 誠太が指を向けた先には、腐って今にも崩れそうな縁側があった。
「僕、あそこから落ちたことがあるんだよね。縁側の板をレールに見立てて電車の玩具で遊んでいて、夢中になるあまり、どすんって」
「えっ、怪我とかしなかった?」
「落ち方がよかったみたいで、擦り傷ができたくらいで済んだらしいよ」
「誠太は何歳のときにこの家に預けられたんだっけ?」
「四歳から五歳までの、一年弱。小さかったけど、わりといろんなことを覚えてる。特に縁側から落ちたことは、僕のせいで母さんとおばあちゃんが口論みたいになったのがショックで、だから記憶に残ってるのかも」
「ああ、罪悪感って強いよね。全然消えてくれない。私も子どものときにグラスを落として割っちゃって、それを一歳だった美遥のせいにしたこと、いまだに覚えてるよ」
「それは、あとから美遥ちゃんに白状した?」
「ううん、言ってない」
「言ってないんだ」
 誠太は息を吐いて笑い、ポケットからスマホを取り出した。そのままカメラのレンズを縁側に向ける。耳に飛び込んできた小気味いい効果音に、私は声を上げそうになった。写真を撮る彼を目にするのは久しぶりだ。誠太はカメラの設定やアングルを変えながら、五、六回、シャッターを切った。私も写ろうか? と提案するか迷ったけれど、今は被写体になることを求められていないような気がして、結局言わなかった。
「よし、駅に戻ろうか」
「もういいの?」
「うん。満足した」
 誠太にもう一度タクシーを呼ぶかと尋ねると、徒歩で駅に行くほうが、タクシーが迎えに来るよりも早いかもしれない、と返ってきた。駅までは、歩いて三十分程度で着けるらしい。運動のためにもタクシーは呼ばないことにして、スマホの地図アプリを頼りに街を進んだ。足を動かすにつれて、体温が上昇するのを感じる。店がぽつぽつと建ち並ぶ、比較的活気づいている大通りに出たときには、寒さは気にならなくなっていた。
 商人屋敷のような駅舎が遠くに見えてきたところで、
「実家には本当に顔を出さなくていいの?」
 と、誠太に確かめた。旅行を提案した最初の段階でも、私はまったく同じことを尋ねている。今日はこのあとバスに揺られて、温泉地のへ向かう予定だ。宿もそこで予約を取っている。でも、バスではなく電車に乗れば、誠太の実家にも一時間強で行けるはずだった。
「うん、いい」
「そう?」
 誠太は滅多に帰省しない。親とは連絡自体をあまり取り合っていないみたいだ。これは、誠太が男だからなのだろうか。もしかしたら、三年前に隼太くんが結婚して、実家が二世帯住宅に建て替えられたことにも理由があるのかもしれない。誠太に弟がいることを、私は恋人になってからもしばらく知らなかった。兄と弟でなかたがいしている印象はないけれど、陽気で人懐っこい隼太くんと誠太では、まあ、気が合わないだろうな、とは思う。
「今回は旅行で来たんだから、実家に帰るのはまた今度にするよ」
「今度って、いつ?」
「志織は僕の実家に行きたいの?」
 そういうわけではないけど、と言いかけ、口をつぐんだ。夫の両親から干渉されないのは楽だ。孫をかされたことがない現状も、恵まれている。不快な思いをさせられたことがないからこそ、私には義父母に嫌われたくない気持ちがあった。親族になった者として、最低限の付き合いは果たしたい。群馬に来て墓参りをして、それでいて二人に会わないのは、さすがに気が引けた。
「せっかく近くまで来たんだからっていう感じかな」
「近くっていうほど近くはないよ」
 誠太はなぜかまゆを下げて困ったように笑うと、温泉、楽しみだな、と言って、駅に向かう歩調を速めた。


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